「完璧な人生だった」年収1000万超えのビジネスマンが少年33人の命を奪う“殺人ピエロ”に堕ちるまで

「完璧な人生だった」年収1000万超えのビジネスマンが少年33人の命を奪う“殺人ピエロ”に堕ちるまで

アメリカ史上「最悪の連続殺人犯」…ジョン・ウェイン・ゲイシーの生涯をたどる @getty

「あのメス豚、やっと死にやがった!」給付金欲しさに娘を“薬漬け”にした48歳母親の無残な最期 から続く

 数いる凶悪殺人犯の中でも「アメリカ史上最悪」と恐れられるのがジョン・ウェイン・ゲイシーだ。殺害した少年の数は33人、自宅からは29人分の遺体が見つかったことで世間を震えさせた。一体、何が彼の殺人衝動を突き動かしたのか?

 犯罪大国アメリカで実際に起きた凶悪殺人事件の真相に迫る、 同名の犯罪ドキュメンタリー番組 を書籍化した『 トゥルー・クライム アメリカ殺人鬼ファイル 』(平山夢明監修)より一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/ #1 、 #2 を読む)

◆◆◆

■父親から“欠陥品”扱いされた少年時代

 特技の手品を生かし、言葉巧みに若い男性や少年を自宅へ誘い込んでは殺戮を繰り返していたのが、ジョン・ウェイン・ゲイシーだ。

 ゲイシーが弄び、殺害した犠牲者は、判明しているだけでも33人にのぼる。これはその当時のアメリカ史上最多の犠牲者数である。

 1942年3月17日、ジョン・ウェイン・ゲイシーはイリノイ州シカゴで、カトリックを信仰する両親のもとに生まれた。

 父親のジョン・スタンリーは、昔気質の機械工で気難しい性格の持ち主だった。彼は生まれつき脳内に腫瘍があり、その影響から突発的に情緒不安定に陥ることがあり、妻や子供たちに暴力を振るうことも珍しくなかったという。

 一方のゲイシーもまた、生まれながらに心臓疾患を抱え、運動を制限されていた。そんな我が子を“欠陥品”ととらえ、失望したスタンリーは、いっそう息子への虐待をエスカレートさせていく。

 蔑まれ、怒鳴られ、革のベルトで何度も殴られる毎日。それでもゲイシーは乱暴で横暴な父親を愛し、すべては酒の仕業であると飲み込んで、一切の抵抗をしなかった。

 そんな父親からの暴力に耐え、病のため入退院を繰り返しながら育ったゲイシーは、18歳になると民主党候補者の選挙運動を手伝い始めた。この頃から自分の考えをしっかり意思表示するようになっていたゲイシーは、父親と口論の末、とうとう家出を決意する。

 シカゴから怒りにまかせて車を走らせること、およそ3000km。気がつけばネバダ州のラスベガスにたどり着いていたゲイシーは、ある葬儀社の霊安室スタッフとして職を得た。父親のもとに戻る気がない以上、とにかく仕事に精を出すしかない。

 ゲイシーは次々と運ばれてくる遺体のそばに簡易ベッドを置いて、昼も夜もなく働きつづけた。

 ある晩のことだった。自分と同世代とおぼしき男性の遺体が運ばれてくると、ゲイシーは不思議な感情にとらわれ、棺を開けてその体を抱きしめた。

 衝動的な行動だったが、すぐに我に返ったゲイシー。自分のとった異常な行動が恐ろしくなり、その翌日、彼は3ケ月ぶりに帰宅した。

 ゲイシーはその後、ビジネスの専門学校を卒業して、靴メーカーに就職。営業マンとしての働きぶりは高く評価されていたようで、すぐに管理職候補となり、やがて部長にまで昇進した。

 また、ゲイシーはアメリカで有名なリーダーシップトレーニング団体である青年会議所「ジェイシーズ」に参加し、たった数年で地域の副会長にまで上りつめるなど、頭角を現している。イリノイ州で3番目に優秀なメンバーとして表彰を受けたほどで、順調にその才覚を発揮していった。

 一方、プライベートでは1964年に元同僚だったマリーン・マイヤーズと結婚。2人の子宝にめぐまれた。

 マリーンの父親が所有していたフランチャイズの飲食店、3店舗の経営を兼務し、ゲイシーはここでも優れたビジネス手腕を発揮する。日本円でおよそ1300万円を超える年収を得るなど、経済的な成功を収めた。

 後にゲイシーはこの時期を振り返って、「完璧な人生だった」と語っている。確かにこの時期、ゲイシーの人生が最高潮にあったのは間違いないだろう。

■「完璧だった人生」が狂う時

 明確に歯車が狂いだしたのは、2人目の子供が生まれた翌年、1967年の夏のことだった。

 ゲイシーは青年会議所のメンバーの息子で、15歳の少年ドナルド・ヴォルヒーズを「うちで映画を見せてあげるよ」と自宅の地下室に連れ込んだ。

 映画の準備をしている段階から酒を飲ませ、映画が終わる頃にはドナルドが酩酊状態に陥っているのを確認すると、ゲイシーは少年の手に現金を?ませ、性交を強要した。

 しかし翌1968年3月、ドナルドがこれを告発。ゲイシーはたちまち逮捕された。

 隠蔽工作を画策したゲイシーだったが、別の被害証言も明らかとなり、禁固10年の有罪判決を受けることになる。

 それまでの模範的な父親像からすれば、家族や周囲の驚きは相当なものだっただろう。判決に合わせ妻のマリーンが離婚を申し出ていることからも、ショックの度合いが窺える。

 獄中で家族も仕事もすべて失ったゲイシー。しかし彼は、「ジェイシーズ」の刑務所支部の活動を本格化させ、受刑者の待遇改善に貢献するなど、いつしかリーダー的存在へと上りつめていった。

 日頃の模範的な態度もものを言ってか、ゲイシーは10年の刑期満了を待たず、1970年6月、わずか1年半で仮釈放が認められる。ゲイシーの服役中、父ジョン・スタンリーは亡くなっていた。

 しばらく飲食店でアルバイトをしながら当座の生活費を稼ぎ、足りない分は母親からの資金援助を受けながらどうにか生活していたゲイシーだが、そのうちシカゴ近くに牧場を購入し、そこで暮らすようになった。

■初めての殺人で感じたオーガズム

 新しい生活をスタートさせたゲイシーは、1971年に建設会社を設立する。

 部屋のリフォームからコンクリートの流し込み作業、さらには造園業まで精力的に仕事をこなし、業績を順調に伸ばしていった。

 ただし、性的嗜好は変わらない。彼が雇用する作業員たちは皆、自分好みの若い男性ばかりだった。

 そして、会社の設立から1年も経たないうちに、ゲイシーはまたしても一線を越えてしまう。

 1972年1月。母親や親戚とニューイヤーパーティを過ごした後、ゲイシーは一人で車を走らせていた。

 その途中、バスターミナルのベンチに少年が座り込んでいるのを見つける。彼は名をティモシー・ジャック・マッコイと言い、新年の休みを利用して一人旅をしている最中だという。

「だったら、シカゴの観光ツアーへ行かないか? 今晩はうちに泊まればいいよ。明日の朝、バス停まで送っていってあげるからさ」

 ゲイシーは満面の笑みでそう言って、ティモシーを車に乗せた――。

 翌朝、人の気配を感じて目を覚ましたゲイシーは、寝室のドアのそばに、ナイフを持って立ち尽くすティモシーの姿を見て、ベッドから跳ね起きた。

 身の危険を感じたゲイシーに対しティモシーはナイフをこちらに振り上げてきた。その切っ先が自分の腕をかすめた瞬間、ゲイシーは“やらなければやられる……!”と危機感を強めた。

 とっさにティモシーの頭を?み、無我夢中で壁に投げつける。深刻なダメージを受けたティモシーは、そのままよろけてうずくまった。

 ゲイシーは必死に彼の腹を蹴り上げ、落ちていたナイフで何度も彼の体を刺す。

 やがてティモシーの目から光が消え、喉の奥からボコボコと溺れるような音を鳴らし、全身の力を失っていった。

 その瞬間、これまで感じたことのないオーガズムがゲイシーの脳裏を駆け巡った。極上の快感。この感情は何だろう?

 ぜえぜえと息を乱しながら、血まみれの両手を洗い落とそうとキッチンに入ったゲイシーは、そこで部屋に充満する美味しそうな香りに気がついた。

 食卓には2人分の食器が並べられ、その上には目玉焼きとベーコンが載っている。

 そう――ティモシーは朝ごはんの支度ができたことを知らせるため寝室にやってきただけだったのだ。ナイフも振り上げたのではなく、危害を加える意志はないという意味で、両手を上げようとしただけなのだ。

 しかし、悔やんでも後の祭り。ティモシーの命は返ってはこない。

 それよりも、寝室の遺体をどうにかしなければならない。ゲイシーはすぐに倉庫からコンクリートを作るための資材を運び込み、床下に通じる扉から遺体を入れた。そしてその上からコンクリートを流し込むと、ティモシーという少年の存在をこの世から完全に消し去ってしまったのだった。

 あとに残ったのは、ティモシーの喉元から漏れ出したボコボコという音と、それに伴うとてつもない快感の残滓。これが、怪物が目覚めた瞬間だったのかもしれない。

 ゲイシーの日常は続いた。

 1972年に再婚。経営する建設会社の業績は右肩上がりで、彼の年収もすでに、以前、フランチャイズの飲食店を経営していた頃を超えていた。

 仕事が増えれば、従業員も増やさなければならない。ゲイシーは従業員の多くを高校生など若い男性で構成した。

 そして、しばしば従業員を自宅に招いては、金銭的な援助をチラつかせてセックスを持ちかけていた。

 他方では、ボランティア活動にも積極的に参加していた。ゲイシーは「ポゴ」や「パッチ」というピエロのキャラクターを創り出して、小児病棟に入院する子供たちの前や、チャリティイベントでパフォーマンスを披露した。

 そしてその水面下でゲイシーは、活発に殺人を楽しむようになっていた――。

■33人もの少年を殺害

 1976年から1978年にかけての約3年間、ゲイシーは主に10代の青年をあの手この手で家に連れて帰り、手錠で身動きが取れない状態にしてレイプする所業を繰り返していた。

 1975年の2度目の離婚も彼に拍車をかけ、アルコールやドラッグの摂取量は激的に増えていたという。

 その手口は決まっていて、ピエロの話題を持ち出して、手錠のパフォーマンスを披露するというものだった。

 最初に自分に手錠をかけさせ、指の間に隠し持っていたカギで脱出して見せる。驚く相手に、「どうやって抜け出すのか教えてあげよう」といって手錠をかける、という寸法だ。

 そして強制的な性行為を楽しんだ後は、布を巻き付けたり、紐と棒を使ったりして、獲物の首をゆっくりと絞め上げていく。

 さらに、ゲイシーはその遺体を次々に自宅の敷地内に埋めている。スペースがなくなってからは、遺体を川に廃棄するなど、犯行は次第に大胆になっていた。

 ゲイシーが最後の獲物と出会ったのは、1978年12月11日のことである。

 ターゲットとなったのは、ゲイシーの会社の面接を受けにきた、15歳のロバート・ピエストだった。ゲイシーはひと目で彼を見初めたのだろう。

 果たして、ロバートはいつもの手口の餌食となり、33人目の犠牲者となってしまう。

 しかし、アルバイトの面接へ行ったまま行方不明になれば、さすがに足がつく。

 心配した家族は警察に通報し、当然のごとくゲイシーに疑いの目が向くことになった。ましてやゲイシーには犯罪歴があるのだ。

 自宅にやってきた警官に対し、ゲイシーは「面接を終えた後のことは知らない」と突っぱねたが、疑いは晴れない。警察は、ロバートが監禁されているのではないかと考え、彼の身辺を徹底的に洗い出した。

 すると、ゲイシーが近所のガソリンスタンドの店員に薬物を手渡していた事実が突き止められ、彼は再び逮捕されることとなる。

 同時に家宅捜索の令状をとった警察は、ゲイシー宅からドラッグ用の注射器のほか、同性愛に関する本やポルノ映画、男性器の模型などを発見。さらに世間を震撼させたのが、床下などから29人分の遺体が見つかったことだった。

 高さ1mにも満たないゲイシーの一戸建ての床下の空間に、青年たちの遺体が、時にコンクリートに固められ、時に土壌に埋められる形で所狭しと並んでいたのである。

 ゲイシーは、遺体の分解を進め腐敗臭を隠すべく、多量の石灰を撒いていたが、役に立つはずもなかった。

 捜査員たちは、次々に遺体や遺骨が発掘される惨状と、気を失うような悪臭に酷く悩まされたという。

 地下水が滲みだす土壌には有毒ガスが発生し、屍?(脂肪が特殊に変性し半固形化したもの)化が進んだ肉塊も散見された。

■史上最悪の殺人犯ゲイシーの「最後の言葉」

 これを機に明らかになる、ゲイシーの犯行の数々。

 32人を殺害しても捜査の手が及ばなかったことから、彼は「自分はこのまま逃げおおせられる」と確信していたようだ。

 33人もの若い命を奪ったゲイシーは、裁判所から死刑宣告を受ける。

 彼は無罪を主張し、たびたび上訴しているが、1994年5月10日に刑は執行された。

 なお、伝えられるところによれば、ゲイシーの最後の食事はフライドチキンとフライドポテト、そしてダイエットコーク。

 最後の言葉は「Kiss my ass」であったという。

犯罪ドキュメンタリー・トーク番組「トゥルークライム アメリカ殺人鬼ファイル」

(「トゥルークライム アメリカ殺人鬼ファイル」プロジェクト)

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