「どういう感情になるか試したかったんだ」15歳で祖父母を銃殺…後に母、同僚、女子学生6人を殺めた鬼畜の凶悪人生
2022年06月20日 18時00分 文春オンライン

写真はイメージです。 ©istock
15歳で祖父母を射殺、社会に戻ってからは女子学生を中心に8人の命を奪った凶悪犯「エドモンド・ケンパー」とはどんな人物だったのか?
犯罪大国アメリカで実際に起きた凶悪殺人事件の真相に迫る、 同名の犯罪ドキュメンタリー番組 を書籍化した『 トゥルー・クライム アメリカ殺人鬼ファイル 』(平山夢明監修)より一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目/ #2 、 #3 を読む)
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■不幸の始まりは「父親の家出」だった
カリフォルニア州バーバンクで電気技師として働くエドモンド・エミール・ケンパー2世のもとに、待望の長男が誕生したのは1948年12月18日のことだった。
夫妻の喜びを表すかのように、「エドモンド・エミール・ケンパー3世」と命名された長男。5歳上の長女と、やがて誕生した2歳年下の次女を含めた5人家族の生活は、にぎやかで幸せなものをイメージさせるかもしれない。
しかし実際は、決して心の休まることのない、不穏な日々の連続だったという。なぜなら、母親であるクラーネルは情緒が不安定で感情の制御が利かず、それゆえ夫婦喧嘩が絶えなかったからだ。
ケンパー3世(以下、ケンパー)が7歳になった頃、そんな日常に音を上げた父親が、ついに妻と子供たちを残して家を出て行ってしまう。これが本当の不幸の始まりだった。
父親が去った後、一家はモンタナ州に移住。ケンパーは幼心に「父に見放された」との絶望を深く抱き、情緒の落ち着かない母親のもとで、鬱屈した日常を送ることになる。
クラーネルはアルコールに溺れ、家庭は荒むばかり。彼女はやがて、3人の子供のうちケンパーはいつか、2人の娘を襲うのではないか――。どこか陰気な息子を見て、そんな疑心暗鬼に駆られたクラーネルは、夜になるとケンパーだけを暗い地下室へ連れて行き、そこで眠るよう命じたのである。
真っ暗な地下室で毎夜、独りぼっちで朝を待つことになったケンパー。学校でのケンパーはおとなしい性格の持ち主であったと言われるが、それもこうした家庭での扱いにより、心を閉ざしていったからなのかもしれない。ケンパーだけを虐待するようになった。
■ケンパーと妹が楽しんだ「奇妙な遊び」
やがて、そんな彼の明らかな奇行が目に付くようになる。最も象徴的なのが12歳頃に行なっていたという“ガス室遊び”である。これは妹に「死刑執行人役」を演じさせ、目隠しをした自分が死刑囚を演じるという奇妙な遊びだ。
妹に連れられて椅子に座ったケンパーが、カタカタと椅子を震わせて恐怖に怯える様子を演じる。そして妹がレバーを引く仕草を見せると、今度は毒ガスによって悶え苦しむ様子を見せる。この演技は、彼が息絶えるシーンまで続いた。
ガス室遊びは次第にエスカレートし、悶え苦しむプロセスで、我を忘れたかのように妹の人形を切り刻んだこともあった。
自らの死を演じ、人形を相手にした疑似殺人を愉しむ。そんな奇行の矛先は生身の動物にも向かっていた。飼っていた1匹の猫を生き埋めにして殺めたのは、彼が10歳の時だった。
こうなると、命を殺めることへの衝動は止まらない。13歳になる頃には、ナイフで猫を刺し殺すようになっていた。
もしかするとケンパーは、そんな秘めた狂気がやがて実母であるクラーネルに向かうことを恐れていたのかもしれない。15歳の時、ケンパーは自らクラーネルのもとを離れ、父親の家に身を寄せている。
しかし、すでに再婚して新たな家庭を築いていた父親は彼を歓迎しなかった。父親はケンパーを祖父母のもとへ連れて行き、そのまま置き去りにしてしまう。つまり、彼はまたしても父親に見捨てられたのだ。
これが、さらなる悲劇の引き金となる。
ケンパーの祖父母は、カリフォルニア州ノースフォークで農業を営んでいた。
祖父母からすれば、突然やってきた陰気な雰囲気を纏う孫を、どう扱ったものかさぞ戸惑ったことだろう。それでも、いつも不機嫌そうな顔をしているケンパーの様子を、15歳という多感な時期ゆえのものと優しく受け止めようとしたようだ。
たとえばそれは、祖父がケンパーにライフル銃を譲り渡したことからも窺える。ライフルの引き金を引けば、少しは気晴らしになるのではないかと考えたのだろう。
■最初の殺人
1964年8月27日のことだ。些細なきっかけから、ケンパーは祖母と口論になった。
ライフルを持って狩りに出ようとするケンパーに対し、祖母が「鳥は撃ってはいけないよ」と話しかけたことが、彼には口喧しく感じられたようだ。
言い争いが始まるのを傍らで見ていた祖父だが、「いつものことさ」と意に介すことなく、場を諫めることもなく買い物に出かけてしまった。
やがて「思春期の男の子が考えることはわからないわ……」と、吐き捨てるように台所へ戻っていった祖母。ここで、ケンパーに何らかのスイッチが入ったのだろう。彼はライフルを持って庭へ出ると、窓越しに祖母を背後から撃ち抜き、さらにその後、台所にあった肉切り包丁で滅多刺しにする。
これが、自身初の殺人であった。後にケンパーはこの時の心境について、こう述懐している。
「祖母を殺すと、どういう感情になるか試したかったんだ」
ケンパーは血みどろの祖母を寝室のベッドに運び込むと、祖父の帰りを待った。
祖母の亡骸を見て、祖父は何と言うだろうか。当然、祖父は驚き、失望し、そして彼を激しく?責するはずだ。
そう考えたケンパーは、祖父が買い物から戻るのを待ち、次の殺人の準備にかかった。ほどなくして帰ってきた祖父がトラックの荷台から荷物を降ろしているところを、彼は躊躇なく銃撃する。
ケンパーは祖父の死体をクローゼットに隠した後、怒りの感情が払拭されたところで自責の念に駆られたようだ。すぐに母親のクラーネルに電話をかけ、自分の犯した罪を涙ながらに報告している。
そして自ら警察に電話をかけ、逮捕されることとなったのだ。
■収容期間はわずか5年
身長195cm、体重72.5kgという堂々たる体?ながら、この時点でケンパーはまだ15歳。少年裁判所は、一連の殺人を精神障害による犯罪と認定した。
そのため通常の刑務所ではなく、精神疾患が認められた犯罪者が収容される、アタスカデロ州立病院への送致が決定。そこでケンパーは、約5年の年月を過ごし、再び社会に放たれることとなる。
精神に闇を抱えていても、IQ145とも言われる天才的な頭脳を持つケンパーにとって、精神鑑定で恣意的に模範解答をはじき出すことなど造作もなかったに違いない。事実、彼は後に「精神テストでは自分に都合のいい鑑定結果が出るよう、答えを操作していた」と語っている。
出所にあたっては、カリフォルニア州サンタクルーズで大学職員として働いていたクラーネルが身元引受人となった。再び、母のもとで暮らし始めたケンパー。この時、彼の肉体は身長約2m、体重130kg超とさらに大きく成長しており、地元のバーでは「ビッグ・エド」の渾名を授かっていたという。
一方、母親との関係は日増しに悪化していく。そもそも心の奥底では恨みを抱いていた相手なのだ。
「毎日だらだらして。そんなんだから友達もろくにできないのよ」「本当に辛気臭い子ね。お父さんにそっくりだわ」「あなたみたいな人殺しを息子に持って、私の人生は台無しよ」
■2人の女子学生は殺害後、慰み者に…
クラーネルからそう毎日のように言われるうち、鳴りを潜めていた狂気がむくむくと頭をもたげ始める。
1972年5月7日。カリフォルニア州の高速道路局で働き始めていたケンパーは、ヒッチハイクをしている2人の女子学生を見つけ、にこやかに車に招き入れた。
仕事柄、周辺で人通りの少ない場所に精通していた彼は、彼女たちが求めるルートを大きく外れ、雑木林に入っていく。そして――。
彼女たちが身に迫る危険に気づいた時には、もう遅かった。
一方の女性に手錠をかけ、もう一方の女性をトランクに閉じ込めたケンパーは、あらかじめ用意していた刃物で2人を何度も刺し、最後は首を絞めて絶命させた。
2人分の死体をトランクに押し込んだケンパーは、その帰りの道中、警察に呼び止められている。
ところがこの時、警察官はケンパーの車のテールランプが壊れていることを指摘するだけで、立ち去ってしまった。よもや、トランクに血みどろの死体が2つ積まれているとは、夢にも思わなかったことだろう。
こうした悪運の強さに箍が外れたか、その後も同様の手口で犯行を重ねていくケンパー。手頃な女性ヒッチハイカーを見つけては車に乗せ、ナイフで体を刻み、首を絞め上げ、絶命後は屍姦してとことん弄んだ。
極めつけは、頭部だけを切断して持ち帰り、母親の寝室を仰ぎ見るような角度で庭に埋めていたことだろう。
その理由について彼は、いつも人目を気にしていた母親へのあてつけであることを明かしている。1年間で6人が犠牲となり、サンタクルーズの街は恐怖に怯えた。絶え間なく続く恐怖に、時のサンタクルーズ地区検事は我が街を「世界一の殺人の都」と表現したほどだ。
1973年4月20日。復活祭直前の聖金曜日であるこの夜、母親のクラーネルはパーティに参加してから帰宅した。
上機嫌で鼻歌を歌い、おぼつかない足取りが大きな足音を立てる。その物音は、就寝中のケンパーを目覚めさせるのに十分なものだった。
ケンパーはむくりと起き上がり、トイレで用を足すと、寝室へ戻る途中でクラーネルに「おやすみ」と声をかけた。
結果的にはこれが、母子にとって最後の会話となる。
ケンパーはクラーネルが眠りにつくのを待ち、午前5時頃、金槌を片手に彼女の寝室に忍び込んだ。
そして、気持ちよさそうにいびきをかくクラーネルの頭にめがけて、金槌を力いっぱい振り下ろす。
■死んだ母の舌と喉を切り出し…
苦しむ間もなく生き絶えた母親の首を、慣れた手つきで切り取るケンパー。母親を屍姦したうえ、彼はその頭部を棚に飾るように置き、思いつく限りの罵声を大声で浴びせ、独り悦に入った。
その後は母親の頭部を的にダーツの矢を次々に投げ、原型をとどめなくなったところで最後は舌と喉を切り出し、台所の生ゴミ処理器に廃棄した。
ボゴボゴとディスポーザーで粉砕される母親の舌と喉。長年にわたって自分を罵り続けた彼女の最期を、ケンパーはどのような思いで見ていたのだろうか。
必要な決別の儀式だったのか。それとも、我に返り後悔の念に駆られていたのか。
今となっては誰にもわからないが、後のケンパーの供述にはこんな発言が記録されている。
「ヤツのガミガミとうるさい声帯をディスポーザーに押し込んだら、途中で機械が詰まってしまい、おれをめがけて血膿が飛んできたんだ。……あの女は死んでも口喧しかったよ」
■偽装工作を目論んでさらに殺人を重ねる
しばらくして犯行の露見を恐れはじめたケンパーは、母親の同僚に電話をかける。
母親にサプライズパーティを仕掛けたいから家に来てくれないか、と。
だがパーティの予定などあるはずもなく、同僚が到着するなりケンパーは彼女を殺害。2人が旅行に出たと見せかけるため、偽装工作を目論んで犯した殺人だった。
母クラーネルの死体をクローゼットに隠し、同僚女性の死体はケンパーのベッドに寝かせ、彼自身はその晩、母クラーネルのベッドで眠ったという。
ケンパーは、しばらく逃亡を試みるが、3日後、突如思い立ったように公衆電話から警察に電話をかけ、自首している。
取り調べですべての犯行を詳細に自供したケンパーは、その過程でこう言ったという。
「もう、何も目的がなくなった。おかげで自分のやっていることがバカバカしくなり、疲れてしまったんだ」
母親に手をかけたことで、すべての目的を達成したということなのか。
かくして、サンタクルーズを恐怖のどん底に突き落としたシリアルキラーは、再び収容されることとなる。
なお、ケンパー自身は死刑を希望したが、この当時、カリフォルニア州では死刑が一時的に停止されていた(1977年に再開。2019年に執行を一時停止)。そのためケンパーは今もカリフォルニア州立医療刑務所に収容中である。
犯罪ドキュメンタリー・トーク番組「トゥルークライム アメリカ殺人鬼ファイル」
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(「トゥルークライム アメリカ殺人鬼ファイル」プロジェクト)
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