東京五輪スポンサーの責任逃れ…? 朝日新聞社説の“独特すぎる文体”に隠された「ずるい心理」

東京五輪スポンサーの責任逃れ…? 朝日新聞社説の“独特すぎる文体”に隠された「ずるい心理」

森喜朗 ©文藝春秋

 驚きました。何がって、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の「公式報告書」のことです。

 大会を総括しているのですが、森喜朗前会長のあの女性蔑視発言について次のように総括していたのだ。

《森喜朗前会長の女性蔑視発言を指すとみられる項目では「組織委がジェンダー平等や多様性と調和の重要さを再認識する契機となっただけでなく、日本社会全体の議論を活発化させた」と前向きに結んだ。》(毎日新聞 2022年6月23日)

 え? 前向きに結んだ? 森喜朗氏がジェンダー平等や多様性の「議論を活発化させた」って?

 これはひどい。あの発言ですら前向きに「報告」するのだから他は推して知るべし。報告書は自賛と言われても仕方ない。

■森喜朗発言よりも気になったこと

 さて、私はこの件でさらに気になったことがある。それは朝日新聞の社説だった。

『五輪の報告書 「財産」の名に値しない』(2022年6月24日)

 朝日社説は公式報告書を叱っている。かなり強い言葉が並ぶ。ちょっと抜粋しよう。

《お粗末で身勝手な内容だ。》《説明責任の回避に終始し、およそ人々の理解を得られる内容になっていない。》

 森喜朗前会長の女性蔑視発言に関しては、

《まるで功績であるかのような総括には、開いた口がふさがらない。》

 激おこです。しかし、この社説を読んでいて思うのだ。朝日新聞は東京五輪のスポンサーだったよね? しかもオフィシャルパートナーという「太い」スポンサーだったよね、と。せっせと五輪師匠の片棒を担いでいたではないか。

 ところがこの社説の他人事感はなんなのだ。スポンサー視点から一切触れていないのはなぜだ。本当はおいしいイベントだったと思ってません?

 報告書のひどさをこれほどまでに指摘するなら、逆に東京五輪に対して素直な恨み節があってもよかったと思う。「思っていたのと違った」「運営がひどかった」「金を出して失敗した」という社説ならば切実だったろうに。それをせずに他人事のように書いている。お粗末で身勝手な内容で、説明責任の回避に終始しているのは朝日社説も同じなのである。

■後手にまわった「アリバイ作り」

 今回だけではない。昨年、五輪開催が近づくにつれ、朝日社説が“アリバイ”を作ろうとする様は見ていて興味深かった。 拙著『お笑い公文書2022』 ではその迷走ぶりにも言及しているのだが、ここでちょっと紹介しよう。

 朝日新聞は昨年5月26日に五輪中止を求める社説を掲載したが、その道のりが野次馬の私にとっては面白かったのである。まず注目したのは、昨年5月14日の朝日新聞のオピニオン欄だ。慶応義塾大学の山腰修三教授(ジャーナリズム論、政治社会学)が五輪開催の是非について「朝日は立場を示せ」と書いたのである。

《5月13日現在、朝日は社説で「開催すべし」とも「中止(返上)すべし」とも明言していない。(略)社説から朝日の立場が明確に見えてこない。内部で議論があるとは思うが、まずは自らの立場を示さなければ社会的な議論の活性化は促せないだろう。》

 ああ、言われちゃった。しかもこのあと地方紙が五輪開催についての社説を掲載。

〈『東京五輪・パラ大会 政府は中止を決断せよ』(信濃毎日新聞2021年5月23日)

『東京五輪・パラ 理解得られぬなら中止を』(西日本新聞2021年5月25日)〉

 念のために言っておくと、私は五輪中止を訴えたから地方紙がすごいと言っているのではない。慶大教授が求めたように「自らの立場を示した」から熟読したのだ。これらの社説がSNSで拡散されたのも同じ理由からだろう。

 前述のとおり、朝日は昨年5月26日の社説で『夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める』と立場を示した。話題になったが、地方紙より遅れた。もちろん、社説はネタによっては論説委員が何日も何カ月も議論をして準備をしているだろうから慌てて掲載したわけではないとは思う。しかし絶妙に遅れた感があったのは事実。

■独特すぎる、朝日社説の言葉づかい

 さて、その点を頭に入れると、今度は朝日社説の独特の文体が面白くなる。東京五輪の開催中止を求めた日の社説に、こんな一節がある。

《社説は、政府、都、組織委に説明するよう重ねて訴えたが、腑に落ちる答えはなかった。》(2021年5月26日)

 ここで注目したいのは「社説は」という言葉づかい。自分のことを「社説」と呼ぶのです。なんかアイドルみたい。私はこの発見にワクワクしてしまった。

 この「社説は」という表現は、社内のほかの部署はともかく「私(社説)はずっと五輪に小言を言ってきたのだからね」というアリバイを主張しているように読めた。中止を求める社説を出したけど「別に遅くはないんだからね」という行間をビリビリ感じた。

■「社説は」という表現に隠された心理とは?

 ほかにも「社説は」という言葉づかいは、五輪関連の社説でよく登場していた。

〈《社説はパンデミック下で五輪を強行する意義を繰り返し問うてきた。》(2021年7月23日)

《社説は4年前、法律や条例の対象外である組織委にも、文書管理を徹底して国民への説明責任を果たすよう求めた。改めて念を押しておきたい。》(2021年8月7日)〉

「社説は」という自称が出てくるときは、つまり「感情」があふれ出ているとき。五輪関連の社説によく登場したということは、次のように考えられないか?

 朝日は五輪のスポンサーやってるけど、どうなんだよという世間の視線に対して「いやずっと前から私(社説)は小言を言ってますから」というアピールに懸命だったのだと。

 こんな読み方は意地悪でしょうか?

 そして今回の五輪組織委員会の「報告書」に対する他人事感あふれる社説です。

 私はマスコミが五輪のスポンサーになった意義に関する「報告書」もぜひ読みたいのです。お待ちしてます。

(プチ鹿島)

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