「家事を人任せにしてしまうと、自分自身をケアする意識が乏しくなる」 北村紗衣が語る、私たちが“自由に生きられない”ワケ

「家事を人任せにしてしまうと、自分自身をケアする意識が乏しくなる」 北村紗衣が語る、私たちが“自由に生きられない”ワケ

北村紗衣さん

 近年もっとも注目を集めるフェミニズム批評の旗手・北村紗衣さんが新著 『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』 を上梓した。性別による「らしさ」のイメージからマンスプレイニングまで、日本を覆うさまざまな社会的「檻」について語った。

■ジェンダー意識の偏りは日常においても「足かせ」

――日本人のジェンダー意識がつくりだしている様々な束縛をどうご覧になっていますか?

北村 「男らしさ」にしろ「女らしさ」にしろ、文化圏や時代によって「らしさ」のイメージはかなり異なります。日本で「男らしい」とされることが他の地域では男らしくないとされたり、逆もまたしかりです。私たちの多くが食事を食べるときに「いただきます」という習慣をもの心つく頃から身につけるとの同じような感じで、それぞれの生育環境で、ジェンダーによる「らしさ」のバイアスが刷り込まれています。

 たとえば、男はあまり感情を見せない、人前で泣いたりするものではないといったイメージは日本にも英語圏にもわりと広くあるものですが、日本ではそれだけではなく、夫は家のことには口を出さない、家のことは妻に任せきりにするのが男らしいという感覚が根強くあると思います。

 一方で家のことは細かく把握して家政を管理するのが優秀な夫とされる文化圏もあるし、男女の家事分担のあり方も文化圏によって異なります。家事を妻にまかせきりにした結果、妻が病気になったときに途方に暮れてしまったりして、当人の生活力そのものが奪われてしまうことがあります。それは日常生活においても生きるうえでも、足かせになっています。

■「自由にのびのび」育てるだけでは…

――「らしさ」のバイアスがじつは当人の能力を阻害してしまうという視点は興味深いですね。

北村 家事を人任せでほったらかしにしてしまう例でいえば、自分自身をケアする意識の乏しさと密接につながってくるように思います。自分にとって居心地のよい空間をつくったり、身体が喜ぶものを食べていたわる能力は、掃除や食事づくりといった幼少からの生活習慣ではぐくまれる部分も大きいですから。これには階級格差や経済格差も大きくかかわってきますが、ジェンダーの格差もあると思います。

 無意識のふるまいに対する問いを向けなければ、自然に身についた「偏り」には気づきません。子どもを「自由にのびのび」育てるだけでは、構造化された社会的なバイアスから自由に生きられないのです。

 自由にのびのびというのはある意味幻想で、社会的な要請やその家庭での習慣に従っているだけかもしれない――人は思っているほど自由でない、と認識したほうがいい。有害な「らしさ」に対する気づきがなければ、自分と他者を縛り付けている檻は打ち破れません。

■「それは男にも起こりますか?」という問い

――日本の女性たちをめぐる「らしさ」の檻で、とくに強く感じられるのはどんな点ですか?

北村 私が大学の教員をしていることもあり、とくに厳しい女性への縛りを感じるのは就職活動においてです。就活の指導にはものすごくジェンダー差があって、女性の側には、美しくお化粧をしなさい、面談では必ず膝をぴたりと閉じましょう、ヒール付きのパンプスを履きましょう等々、さまざまな押し付けがあります。それらを守らないと就職できないという恐れからみんな受け入れてしまっていて、日本企業も大学側も全員檻のなかに入って出ようとしない状況を感じます。

――いまの例でいうと、社会人としてのマナーの要素とジェンダー問題はどのように線引きしたらよいのでしょうか。

北村 その点に関してはイギリスのジャーナリスト、キャトリン・モランが『女になる方法――ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記』(青土社、2018)で明確なチェック法を打ち出しています。「それは男にも起こりますか?」と聞くことですね。つまり、社会的な常識の範疇なのか性差別なのか迷ったとき、これが男でも同じことが起こるのかどうかを判断基準にするんです。

――それは分かりやすいですね。

北村 これは地域差が大きいとは思いますが、たとえば子育てにおいて、一歩下がって相手を立てろとか、人の意見に表立って反論するなとか、それを「美徳」として女の子にだけ求めているとしたら性差別でしょう。

 様々な社会的な因習を解き放つことの難しさはよく理解できるので、やりたくない、やるつもりがないという人がいるのは当たり前ですが、少なくとも、そこから自由になろうとしている人の考え方や行動にたいして、中傷したり冷笑したりするような行為は慎むべきだと思っています。

■「マンスプレイニング」という言葉にたじろぐ男たち

――本書の中で、男性が女性にえらそうな態度で説教する「マンスプレイニング」についても鋭い指摘をしていますね。

北村 説教したがらない男たちもなぜ「マンスプレイニング」という言葉にたじろいでしまうのか、という観点から、言葉による「しるし」の有無が浮き彫りにするものについて論じました。

 たとえば「作家」に「女流」というしるしのついた「女流作家」という言葉はありますが、「男流作家」はありません。つまり、「女流」というしるしの有無で、デフォルトなのか例外かが区別されていて、この例では(作家といえば男性で)女性の作家は例外的だというニュアンスを含んでいます。

 マンスプレイニングや、マンスプレッディング(公共交通機関で男性が足を広げて座っている行為)は、「マン」というしるしによって、そんなふるまいは社会のなかで例外的なものであることを浮き彫りにします。

 男子文化のなかで大目に見られていた行為がじつは社会のデフォルトの礼儀ではないことを急に突きつけるような言葉に、男性たちはびっくりしてしまうのだと思います。

■名づければ、社会の檻をやぶる強力な道具に

――こうした言葉の概念が広がることで、いままで半ば無意識にとっていたような問題行動が可視化されますね。

北村 言葉によって名前をつけることはすごく大事なことです。たとえば「セクハラ」という言葉が広まったことで、それまで水面下で横行していたセクシャルハラスメントをあぶり出す契機となりました。無論、名前をつけた時点でそこからこぼれ落ちる要素もあるので、そこには自覚的である必要がありますが、言葉は社会の檻をやぶる強力な道具になります。

 2010年代以降の、性差別と人種や階級、ジェンダーアイデンティティなどとの交差を重視し、SNSを積極的に活用する潮流を第4波フェミニズムと呼びますが、情報メディアの発達により、だれでも発信できるようになった意義は非常に大きい。たとえば、MeToo にしろインターセクショナリティという言葉にせよ、ずいぶん前からスローガンとしてあったものですが、近年のSNSにおいて一気に認識が広がりました。

 私たちを縛り付けている社会の問題点を率直に批判し、風通しよく、誰でも話し合えるコミュニティをつくることが大切だと思っています。それは性別を超えて、すべての人が自分らしく楽に生きられる道だと思っています。

■人生を変えた映画、ディカプリオ主演の『ロミオ+ジュリエット』

――ここで、北村さんがシェイクスピア研究者でかつフェミニスト批評家という非常にユニークな立ち位置に至った背景を教えてください。

北村 本書で詳述しましたが、中学生のときにレオナルド・ディカプリオ主演の『ロミオ+ジュリエット』(96)を映画館で観て、ものすごく面白いなと思ったんですね。とりわけ印象的だったのが、クレア・デインズ演じるジュリエットが埋葬されている霊廟のシーン。悪い大人たちのせいで若者たちが死ぬ哀しい話なのに、当人たちにとっては死が結ばれる唯一のやり方で、それが圧倒的に美しい祝祭空間として演出されていた。不思議な表現方法だと思いました。

 私の人生を変えることになった映画ですが、同時期に『オセロー』や『ハムレット』を読み始めて、シェイクスピアの面白さに目覚めていきました。

――多感な思春期に、デヴィッド・ボウイをモデルにしたイギリス映画『ベルベット・ゴールドマイン』(98)からも強い影響を受けたそうですね。

北村 グラムロックがすごく好きだったので、70年代にクィアな(ジェンダーやセクシュアリティに関する一般的な決まりに当てはまらない)アーティストたちが作り上げた、こんなにも個性的で美しい、キラキラした世界があるんだと驚きました。私は北海道で生まれ育っているのですが、退屈な田舎で洋楽が生きる希望になっていた。こういう音楽をもっと聴き込んでいきたいと思ったのがのちにイギリスに留学した理由のひとつです。

■シェイクスピアの舞台劇

――東大ではシェイクスピア研究者として著名な河合祥一郎先生のもとで学んでいますね?

北村 河合先生の授業で舞台を見るようになって、演出や俳優たちの動きをこんなふうに分析できるんだと、非常に新鮮でした。人の感情を台本から読み取って舞台化するプロセスも面白くて、学部の3年生のときの面談で、「私はシェイクスピア研究者としてやっていけますか」と相談したほど。河合先生からは「まだちょっと早すぎる。いまからそんなことは考えなくていい」と言われましたが(笑)。

 その後大学院時代に運良く奨学金をもらえたのでロンドンに留学して、現地で一次史料を豊富に使える環境で、博士課程の研究に打ち込むことができました。当時は一流の劇団の舞台でも、ロンドンでは学生だと5ポンドとか10ポンドで観劇できて、様々なタイプの演出や演目に沢山触れられたのもすごく良かったです。

■ジェンダーやフェミニズムの視点からシェイクスピアを読み解く

――ジェンダーをめぐる視点はどのように深まっていったのでしょうか。

北村 当初、ジェンダーの観点からシェイクスピアの何にどう切り込むかけっこう試行錯誤していましたが、ちょうどファン研究がさかんになり始めた時期でした。私は田舎出身なのでファンコミュニティについて知ったのは大人になってからですが、ある作品が共同体のなかでどう受容され文化になっていくのか、女性ファンにフォーカスして作品研究をするアプローチがすごくしっくりきたんです。

 歴史的にみて、追っかけからはじまる名もなき女性ファンたちの活動がいかにシェイクスピアを正典化したのかを掘り下げたのが、博士論文であり単著のデビュー作となった『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社、2018)です。

 通常のフェミニスト批評は、作品のなかの男らしさ・女らしさの対立などを読み解いていったりするんですが、私にはファンコミュニティと作品の関係のほうが面白かった。研究ではそういうことをやりました。一方、「発想で飛ぶ」ようなアプローチで、緻密な学術研究ではできなさそうなことを批評でやりたいなと思い、在学中から、映画や舞台について自由にブログで書いてきました。

 いまでは年40本以上、さまざまな商業雑誌やウェブメディア、劇場パンフレットなどに寄稿していますが、そんな近年の論考から選りすぐった「裏ベスト」アルバムのような一冊が『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』です。

――ジュリエットがロミオにスピード婚を迫った訳とか、ケアの視点で読み解いた『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とか、まさに「発想で飛ぶ」スリリングな視点が満載でした。

北村 本書はジェンダーやフェミニズムの視点から、こんな解釈をしても面白いのでは?という私なりの提示です。必ずしもこういう解釈をしなくてもいいのですが、してもいいということですね。みんなが好きに読んで、好きに読み解いて、できれば好きに二次創作もやるような楽しみ方をしたらいいと思うんです。批評は、10人いたら10人の多様な解釈へと開かれています。社会のバイアスから解き放たれた思考で、空を飛ぶような楽しさを味わってほしい。

(撮影:深野未季/文藝春秋)

北村紗衣(きたむら・さえ)

 1983年、北海道士別市生まれ。武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評、舞台芸術史。東京大学の表象文化論にて学士号・修士号を取得後、2013年にキングズ・カレッジ・ロンドンにて博士号取得。2014年に武蔵大学専任講師、2017年より現職。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)、『批評の教室』(ちくま新書)など。

(北村 紗衣/ライフスタイル出版)

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