17歳、5歳、3歳、養女と知人の子を殺し…犯罪史上に残る“異様さ”「京都帝大農学部前4人殺し」

17歳、5歳、3歳、養女と知人の子を殺し…犯罪史上に残る“異様さ”「京都帝大農学部前4人殺し」

小笛事件の第一報は無理心中の見通しが先行していた(京都日出)

 今回の事件は、大正時代に限らず、日本の犯罪史上、空前の異様な事件といえるかもしれない。大正最後の年となった1926年の6月、京都市で女性2人、女児2人の死体が発見され、当初は他殺として容疑者の男性も逮捕された。

「(京都帝大)農学部前4人殺し」「北白川(女)4人殺し」と呼ばれたが、遺体の鑑定で「自殺」「他殺」の見解が対立。結局、法医学の権威たち8人による公式、非公式合わせて8通りの鑑定が提出されて話題を呼んだ。

 一審は自殺として容疑者男性は無罪となった後、控訴審では検事が論告で無罪を主張するという前代未聞の事態に。最終的には冤罪事件とされ、自殺した47歳の女性が、義理の娘や知人の娘を殺害。愛人である容疑者男性の犯行に見せかける偽装工作をしたとされた。

 どうしてそのようなことが起きたのか。新聞記事をベースに振り返ってみる。今回も文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。

■第一報から異様だった事件

 事件は新聞の第一報から異様だった。地元紙「京都日出新聞」(現在の京都新聞の前身の1つ)は6月30日発行7月1日付夕刊(当時の夕刊は翌日の日付をとった)で「農大正門前で 養女と知人の子 三人を殺して自ら縊死」という無理心中をうかがわせる見出しだが、最後の1本の見出しは「或(あるい)は犯人は他にあるか」。その後の事件の数奇な展開を予感していたかのようだ。

 京都帝大(現・京都大)農学部は事件から3年前の1923年、同大7番目の学部として発足したが、一般には「農大」と呼ばれていた。

〈 市内北白川西町、農大正門前、平松小笛(44)は養女、精華女学校4年生・千歳(17)と、かねて懇意である出町柳、大槻太一郎長女・喜美代(5)、次女・田鶴子(3)の3人を殺し、自分は縊死したことが、30日午後、喜美代の実母しげのが同家へ子どもを迎えに行って発見。大騒ぎとなった。所轄下鴨署刑事課から急行。目下取り調べ中だが、あるいは他に犯人があって、平松が殺したように見せかけているのではないかとの説もある。〉

 自殺、他殺の「両論併記」というのは現在の新聞では考えられないが、当時は公式の記者発表などはなく、記者が現場の刑事らから聞いた話を記事にしていたから、事実関係に誤りがあるのはもちろん、記者の推理や思い込みがそのまま紙面に登場したと思われる。

「北白川西町」は現・京都市左京区。「精華女学校」は現・京都精華学園中学・高校のこと。事件の全容が報じられるのは7月1日付朝刊。再び京都日出新聞を見よう。

〈農大正門前の四人殺し事件

犯人の手によつ(っ)て 自殺と見せかけた 府刑事課をはじめ市内の各署刑事班が大活動を開始す

 夕刊既報―30日午後、市内北白川西町、農大正門前、平松小笛(47)方で、同人の養女、精華女学校4年生・平松千歳(17)と、小笛の懇意な出町柳、大槻太一郎長女・喜美代(5)、次女・田鶴子(3)の3人が絞殺され、小笛は縊死していたという事件は、取り調べの結果、小笛とも4人が何者かのために絞殺され、龍野の事件のように、犯人の手によって小笛が3人を絞殺し、自分は縊死したもののごとく装っていたことが判明した。所轄下鴨署は捜査本部を同署に置き、府刑事課をはじめ、市内各署刑事班の応援を得て、折柄の梅雨をついて大活動を開始した。〉

「龍野の事件」とは1カ月余り前の同年5月17日、兵庫県龍野市の商家で58歳の当主と孫5人が殺害され、次男の妻が首をつって死んでいた事件。当初は次男の妻が6人を殺して自殺したと見られたが、捜査の結果、実は次男が6人を殺害。妻を自殺に追い込んだことが判明し、舞台劇にまでなるなど、話題を呼んだ。

■娘3人は死骸となって座敷に横たわり…

 さらに京都日出は、戸主である平松小笛の経歴をこう書いている。

〈 平松小笛は岡山生まれで5年前に京都に来て、大正10(1921)年11月、出町柳、大槻太一郎方の西隣で下宿屋を開いた。多く(京都)帝大の学生を止宿させていたが、昨年の3月、下宿屋を廃業し、現在の所に転居した。その間、吉田山吉田神社前でうどん屋を開業していたこともある寡婦(夫を亡くした女性)。大槻は元帝大工学部の助手で、小笛方の離れ座敷に住んでいた関係から懇意になった。喜美代、田鶴子の2人は生まれた時から小笛の世話になり、養女千歳と同様にかわいがられていた。喜美代は26日、小笛に連れられて行き、田鶴子は27日の日曜日、千歳が遊びに来てともに連れ立って行き、今回の災難に遭った。〉

 また、遺体発見までの経過も続く。それによれば、姉妹の実母しげのが29日に子どもを迎えに行ったところ、戸に錠が下りていたので、どこかへ遊びに行ったのだろうと、その日はそのまま帰宅。

 翌30日午前10時ごろ、再び行ってみると、相変わらず錠が下りているので不審に思い、空き家になっている隣から屋内をのぞいて見たところ、布団をかぶって横になっている足が見えるので、付近の者とこわごわ入ってみると、娘3人の遺体と縊死した小笛を発見して大騒ぎになったという。

 事件の捜査記録を基に書かれた山本禾太郎の犯罪小説「小笛事件」によれば、実際は小笛は愛媛県生まれ。京都日出には「兇行の現塲(場)」という記事もある。

〈 付近の人の話によれば、27日の日曜日は小笛や娘の姿は見たが、28日から錠が下りていたということから、惨劇は27日夜行われたもの。現場を見るに、中の間に千歳が布団をかぶされて横になり、奥の間に喜美代、田鶴子の2人が着物のままで打ち重なって倒れていた。〉

 遺体は死後3日間を経て死臭を放っていたという。京都日出はこの段階で無理心中を装った殺人との見方を示した。

 他紙も大阪朝日(大朝)が「京都になぞの四人殺 自殺と見せたらしい女主人の死體(体)」、大阪毎日(大毎)も「表戸を閉した家の中に 四つの怪死體 母とその養女と下宿人の三角關(関)係 京大出の情夫の仕業か」と、いずれも同様の見方の見出し。各紙とも容疑者を実名で登場させている。

■「容疑者と目されているのは…」

「醜關係を續(続)けていゐ(い)た元帝大生が犯人か 二少女は發覺(発覚)を怖れ絞殺?」が見出しの京都日出の記事の中心部分を見る。

〈 容疑者と目されているのは、下宿屋当時止宿していた帝大経済部選科卒業生、廣川條太郎(27)で、その当時から親子のような小笛と醜関係を結び、大正13(1924)年、大学卒業後、神戸の某会社へ雇われたのちも毎土曜日に来て泊まり込み、月曜日の朝早く神戸へ帰っていた。26日の土曜日も、いつものようにやって来たのを付近の人々は見かけたということで、てっきり廣川が絞殺したとみて刑事の一隊は神戸に急行した。〉

 名前を「広川条太郎」と記述した資料もあるが「廣川條太郎」で統一する。千歳も「ちとせ」と書いた新聞もあるが同様に「千歳」に。「選科」とは学課の一部だけを選んで学ぶ課程。「本科」と区別された。京都日出は「某会社」としているが、大朝と大毎は「神戸信託会社」(現在の三井住友銀行の前身の1つ)と明記。大毎は「廣川君は無関係と思ふ」という同社会計課長の談話を載せている。

「廣川君が入社してから、私とは兄弟のようにしている。まだ26歳で庶務課長の重職にあるが、独身で下宿生活を送っている。学生時代の下宿の話をよく聞いているが、小笛と情的交際があったようには思われず、事件に廣川君が関係あろうとはどうも思われぬ」

■「惨殺された原因はまだ不明だが、聞くところによれば、小笛は淫奔な女で…」

 だが、京都日出はその後、当時は常識だった、たぶん近所の口さがないうわさ話だと思われるような情報を書きつけていく。

〈 惨殺された原因はまだ不明だが、聞くところによれば、小笛は淫奔な莫連(すれっからし)女で、下宿屋開業当時、止宿していた大学生と関係を結び、金を巻き上げていたもので、付近の人々も「あの口八丁手八丁の淫奔者が殺されたか」と少しの同情もなく、養女千歳や大槻の幼い娘2人が巻き添えを食ったことには非常に同情している。廣川はこうした女に引っかかり、引きずられるままに今日に及んだが、最近結婚問題が起き、そのことを小笛に話し関係を断とうと持ち出したところ、小笛は最後の手を出して莫大な手切れ金を要求。それを出さねば、どこまでも結婚の邪魔をするとふてくされたので、廣川もついに殺意を生じ、27日夜、寝静まってからまず小笛を絞殺したところ、その騒ぎに千歳をはじめ喜美代、田鶴子が目を覚ましたので、日頃から顔を知られている彼は、他日発覚の危険を恐れて3人とも絞殺したらしい。一説には、親娘と三角関係を結び、痴話げんかのすえ、小笛を殺し、次いで3人の娘を殺したのではなかろうかともいわれている。〉

 他紙もほぼ同様で、相当無責任な報道だが、当時はこうしたことがまかり通ったのだろう。廣川は判決文によれば、1899年7月生まれなので、事件当時は満26歳。小笛は、山本禾太郎「小笛事件」によると、1880年8月生まれで当時満45歳。19歳差の「醜関係」だったことが記者の筆を走らせたのだろうが、怖いのは、こうした事件のイメージが読者に植えつけられて、長く尾を引くことだ。

■「忌まわしい異性との関係なんか、絶対にないことは私が保証します」

 京都日出には千歳の受け持ち教諭の談話も載っている。

〈 私もただただ承って驚いているような始末です。千歳さんは体の弱い子で昨年以来心臓を悪くし、毎日青い顔をしており、従って学校も試験も休みがちなので成績は中ぐらいです。何でも話に聞けば、岡山からもらわれたそうで、平素から境遇の幸福でないことを悲観していたようです。ちょうど2週間前から学校の方は欠席しており、2〜3日前、学校気付で私宛てに「病気がまだ治りませんから、もうしばらく休ませていただきます」という手紙をよこしましたのが本人の絶筆だったのです。性質が内気なだけに、余計にかわいそうでなりません。しかし、忌まわしい異性との関係なんか、絶対にないことは私が保証します。〉

 遺留品に関する短い記事も京都日出にある。小笛の布団の下から廣川の名刺と他の3人の名刺が発見されたとした。この点も廣川の犯行か小笛の偽装工作か、裁判で検察、弁護側の意見が対立する。

■「自分と小笛と恋愛関係なんかさらにありません」

 京都日出には千歳、喜美代、田鶴子の3人と現場の写真が載っているが、他紙と合わせて小笛の写真はない。この7月1日付朝刊で目を引くのは、大阪毎日(大毎)が廣川の居場所を突き止め、直当たりしていること。「戀(恋)愛關係はない 廿(二十)六日夜は神戸にゐた」が見出しの記事で、廣川はこう語っている。

「25日の金曜日、平松母子は自分の家に私を訪ねて、その晩1泊し、翌朝自分と一緒に京都に行った。今の家を引っ越したいと言うので、3人連れ立って下鴨辺りを足が棒になるほど探し回った。そして、私はその夜(26日)神戸に帰ったのです。どうしてこんな変事が起こったのでしょうか。自分と小笛と恋愛関係なんかさらにありません」

 記事は廣川が「半ば冗談のように笑った」と締めくくっている。小笛との関係はもちろんうそだったうえ、後で廣川は、実際に家探ししたのは27日だったなどと証言を変更。事件当時、現場にいたとされて窮地に追い込まれる。

■「四人殺しの容疑者 廣川早くも捕わる」

 7月1日発行2日付夕刊各紙は一斉に廣川の逮捕を報じた。京都日出は2面トップで「四人殺しの容疑者 廣川早くも捕は(わ)る」の見出し。

〈 農大前4人殺しの容疑者である帝大経済学部卒業生、廣川條太郎(27)については、府刑事課から直ちに神戸へ逮捕に向かったところ、早くも風を食らって逃走しようとし、30日夜、神戸駅から東京行き列車に乗り込み、東上しようとした途中、1日午前0時47分、京都駅に着いたところを、張り込み中の刑事班に逮捕された。直ちに自動車で下鴨署の捜査本部に護送。村上刑事課長以下、徹宵(夜を徹して)取り調べがあった。廣川はねずみ色の洋服にパナマ帽を目深にかぶり、ロイド眼鏡を掛け、赤色の短靴を履いていた。青ざめた顔色をしながら刑事連に左右の手を捕らえられ、刑事室の奥深く姿を消したが、すらりとした痩せ型の美男子である。〉

 各紙には廣川の写真が掲載されている。京都日出の記事は「逃走途中」と書いているが、実際は事件の知らせを聞いて、神戸から京都の現場に向かう途中だった。

 廣川を「犯人」とする論調は、別項記事の「眞(真)犯人として既に確定か」の見出しでもはっきりしている。そうした見方の根拠となった事実が同じ京都日出に載っている。

〈解剖の結果は絞殺と判明 小笛の死因遂に確定

 死体解剖は小南博士執刀の下に行われ、まず小笛より着手し、(午前)11時半ごろ終了。次いで養女千歳に着手したが、小笛の死因は、昨日来にらんだ通り、何者かが絞め殺し、縊死したもののように装っていたことが判明した。〉

「小南博士」とは小南又一郎・京都帝大医学部教授。海外留学の経験も豊富で「実用法医学」などの著書もあり、日本法医学会会長も2度務めるなど、法医学の権威だった人物だ。この事件で最初の鑑定となった彼の判断が捜査と裁判の行方を大きく左右することになる。

■「何たる悪魔、何たる残忍性」

 ただ、当時の新聞を見ていると、小南教授の鑑定以前に「帝大卒業のエリートによる年上の女の殺害と隠蔽工作」、さらには「母親と義理の娘との三角関係の清算」という、メディアの喜びそうなシナリオができつつあったことは確か。それが鑑定に何らかの影響を及ぼしたことも否定できない気がする。

 その表れの1つとして、同じ京都日出1面の「それから…」というコラムにはこんな記事が。

「北白川の4人殺し、母親と娘の恋愛合戦で、マンマと丹治郎になりそこなった情夫。手ぬぐい4本でけりをつけた。何の罪もない2児を道連れにするとは、何たる悪魔、何たる憎むべき残忍性」

「丹治郎」は「丹次郎」の誤りで、江戸末期の人情本である為永春水の「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」の主人公で多数の女性に貢がれる柔弱な男「夏目丹次郎」のこと。「手ぬぐい」は凶器を指しているが、千歳と幼児2人は確かに手ぬぐいだったが、小笛は兵児帯。

 それにしても、警察もまだ断定もしていない段階で「悪魔」呼ばわりは、人権への配慮など皆無に近かった当時としてもひどい。

 ひどいのは、もう1つの地元紙・京都日日新聞(京都新聞の前身の1つ)も同様だ。同じ7月1日発行2日付夕刊は1面ほぼ全部をつぶしてこの事件を報じたが、主見出しは「果然、情夫の廣川捕はれ 兇行の一端を口外」。

 記事本文はと見ると、取り調べを受けた廣川について「1日午前7時ごろまでには依然犯行を否認し、係官を手こずらせ、午前9時ごろに至って、ようやく犯行に近い事実の一端を固い口からすべらせた」とある。ところが、別項記事でも「ついに犯行の一部を自白したもののごとく」と記しているのに、その「一端」「一部」が何なのかを書いていない。

■「机の上に3通の遺書がしたためてあるのを発見」

 そんな中で同じ日付の大阪朝日(大朝)には遺書のことが載っている。

「奥六畳の間の机の上に3通の遺書がしたためてあるのを発見。封筒在中のものは便箋に『私のものは友一(小笛の実子)に与えずにください……。私はこれから遠い山へ行きます』という意味がしたためられ、この用箋に小判型の『廣川』という捺印がしてあった。他の2通は千歳が友達に別れを告げる手紙体にしたためてあったが、いずれも千歳の筆跡に合わせて犯人がわざと書いたものらしい」

 記事の内容は不正確だが、この遺書も事件の大きなポイントとなる。

「何しろ遺体がひどく腐敗していたので…」20代京都帝大卒エリート愛人に“女性4人殺害”をかぶせた47歳女性の心象 へ続く

(小池 新)

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