「俺ってすごい」とアピールせずにいられない…“マウンティングしたがる”男たちの生々しい欲求の正体とは

「俺ってすごい」とアピールせずにいられない…“マウンティングしたがる”男たちの生々しい欲求の正体とは

酒井順子さん ©文藝春秋

 飲みの席で上司や先輩の自慢話を延々と聞かされ、うんざりした経験のある人は多いのではないだろうか。相手より自分を優位に見せようとする行為は、一般的に「マウンティング」と呼ばれて敬遠されている。

 ここでは、エッセイストの酒井順子さんが、移ろいゆく“恥の感覚”を様々な角度から読み解いた一冊『 無恥の恥 』より一部を抜粋。“俺の凄さ”自慢をせずにはいられない人たちを見つめた「男の世界」を紹介する。(全2回の1回目/ 後編を読む )

◆◆◆

■男の世界

 同世代の男性達何人かと、久しぶりに集った飲み会でのこと。中には、いわゆる出世をしている人もいれば、そうでもない人もいたわけですが、「あ」と思ったのは、前者から滲みでてくる“出世臭”のようなものでした。「俺が手がけた仕事」とか「こんな偉い人とも親しくしている」とか「モテたりもしているのだ」といったことを会話の端々に挟み込んでくるのみならず、さほど出世していない人に対しては、アドバイスのようなものまで。

 50代にもなると、会社員の人生においては、この先どの辺りの立場まで行きそうかが見えてきます。出世に成功している人からは自信が溢れ、そうでもない人は「俺が出世していない背景には、様々な不運や仕方のない事情があって……」という説明をしたがる。

 男女共同参画云々(うんぬん)と言っても、会社という場はいまもって、男の世界です。そして男の世界では延々と、こんな風に上だの下だのとやっていたのだなぁ。……という感覚は、自由業の私にとって新鮮でしたが、新鮮であると同時に、恥ずかしくもあったのです。

 出世した男が醸(かも)し出す“出世臭”も、出世しなかった男が醸し出す“言い訳臭”も、昔の友人としては、特に見たくはないものでした。しかし「俺は出世した」という事実も、「出世しなかった理由」も、彼等にとっては久しぶりに会った昔の友人にアピールせずにはいられないところだったのでしょう。単に昔を懐かしむ感覚で参加した私は、いきなりその生々しい男の欲求の放出に接して、赤面したのだと思う。

 出世自慢はわかりやすいとしても、出世しなかったことについての弁からは、痛々しさも漂います。自分のせいではなく、周囲が悪かったから満足のいく地位を得られていないのだとか、これからもっとデカいことをしてみせるといった発言に対しては、

「ふーん……」

 としか言いようがない。「俺、別に出世とか興味ないし」などと言いながらも、「本当は出世したかった」という気持ちが滲むところが、恥ずかしい+悲しい……で、はずかなしい。

 出世するのも大変でしょうが、上手に出世しないでいるのもまた難しいのだなぁと、私は思ったことでした。全く出世しなくとも、楽しそうに淡々と、そして周囲から愛されつつ組織の中で生きている人はいます。彼等の場合、本当に出世には興味が無さそう。「出世をしないことへの言い訳」などもしないので、安心して見ていられるのだと思う。

 その飲み会では最後、最も出世している人が、全員分を奢(おご)ってくれました(たぶん経費)。

「えっ、仕事じゃなくてプライベートの会なんだから、割り勘でいいんじゃないの?」

 と私は思ったのですが、他の男性達は平然と奢られています。割り勘を主張しづらいムードがあったので、私も何となく奢られたのですが、釈然としない気持ちが残りました。

 が、後から湧き上がってきたのは、「ああ、あれが『マウンティング』というものなのかも」という気持ち。女性の世界では、しばしば「私の方があなたより上よ!」という優位性アピール、すなわちマウンティングが行われると言われますが、それは男性の世界でも同じ、というよりも、それはそもそも男性の方が得意な行為です。出世した男性は、「奢る」ことによって、優位性アピールにとどめを刺したのでしょう。

■「俺の凄さ」自慢

 昔から男性の世界では、女性の世界よりもずっとあらわに優位性が可視化されていました。どれほどの社会的地位を得たか、どれほどのお金を儲けたかという、ぱっと見てわかる評価軸が、彼等の世界には存在しているのです。そして、お金をたくさん儲けたりすると、美しい妻などの素敵なオマケも、ついてくる。

 対して女性の世界では、それらの評価軸が今一つ見えにくい時代が続きました。カオの美醜やモテ具合、夫の地位や経済力、自身の地位や経済力、子供の偏差値……等、細かい物差しがたくさんあるために、複雑なテクニックを使用して「私の方が上」というちまちましたアピールをしてきたのではないか。

 久しぶりに男の世界を見て、彼等の「俺の方が上」と知らしめたいという気持ちは、今も昔もさほど変わってはいないのだなぁ、と思った私。IT化だのグローバル化だの草食化だの、様々な変化が男の世界に訪れていても、「上に行きたい」「上であることを自慢したい」という欲求は、そう簡単に消えるものではないらしい。

 女の世界では、同い年くらいの友人達が集まった時、もし一人が高い社会的地位を得ているお金持ちだったとしても、

「ここは私が」

 と、全員分を支払うということはありません。そこには専業主婦もいればパート主婦もいれば派遣社員もいる、となった時に、もしも一人が奢ったりすれば、あからさまな収入自慢になってしまいます。背景にデリケートな事情があるからこそ、実際の経済状況はどうあれ、女性同士の場合は割り勘が常。その点、男性の方が「上の人にひれ伏す」ことには慣れているのかもしれません。

 兼好法師も「徒然草」において、男の「上自慢」に対する嫌悪感を示しています。たとえば飲み会の席において、「わが身いみじき事ども、かたはらいたくいひ聞かせ」るような人を、悪様(あしざま)に書いているのです。

「わが身いみじき事」とは、自分の優れている部分のこと。「かたはらいたし」とは、傍(かたわら)にいるのが恥ずかしくなってしまうような感覚の意ですから、まさに「聞いているのが恥ずかしくなるほど、自分自慢をしてしまう人」に、兼好法師は呆れているのです。

 飲み会の席で、「俺の凄さ」について語らずにいられない人は、このように昔から存在していました。そしてそれを傍で聞いている人は、昔から「恥ずかしい」と思っていた。

 嫌味たっぷりに兼好法師が書いているにもかかわらず、今に至るまで「俺の凄さ」を語らずにいられない男性は、存在し続けています。ということは、その手の人はこの先もすぐにはいなくならないに違いない。

 徒然草で「俺の凄さ」を語る人に対するうんざり感が記されるのは、一箇所ではありません。別の部分では、自らの知識を披露せずにいられない高齢者に対して、「いかがなものか」と書いています。年をとったならば、たとえ知っていることについてでも、

「今は忘れにけり」

 などと、つまり「もう忘れちゃったなぁ」と言っているのがよいのだ、と。

 これもまた、現代に通じる部分です。出世自慢をすることができる現役のうちはまだいいとしても、華やかなりし過去のことを語らずにいられないリタイア世代を、しばしば見るもの。

 今、企業戦士としての武勇伝を下の世代に語らずにいられないおじいさん達は、自分達が若い頃、かつて日本軍の兵士だったおじいさん達から戦争時代の武勇伝を何度も聞かされてイライラしていた世代。人のフリを見ていても、なかなか我がフリを直すようにはならないのであって、

「今は忘れにけり」

 の域に達するのは、よほど難しいことなのでしょう。

■焦燥感からのアピール

 兼好法師が田舎の人に対して厳しいことは以前もご紹介しましたが、徒然草を読んでいますと、「俺って凄い」と言わずにいられない人には、ある種の法則があてはまる気がしてきました。高齢者や片田舎の人というのは、いわば中央から外れたところにいる人。その手の人ほど、「俺の凄さ」を語らずにはいられないのではないでしょうか。

 中央の、さらにど真ん中にいる人であれば、その偉さや凄さを自分でアピールしなくとも、他人が無条件で認めてくれるもの。しかし既に社会の中枢にいるわけではない高齢者、はたまた地理的に中央ではない所から来た人などは、その「中央から外れている」という焦燥感からつい、アピールをしてしまう……。

 現代においても、同じ事が言えましょう。高齢者の過去の栄華自慢は言わずもがな。京都の人は今も、

「東京の人って、ほんまに京都が好きやなぁ。私らよりも、よっぽど京都のことをよく知ってはるわ〜」

 などとニヤニヤしながらおっしゃるものですが、それも東京という片田舎から出てきた者ほど、「自分はこんなに京都のことをよく知っている」と、京都の人の前で怖いもの知らずの自慢をしがちだからなのです。

 考えてみれば冒頭に記した飲み会において、出世臭を漂わせつつ奢ってくれた人も、出世したとはいっても、まだポジション的に上り詰めたわけではありませんでした。本当に組織の中枢部に行くことができるかどうかは、これから決まるという感じ。その中途半端さ故に、彼は「俺って偉いんだよね」という主張をしたかったのでしょう。

 本当に頂点まで行った人からは、えてして「俺って偉いんだよね」という出世臭は漂わず、無臭なものです。ま、トランプさんとかは違うのでしょうが。

 また最初から出世することが当たり前の立場にいる人、たとえば歴史あるオーナー企業の創業家に生まれた息子のような人で、出世自慢をする人も、見たことがありません。彼等にとって、出世は当たり前。若くして責任ある地位を任されるわけですが、皆どこか含羞(がんしゅう)をもって、その地位に就くものです。

 対して庶民からのたたき上げで、頑張って地位を得た人にとって、その地位は珍しい玩具のようなものなのでしょう。彼等が玩具を見せびらかす様は子供のようで可愛らしくもあるのですが、しかし実際は既におっさんであるため、可愛さよりも恥ずかしさが勝ってしまうのです。

 兼好法師も、そういった意味では非常に恥ずかしがり屋でした。彼は、出世コースに乗ることが叶わずに、出家した人。おそらく出世への願望も持っていたはずで、だからこそ他人の自慢が気になるのではないか。

 彼は、

「他にまさることのあるは、大きなる失なり」

 とも書いています。他人より優れたところがあるというのは大きな欠点なのだからして、そんなところは忘れていた方がいいのだ、と。

 それはよくわかるけれど、なかなかそうはできませんよね、ということは、兼好法師自身が示しています。随筆などというものを書くこと自体が自慢行為に他ならない上に、徒然草には、あからさまな自分の自慢話もたっぷりと書いてある。「俺って凄い」ということを言わずにいるのは本当に難しいことなのだと、この随筆は表現しているのです。

■女性からも出世臭

 今は、男性達にとってはつらい時代です。「女は、男を立てるもの」と女性達が教わっていた時代は、「俺って凄い」というアピールを男性がしたなら、優しい女性が、

「わー、凄ーい!」

 などと、心地よい合いの手を入れてくれたはずです。そんな女性達が存在し続け、男性を甘やかし続けてきたからこそ、彼等はアピール行為の恥ずかしさに気づかずにきたのです。

 しかし時代は変わり、女性は自分も「立て」てもらいたくなっています。そんな時に男性からアピールされても、せいぜい、

「そうなんだ……」

 と、スマホをいじりながらつぶやくくらい。明らかに、男性が期待している反応ではありません。

 今は、男性が下手に自らの優位性を誇示してしまうと、セクハラやパワハラにも問われかねなくなっています。本当に「恥ずかしい」ことになってしまう可能性もあるのであって、アピールもまた慎重にしなくてはならない。

 男も女も無い、という今の時代。……ではありますが、その差異は確実に存在し続けているのだと、私は思います。恥の感覚についても男女で異なるのであって、中でも特に異なるのが、こういった「凄さ」「偉さ」にまつわる部分なのではないでしょうか。

 多くの男性達は、何だかんだ言ったところで、周囲から「凄い」「偉い」と思ってもらいたいという希望を持っています。だからこそアピールをするのでしょうが、そこから「この人、偉いって思ってもらいたいんだな」という意図が丸見えになっていることは、気にしない模様。

 私の親世代では、そんな意図を十分に承知した上で、女性が男性を「立て」ていました。我が両親などもそうでしたが、妻が少しでも夫を立てることに失敗すると、

「俺に恥をかかせた」

 などと怒り出す夫もいたもの。そこで怒るということ自体、自分の力で立っていないことの証明となって恥ずかしくないのかしら。……などと私は子供として思ったものですが、その頃の男性には、女性から立たせてもらっていることが恥ずかしいという感覚は、なかったようなのです。

 対して女性の場合、男性のように「偉い」「凄い」と思ってもらいたいという感覚は薄いのではないか。……とも今までは思っていたのですが、しかし最近は、そうでもないような気がしてきました。高キャリアで高収入の女性が増えてきた昨今、彼女達からも非常に男っぽい出世臭が漂っているのを感じることがあるのです。また既にリタイア世代となった元キャリアウーマンからは、かつて偉かったおじいさんによる栄華自慢と同じ臭いが感じられることも……。

 ということは、その手のアピールは、何も男性特有の行為ではないのでしょう。今までは、仕事の世界に進出している割合が少なかったので、マウンティング遊びで満足していた女性達。しかし仕事という土俵に立って成功すると(本物の土俵には入れませんが)、やはり「偉い」「凄い」と、言ってもらいたくなるのです。

 女性の出世臭を嗅いだ時、加齢臭は中高年男性特有のものだと思って安心していたら、

「女性でも臭う人、いますよ」

 と言われた時のような、そこはかとないショックを受けた私。やっぱり既に、男だからとか女だからといった差異など消滅しているのかもしれず、自分もその手の臭いを漂わせないようにせいぜい気をつけなくては、と思うのでした。

「腹立たしげに断られたら」「善人ぶってると思われたら」日本人が“人前での親切”という羞恥プレイに不慣れな理由 へ続く

(酒井 順子/文春文庫)

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