「あの少女はナパーム弾ではなく、火鉢の事故で燃えたんじゃないか」…報道写真「戦争の恐怖」がアメリカ軍に“フェイク扱い”された事情

「あの少女はナパーム弾ではなく、火鉢の事故で燃えたんじゃないか」…報道写真「戦争の恐怖」がアメリカ軍に“フェイク扱い”された事情

世界を震撼させた写真「戦争の恐怖」はなぜ“フェイク扱い”されたのか? ©getty

「助けて、孫を助けて」老女の手には全身火ぶくれで皮膚もずるりと剥けた3歳の少年が…悪魔の兵器“ナパーム弾”の最悪 から続く

 世界を震撼させた報道写真「戦争の恐怖」――ナパーム弾の爆撃直後という衝撃的な瞬間を、カメラマンはなぜ撮ることができたのか?

 その経緯を、朝日新聞記者の藤えりか氏の新刊『 「ナパーム弾の少女」五〇年の物語 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■人間を高温で焼き尽くす「ナパーム弾」

 キム・フックは、あの爆撃の日に具体的にどんな服を着ていたか、実ははっきりとは覚えていない。だが薄手の服だったのは確かだ。

 熱帯モンスーン気候の南ベトナムは年中暑く、雨季にあたる6月は湿度も高い。子どもたちをはじめ地元の人々は、風通しがよくゆったりした薄手のコットンの上下を着るのが通常だ。キム・フックも当時、そんな服を着ていた記憶がある。かつ、身体にぴったりと密着させるのではなく、空気をはらませるようにふわっと着ていた。

 それが、不幸中の幸いだったのではないかと言われている。薄手の服は、逃げる際に風を取り込み、落ちてきたナパームの炎によって瞬時に剥ぎ取られた。もし、たとえばきっちりとした服をタイトに着ていたりしたら、燃えさかるジェル状のナパーム剤が衣服ごと身体にはりついて離れず全身に火が回っていたかもしれない。

 ジャンを抱きかかえた南ベトナム兵らが、そうして命を落とした。

 ナパーム弾は、ガソリンに化学物質などを混ぜて粘度の高いジェル状にし、対象にへばりついて、摂氏1000度以上、時には3000度近くの高温で焼き尽くす爆弾だ。燃焼時には大量の酸素を使うため、炎から逃れたとしても、酸欠による窒息や一酸化炭素中毒で死亡する可能性もある。

 この恐るべき爆弾が誕生したのは、第2次世界大戦のさなかの1942年。米ハーバード大学教授ルイス・フィーザーらが米政府と進めた極秘プロジェクトの中で生み出された。

 41年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受け、米国は第2次世界大戦に参戦した。フィーザーらは米陸軍大佐の命を受け、ドイツ軍が英国で、日本軍が中国で使用したレベルを上回る焼夷兵器の研究開発を加速させてゆく。翌42年7月4日の独立記念日、ハーバード大学の構内にあるサッカー場で初の屋外実験が実施された。

■日本人も犠牲に

 開発の初期段階でナフテン酸(naphthenic acid)とパルミチン酸(palmitic acid)を主成分とするヤシ油を混ぜたことから、ナパーム(napalm)と命名された。

 米軍は核兵器開発の傍ら、焼夷兵器としてのナパーム弾の実戦での精度を高めてゆく。日本とドイツで使用した場合の効果を測るため、米ユタ州の砂漠でドイツ風家屋と日本風の木造家屋を建設、畳を含めた家具調度も含めて再現しながら実験を実施。6分以内に消火不可能に陥った割合は、日本家屋がドイツ家屋をはるかに上回る、という結果が出た。

 45年2月には米英の連合軍がドイツの古都ドレスデンに、翌3月には米軍機B29が超低空飛行で東京に焼夷弾を浴びせた。この「ドレスデン爆撃」では約2万5000人が、「東京大空襲」では10万人以上が犠牲になる。終戦まぎわの硫黄島の戦いや沖縄戦では火炎放射器として、洞窟などに隠れる市民や日本兵に浴びせられた。

 ナパーム弾の開発はその後も進んで威力が高まり、50年に勃発した朝鮮戦争でも市街地が火の海と化した。その後、さらに大量に投下されたのがベトナム戦争だ。

 米軍は64年には、ガソリンに混ぜる化合物をポリスチレンやベンゼンに変えた新たな「ナパームB」を開発する。従来よりも粘着性が高く、燃焼温度は摂氏2000度以上になり、燃焼時間も従来の15〜30秒から10分へと長くなった。米ダウ・ケミカルなどが開発した新兵器は、原材料などを日本も供給したとされ、ベトナムに次々と持ち込まれた。

 爆撃機が低空飛行をしながら投下して強い衝撃を加えることで、ナパーム剤はより激しく燃え人体に張りつき、炎も深部までゆきわたる。キム・フックはそうしてV度の熱傷を負い、神経も毛包も汗腺もダメージを受けた。

 その非人道性から、米国では反戦運動が高まるとともに、ダウ・ケミカルなどへの抗議も強まった。ベトナム反戦を唱えた公民権運動家のキング牧師も67年の演説で、「ナパーム弾で人間を焼く行為」と強く批判している。

 一方、小説『怒りの葡萄』で知られるノーベル文学賞作家ジョン・スタインベックは、ナパーム弾の威力に別の意味でこだわった。

 スタインベックは66年1月、当時の米大統領リンドン・B・ジョンソンの特別補佐官にあてた書簡で「現代の最も恐ろしい兵器はナパーム弾だと考えている」としたうえで、こんな提案をした。「野球のボールくらいのサイズと重さのプラスチック球体にナパームを詰め込んだ、ナパーム手榴弾」、名づけて「スタインベック・スーパーボール」の開発提案だ。スタインベックは書簡でさらに、「起爆装置のパワーは非常に小さくても可能だ」「袋いっぱいにボールを詰めて、危険に遭うことなく運べる」「13歳以上の米国人で、内野から本塁まで正確に投げられない少年はいない。空き地で野球をした経験のある大人ならもっとうまくやれる」と得々とつづっている。

 つまり、ナパーム弾に警鐘を鳴らすどころか、絶賛だ。書簡は「この提案を(大統領に)通してもらえますか?」と、前のめりに一押しする言葉で結ばれている。スタインベックはこの時、次男が米軍に徴兵されていた。

■火傷で瞼が閉じられなくなった女性も

 ナパーム弾は、日本で45年に1万6500トン、朝鮮半島で3年強で3万2357トン、最終的にインドシナ半島では63〜73年に38万8000トンが米軍などによって投下されたという。戦争を追うごとにパワーも量も増していった形だ。

 米紙ニューヨーク・タイムズは、ナパーム弾を浴びたベトナムの女性が、火傷で瞼を閉じられなくなり、夜は目元を毛布で覆って眠るしかないといった話も伝えている。

 一般市民への被害が深刻になるにつれ、反戦運動やナパーム弾使用への批判も強度を増し、米軍によるナパーム弾使用は徐々に減っていた、とニューヨーク・タイムズは72年6月時点で書いている。代わりに、米軍がベトナムに持ち込んだナパーム弾を投下し続けたのが南ベトナム軍だ。キム・フックのケースがまさにそれに当たる。

 国際連合は80年、人口密集地域へのナパーム弾などの使用を禁止する「特定通常兵器使用禁止制限条約」を採択、83年に発効した。だが、その後も各地の戦争や紛争で使用された疑念が、人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」や米ハーバード大学ロースクール国際人権クリニックなどから取り沙汰されている。

■「あの日までは、とても幸せな子どもだった」

「あの日までは、とても幸せな子どもだった」とキム・フックは何度も述懐している。

 一家の5番目の子どもとして彼女が生まれたのは1963年4月6日。南べトナムではその頃、米国を後ろ盾とするゴ・ジン・ジエム大統領の仏教弾圧が深刻となっていた。翌5月、仏教弾圧に抗議するデモを行った非武装の仏教徒が治安部隊に銃撃される。6月には僧侶が路上で抗議の焼身自殺をし、当時AP通信の写真記者だったマルコム・ブラウンがその瞬間を撮った写真が配信され、世界に衝撃を与えた。

 その後もベトナム情勢は混迷を深め、戦争は深刻さを増したが、彼女自身はそれをじかに意識することもなく、日々を過ごしていた。あの日までに負った最もひどいけがは、自転車で転んで膝をすりむいた程度だ。

 自宅は、あのナパーム弾爆撃を受けた寺院の近く。その数年前に新築したばかりで、門扉がついてバルコニーもある、一帯では目立つ邸宅だった。地下には、爆撃から身を守るための地下壕も備えていた。

 その費用を主に稼いだのは母ヌーだ。彼女は一帯で評判の麺店を切り盛りし、一家を支えていた。

 母は幼少時代、学校に行くことも叶わず、スープを作っては売る暮らしを余儀なくされた。その分、出汁をとる腕前は超一級。結婚まもない51年、父トゥンが「君のスープはとてもおいしい。みんな、お金を払って食べたいと思うんじゃないか」と提案したのをきっかけに、手打ち麺のバインカンや、すりつぶした米と豚モツのお粥を出す屋台を始めた。案の定、人気店となり、父も釣った魚や野菜を焼いて出すようになる。国道沿いの好立地に、80人の客が入る規模の店を構えるようになり、木彫りのテーブルや椅子もしつらえた。

 60年代に米ケネディ政権が軍事支援を拡大したことで、ベトナムの景気もよくなっていく。チャンバンにも米兵が続々とやって来て、母の麺店は大繁盛した。

 自宅の敷地内では100頭以上の豚や鶏、アヒルを飼い、グアバやバナナ、ドリアンなどの果樹も植えた。キム・フックが学校から帰ると、熟れたグアバを木からもぎ取り、友だちと頬張る日々。母はほぼ毎晩、麺店からごちそうを持ち帰り、新鮮な果物とともに家族で囲んだ。

 キム・フックは、漢字で表すと「金福(キム・フック)」。その名の通り、お金にも食べ物にも困らない暮らしを送った。「家の入り口を入るたび、お姫様のような気持ちになれた」と彼女は振り返る。

 だが、それだけ裕福そうな邸宅だっただけに、次第に解放戦線の兵士に目をつけられる。

 チャンバンはカンボジア国境にも近く、南東にサイゴンへ続く主要ルートもあり、解放戦線には拠点としておさえたい地域だ。

 ある朝、祖母タオが敷地内で、解放戦線兵士のものと見られる足跡を見つけた。以来、72年春頃にかけて次第に、解放戦線の兵士らが何かと姿を現すようになる。薬や包帯、米、石鹸などを分けるよう言われたり、一行を寝泊まりさせろ、負傷した仲間をかくまえ、などと求められたりするようにもなった。

 逆らえばどんな目に遭うかわからない。かといって、解放戦線に協力したと見られれば、南ベトナム政府からは厳しく処罰されてしまう。

■母の店を巻き込んだ爆発テロ

 そんな中、事件が起きた。

 母の麺店に、結婚を祝うグループがやって来て宴会を開いた。彼らがテーブルで盛り上がり始めた頃、店の前に自転車が止まった。ほどなく、自転車にくくりつけられた爆弾が爆発する。店中が血の海となり、客ら19人が死亡した。

 解放戦線のテロだったとみられる。母はけがはしたものの、幸い命は助かったが、人々が吹き飛ばされる凄惨な一部始終を目の当たりにした。

 母はその後、南ベトナムの警察に拘束された。爆弾を逃れて助かったことから、「解放戦線の一味に違いない」と嫌疑をかけられたのだ。最終的に、父がツテなどを頼って働きかけたこともあって釈放されたが、拘束は1ヵ月ほど続き、厳しい尋問を受けた。

 戦いが続く中、南ベトナム政府は反政府活動を厳しく取り締まっていた。

 ベトナム南部コンソン島には、「虎の檻」と呼ばれる監獄がある。フランス植民地時代から続く政治犯の収容所だ。灼熱地獄にさらされ、凄惨な拷問が行われたことなどから、そんな別名がついた。その非人道性から、かえって反政府派を増やし、ひいては解放戦線の勢力を強める結果になったと言われるほどだ。政府に疑われた人は、悪くすればこの監獄島に送られる可能性もあった。

 一方で、解放戦線に睨まれたらただちに「処刑」されかねないという恐怖も、一家は店の事件でまざまざと見せつけられた。

 母は求められるまま、解放戦線の兵士らを密かに敷地内に招き入れ、豚肉やキャッサバ芋、果物などを料理して出し、寝床も提供した。

 解放戦線の兵士は普段、木々の陰や山間地に身を潜めていることから、一家は彼らを陰で「森の人たち」と呼んだ。

 小学校の教師をしていた長姉ロアンはさらに、「森の人たち」の要員として狙われてゆく。解放戦線の兵士には読み書きができない人も少なくなく、教師はうってつけの連絡役として駆り出された。

 父は、特に夜間は家にいないようにした。大人の男性がいれば、解放戦線の兵士の手先としてさらに使われ、従わないと殺されかねない。一家は、家には母や子どもたち、年老いた大おじしかいないかのように振る舞った。

「森の人たち」はついには自宅の敷地内で、逃走や輸送に使うためのトンネルまで掘り始めた。もしものために地下壕も設けていたのに、自宅はもはや安全な場所ではなくなった。解放戦線の兵士らは、家の前で目立ってたむろするようにもなる。

■戦争で家から出る事態に

 72年6月6日、まだ辺りが薄暗い早朝、キム・フックは、辺りをはばかる母の声で起こされた。

「おいで、出かけるよ」

 キム・フックは寝ぼけまなこで答えた。

「なぜまだ出かけていないの?」

 いつもなら母はこの時間には、麺店の開店準備のため出かけているはずだったからだ。母は「静かに」と娘を追い立てた。

 近くの寺院に向かったのは、避難先としてベターだと思っただけでなく、後で荷物を取りに行ったり家畜の様子を見に戻ったりしやすいと考えたためだ。

 この4時間ほど前にすでに、解放戦線の兵士らはトンネル掘削を続けるため自宅に現れていた。ちょうど、家族を連れて避難しようと準備していた母は、「家に入れてあげますから、私たちは出てもいいですか」と穏やかに懇願した。だが解放戦線のリーダーは「今出て行かれたら、我々の居場所が南にバレてしまう」とピシャリとはねつけた。結局、「我々がトンネルを掘り終えるまで3〜4時間待て。そうしたら行っていい」と言われ、4時間待つことになる。ついに家を出てもいいと言われた母が、子どもたちを起こしたのだ。みんなで持てるだけの物をかき集めて抱えた。

 家を出る時、あらゆる扉が家からなくなっているのにキム・フックは気づいた。解放戦線の兵士らが取り外したのだ。外に出ると、銃を構えた解放戦線の男性だらけだった。

 彼女は急に怖くなった。その手を母はしっかりと握り、一家は寺院をめざした。父はこの時も不在だった。

 寺院に入ると、薄暗い外とは打って変わった鮮やかなオレンジやターコイズブルー、赤紫、金色の色彩が、彼女の目に飛び込む。龍のデザインが施された柱や、大理石の床に目を奪われ、怖い気持ちも和らいだ。寺院の離れに寝泊まりすることになったが、南ベトナム兵の姿も目にし、なんとなく安心できた。

 寺院の外が騒がしくなり、そばにいた南ベトナム兵が「逃げろ!」と叫んだのはその2日後のことだった。

 キム・フックが生死の境をさまよっている間、ニックが撮った写真が世界中のメディアに配信された。

 米紙ニューヨーク・タイムズは米国時間の翌6月9日付一面に、日本では朝日新聞が日本時間の同日付夕刊3面に、「ナパーム弾の誤爆」といった見出しで掲載。終わりの見えないベトナム戦争の凄惨な現実を世界に知らしめた。

 ナパーム弾はベトナムの各地で降り注がれ、おびただしい数の犠牲を出したが、投下の瞬間に報道陣が居合わせ、連続写真や動画として記録した点でも稀有だと言える。

■なぜニックの写真だけが際立ったのか?

 それにしても、報道陣は他にも複数いたのに、ニックの写真が際立ったのはなぜか。

 米誌ライフ向けにベトナムで取材を続けていたデヴィッド・バーネットは1972年6月8日、まさにニックの隣でカメラを構えていた。そうしてまずは、キム・フックより前に飛び出してきた人たちの撮影にフィルムを費やす。その後、キム・フックらが駆け出してきた時、バーネットは30秒くらいかけて、次のフィルムを装填していた。当時のフィルムは手動での巻き戻しで、交換にも時間がかかったのだ。

 ニックも、持ってきたカメラ4つのうち、3つはフィルムを使い果たしていた。フィルムを入れ替える時間はない。瀕死の孫ジャンを抱えた祖母タオに続き、キム・フックらが姿を現したのを見て、ポケットから4つ目のカメラ、ライカを取り出した。そうしてあの瞬間がニックの手で記録された。

 他にも撮った記者はいたが、「裸の写真は使えない」と判断されたようだ。使われないフィルムは廃棄の憂き目に遭ったらしい。

 ビデオ動画としては、ITNのクリストファー・ウェインが撮ったカラー映像が残った。その瞬間に何が起きたかを後世に残した貴重なカラー動画だ。長年、ドキュメンタリーやテレビ番組などで繰り返し引用され、ナパーム弾のリアルな脅威を生々しく語り継ぐのに欠かせないフィルムとなる。だが、当時はカラーテレビが急速に普及し始めた頃で、一般には動画を気軽に見られる状況にはなく、世界的には、ニックの1枚の写真のインパクトがまさった。

■写真の真偽を疑ったニクソン大統領

 写真の反響の大きさに、真偽を疑う人物まで現れた。時の米大統領、共和党のリチャード・ニクソンだ。

 ナパーム弾の写真が米メディアを席巻した3日後の12日、ニクソンと、米大統領主席補佐官ハリー・ロビンズ・ハルデマンとの間で交わされた会話が、ホワイトハウスの大統領執務室での録音として残っている。

 ベトナム反戦運動を勢いづかせたナパーム弾の写真について、ニクソンは右腕のハルデマンに言った。

「あれは修正じゃないか?」

 ハルデマンは「あり得ますね」と応じた。

 ニクソンを米国史上初の大統領辞任に追い込んだウォーターゲート事件は、この5日後に起きた。ハルデマンも、この事件で共同謀議や偽証罪などに問われ、服役している。

 1972年6月末まで米陸軍参謀総長を務め、ベトナム戦争で米軍の指揮を執っていたウィリアム・ウェストモーランドも後日、「あの少女はナパーム弾ではなく、火鉢の事故で燃えたんじゃないか」と言ったと報じられた。

 ナパーム弾を浴びれば助かるわけがない、と思ったゆえの発言だった可能性もあるが、写真をフェイク呼ばわりする形だ。

 幸い、あの現場には大勢の報道陣が居合わせ、ニックの前後の連続写真も、ウェインの動画も残っている。

 さらには米NBCが後年、米軍の記録とも照らし合わせて、ニックの写真にはなんら疑いがない、と報じた。

 AP通信のホルスト・ファースがある日、ウェストモーランドをつかまえて真意を問いただそうとしたことがあるが、はねつけられたという。

 だがウェストモーランドは、ベトナム戦争を描いた米アカデミー賞受賞ドキュメンタリー『ハーツ・アンド・マインズ』(74年)で、カメラを前に「東洋人は西洋ほど、人命を重視しない。東洋では人命は十分にあって、その値段も安い。彼らの価値観として、命は重要ではない」と語った人物ではある。

 ニックの写真は73年春、ピュリツァー賞をニュース速報写真部門で受賞した。史上最年少、かつベトナム人初の受賞だ。

 オランダ・アムステルダムに本部を構える世界報道写真財団も同年、この写真を世界報道写真大賞に選んだ。

(藤 えりか)

関連記事(外部サイト)