〈秘境駅の“ナゾ”に迫る〉車道が通じていない“小和田駅”に遺されたオート三輪「ミゼット」…いったい誰が何の目的で持ち込んだ?

〈秘境駅の“ナゾ”に迫る〉車道が通じていない“小和田駅”に遺されたオート三輪「ミゼット」…いったい誰が何の目的で持ち込んだ?

車道が通じていない小和田駅周辺に転がっていたオート三輪「ミゼット」

「これぞまさに秘境駅だ!」車でのアクセスは不可能、列車は数時間に1本…周辺に生活者のいない山岳地域に“駅”がつくられた“意外なワケ” から続く

 静岡県浜松市天竜区に位置するJR飯田線・小和田駅は、周囲に車道がないため自動車でアクセスできず、周辺に集落などもないという特異なロケーションから、マニアの間で国内有数の“秘境駅”として愛されている駅だ。

 車で立ち入ることもできなければ、走る道もない。それにもかかわらず、なぜか小和田駅の周囲にはオート三輪「ミゼット」の廃車が複数台遺されていた。いったい誰がどのような目的でミゼットを使用していたのか……。小和田駅の歴史を紐解いた 前編 に続き、ここでは、駅周辺に遺されたミゼットの“謎”に迫っていく。

◆◆◆

■車道がない場所に遺されたオート三輪のナゾ

 そういえば、まだ解決できていない謎がある。 前編 で紹介した小和田駅周辺に転がっていた3台のミゼットだ。なぜ車道がない場所にもかかわらず、オート三輪が遺されていたのだろうか。

 最初に思いついたのは、佐久間ダムが完成する前に、道路を走ってきていたという説だ。かつては、小和田と対岸の佐久間街道を結ぶ橋が架けられていたと言われている。しかし、佐久間ダムの竣工が昭和31年なのに対し、ミゼットの発売は昭和32年。ミゼットが発売された年には既に佐久間ダムが完成し、道路が水没していた計算になるため、この説は成立しない。

 ネット上には、飯田線の貨物列車で運んできたという説や、船で持ってきたという説も囁かれている。しかし、仮にそのようにしてミゼットを持ち込んだとしても、外部に出られない環境下では役にも立たないのではないだろうか。つまり、ダムが完成した後も、外部と通じる車道があったと考えるのが合理的だろう。

 そこで、小和田駅から塩沢集落へ向かう途中にあった自動車が通れそうな道のことを思い出した。

 通行不可と書かれていたが、あの道を直進して、今はなき高瀬橋を渡り、そのまま道が続いていたのではないか。

 昔の地図や航空写真を見て検証してみる。現在と佐久間ダムが完成した前後の道路を見比べると、状況が大きく変わっていることが分かる。小和田から天竜川を渡る橋も、昔はかなり数が限られていたのだ。

 小和田と中井侍(なかいさむらい)を結ぶ道は、佐久間ダムが完成する以前から存在しており、人々が歩いて往来する街道だった。それがダムによって湖底に沈んでしまったため、高い位置に付け替えられた。その時に架けられたのが高瀬橋だ。

 しかし、せっかく立派な橋を架けて道路を付け替えたものの、小和田の集落は湖底に沈んで消滅している。つまり、ダム建設後に小和田―中井侍間を往来する必要がなくなり、道はすぐに廃道と化してしまったようだ。

 このときに付け替えられた道が車道で、小和田から高瀬橋を渡り中井侍まで行くことができれば、昭和29年に完成した天竜川橋で対岸の佐久間街道に出られる(現在は「平神橋」や「水神橋」など、対岸に渡る橋が他にもあるが当時はなかった)。

 当然、ミゼットも走行可能だ。問題は、小和田から中井侍までの道が車道か歩道かということなのだが、いくら調べてもはっきりとしない。

 これは実際に行って確かめるしかない。私は再び現地に向かった。

■別ルートから調査を展開…

 数か月間で3回目の訪問になるが、今回目指したのは、これまでとは違い、小和田から北方面にお隣の中井侍駅だ。ここから歩いて小和田駅方向へと向かう。現在は地図上に道は存在しないが、かつては天竜川に沿って道が伸びていた。スマホで昔の地図と現在の地図を開き、GPSで現在地を拾いながら歩いていると、それらしい分岐を発見した。早速、昔の道へと入ってゆく。

 未舗装ながら道幅は2メートル以上あり、歩きやすい。この状態なら、今でも軽トラが楽に走れるだろう。オート三輪が走っている姿を妄想しながら、歩いてゆく。

 しばらくすると、急激に道の状態が悪くなった。途中までは電線のメンテナンス等で利用されている現役の道だが、そこを過ぎると完全に廃道となるようだ。

 路上には落石が転がり、倒木が行く手を阻むが、ずっと2メートルほどの道幅を維持している。途中、完全にガレ場(岩や石がガラガラと積み重なった場所)と化したり、並行する飯田線の工事や砂防工事で道が消滅している区間もあった。

 高まきに越えるなどして、道を見失わないよう慎重に進んでゆく。出発から2時間弱、汗だくになっていたが、ようやく高瀬橋に到着した。

■歴史を感じさせる高瀬橋の姿

 コンクリート製の大きな主塔がそびえ立ち、立派な吊り橋だった当時を思わせる。

 メインケーブルは対岸の主塔と今も繋がっているが、床板やそれを支えていたケーブルも全て落ちてしまっており、今となってはパッと見ただけでは橋と分からないほどの状態だ。床に敷かれていたと思われる木板の一部がケーブルから垂れ下がっている。

 主塔の一方には“高瀬橋”、もう一方には“昭和三十二年一月竣工”と彫られていた。昭和32年といえば、奇しくもミゼットが発売された年と同じだ。架けられたばかりの新しい吊り橋を、発売されたばかりの新車のミゼットが駆け抜けていたということだろうか。つい、その姿を妄想する。

 この日歩いた中井侍駅から高瀬橋の区間、そして前回歩いた小和田駅から高瀬橋までの区間、そして高瀬橋自体も、全て2メートルほどの道幅がある。つまり、ミゼットが通行できるだけの道幅は十分にあるということだ。歩いた道には崩れている箇所もあったが、基本的には石積み等で堅牢に造られていた。

 なお、ミゼットは小型のオート三輪として開発された車で、軽便性を売りにしていた。かつて周辺に存在した道路の道幅の細さを鑑みると、小和田にあった廃車が全てミゼットだったことにも、必然性を感じる。高瀬橋をミゼットが走っていたのだろうと、より強く感じるようになった。しかし、この道が車道であったことを示す道路標識などの決定的な証拠は見つけられなかった。

 高瀬橋から折り返してきた私は、周辺の集落で聞き込みを行うことにした。

■地元住民への聞き込みでわかった新事実

 小和田駅の最寄りの集落となる塩沢集落には、かつて15戸ほどの家屋があった。しかし、現在暮らしているのは数世帯。住民の方から話を聞いたが、小和田から中井侍に抜ける道や高瀬橋のことは、分からないとのことだった。

 しかし、その一方で貴重な話を聞くことができた。「昔は塩沢集落まで車道が通じておらず、どこかに出かけるにはあの道を歩いて小和田駅に行き、飯田線に乗るしか方法がなかった」のだという。そして、「小学生の頃は、毎日、小和田駅まで歩いて電車に乗り、学校に通っていた」ことも教えてくれた。なんとも過酷な通学路だ。

 続いて、小和田から外部へ繋がっていたと思われるルート上にある集落で話を聞こうと、まずは中井侍で住民の方に話を聞いた。ダムが完成した当時のこと、ダムが出来る以前のことなど、貴重なお話を伺うことができた。ダムができる前は、中井侍から小和田まで歩いて行ったことがあるという方もおられた。しかし、ダムが完成した後のことは分からないという。

 続いて天竜川橋がある神原地区でも話を聞いた。しかし結果は同じで、ダム完成後のことを知る人は見つからなかった。皆さんから聞いた話をまとめると、ダムが完成する前は中井侍から小和田への道は街道として利用されていた。しかし、中井侍と小和田では生活圏が異なるため、地元の人が往来することは少なかった。ダムが完成すると小和田の集落が消滅したため、行くことがなくなったという。

■ミゼットの謎を解くための最終手段

 当時の通行状況は明らかになりつつあるが、ミゼットの謎は未だ解けない。そのような状態で現地を後にした私は、最後の手段を使うことにした。あの道に設置されていた“この先高瀬橋通行不可”バリケードの設置者に話を聞くことにしたのだ。バリケードに書かれていた浜松市天竜土木整備事務所に問い合わせのメールを送った。

 その時点では、あくまでも私の個人的な調査であり、文春オンラインで原稿を書こうとは考えていなかったため、質問は「高瀬橋を自動車が通行できたのかどうか」の1点に絞った。また、業務に差し障ってはいけないので、既にご存知の範囲でお返事を頂けると嬉しいという内容で送信した。

 1週間後、土木整備事務所から電話がかかってきた。それは、思いがけない内容だった。

■まさかの回答、そして対応…

 質問の内容から、小和田駅周辺にあるミゼットのことを調べているのだと、すぐに見抜かれていたのだ。そして、実態を土木整備事務所で把握していなかったため、道路台帳や郷土史などの資料を調べ、浜松市の資料館の職員さんにも話を聞いたが、結果、「高瀬橋を自動車が通行できたのかどうか」は分からなかったという。

 次にダムの事業主体である電源開発にも話を聞いてもらったが、これといった資料は出てこなかった。

 しかし、土木整備事務所の担当者の方は、なんと塩沢集落まで実際に足を運んでくださったという。

 それでも、決定的な話は聞けなかったそうだ。しかし、オートバイ程度の車両なら高瀬橋を走っていたという話を聞くことができたという。そして、驚くべきことに、土木整備事務所の職員の方はミゼットの所有者を突き止めていた。現在は街に引っ越したという所有者ご本人とのコンタクトも試みたが、ご高齢ということもあり、話を聞くことは叶わなかったという。

 職員さんは「せっかくお問い合わせいただいたのに、『分からない』という回答で申し訳ありません」と電話口でおっしゃっていたが、ここまで調べていただき、申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちでいっぱいになった。

「今後も個人的に調べようと思ってますので、何か分かりましたらお知らせします」ともおっしゃってくれた。お互いに進捗があれば連絡しますと言い合い、電話を切った。

 結局、高瀬橋をミゼットが走っていたかどうか、確証は得られなかった。しかし、あの橋をミゼットが走っていた可能性はより高くなったと思う。

 調べている過程で、高瀬橋以外にも小和田から外部へ抜ける車道があったのではないかという話も浮上した。小和田のミゼットが塩沢へ来ていたという証言もあった。しかし、こちらも確証は得られていない。

 これだけ調べても、高瀬橋をオート三輪が走っていたとも、走っていなかったとも分からないというところに、ロマンを感じた。いつの日か、土木整備事務所の職員さんに真相を報告できるよう、今後も調べ続けていきたいと思う。

写真=鹿取茂雄

(鹿取 茂雄)

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