≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜

≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜

あの日のことを静かに語りだす半藤一利さん ©志水隆/文藝春秋

『日本のいちばん長い日』、『聖断』などのノンフィクションを記してきた半藤一利さん(1930〜2021)の原点が、自らが体験した1945(昭和20)年の東京大空襲であった。

 東京大空襲は、1945年3月10日の陸軍記念日(日露戦争時の奉天会戦に勝利した日)、下町が狙われ、死者は10万人を超えた。『 文藝春秋が見た戦争と日本人 』より抜粋して引用する。(初出:『くりま』2009年9月号「半藤少年がくぐり抜けた戦争と空襲」)

◆◆◆

■あの晩も警戒警報が鳴ったにもかかわらず……

 いま考えると、私が初めて歴史と正面から向き合ったのがその時でした。つまり、昭和史“探偵”の原点がそこにある。昭和20年3月10日――。まずはその前の晩のことからお話ししましょう。

 9日の夜、東京に警戒警報が鳴ったのは、午後10時半頃でした。この警戒警報というものにすでに慣れっこになってしまっていましたから、この日もさほど驚かなかった。

 軍需工場じゃなければ爆弾は落とされない、さすがにあの頃はもうそんなことを考える人は誰一人いませんでしたが、逆に言えば、どこにいようが当たってしまえばもうそれまで、と覚悟を決めていたようなところもあったんですね。ですから、あの晩も警戒警報が鳴ったにもかかわらず、おやじと2人、呑気に寝ていたんですよ。

 東京で米軍のB29による空襲が始まったのは、前年の昭和19年11月24日のことです。11月1日からB29が東京上空に飛来して、警戒警報が発令されることはしばしばありましたが、それはせいぜい一機か二機、偵察に飛んで来るだけで、いわゆる空襲ではありませんでした。

 しかも空襲が始まったといっても、最初のうちは中島飛行機があった武蔵野地区が標的でしたので、私が住んでいた向島(むこうじま)(現、東京都墨田区)あたりはB29はただ素通りして行くだけ。

 それも攻撃は昼間と決まっていましたから、澄みきって青々とした冬空を、B29の編隊がキラキラ輝きながら、飛行機雲をひっぱって飛んで行く姿がきれいでしてね。向島あたりではみんな物見高くて、空襲だといってもまるで他人事のように見物しているような有りさまだったんです。なんとものんびりしたものでした。

 私が勤労動員で働いていた工場でも、B29が来ると、作業を停止して防空壕に退避するんですが、誰も中に入りゃしない。自分の身に降りかかってこない間は、映画なんか観ているよりよっぽど面白い。坂口安吾さんが書いたように「世紀の見せ物」ですからねえ(笑)。

■「今日のはいつもと様子が違う、よくわからんが数がやたらと多いみたいだぞ」

 19年の暮れ頃までは、まだ我が周辺には空襲による死者もそれほど出ていなかったし、時には日本の戦闘機がB29に食らいついて撃墜することもありましたから、「日本もまだまだよく戦っているわい」なんて思いもみんなのどこかにあったんでしょう。

 年が明けて、戦略爆撃機の専門家としてヨーロッパ戦線で名を馳せた、カーチス・ルメイが、テニアン、サイパン、グアムを基地とする第20空軍の指揮をとるようになる。

 ルメイはそれまでの高高度からの照準爆撃じゃ効果が少ないことに苛立って、攻撃法を変えろと命じました。だいたい日本の家屋は紙と木でできている、爆弾ではなく焼夷弾の方が有効だ、しかも、編隊ではなく単機で、昼間ではなく夜間に超低空で攻撃せよ、と。このカーチス・ルメイに日本の政府は勲一等の勲章をあげるんです(昭和39年)。いくらなんでもそれはないんじゃないの、とガックリしました。

 このルメイの作戦変更による第1回の夜間無差別大空襲こそが、この3月10日夜の東京大空襲だったのです。

 母親と弟、妹たちは茨城県に疎開してしまっていましたから、向島の我が家にいたのは、おやじと私だけ。昭和5年5月生まれで私は満で14歳、中学2年生でした。

 なぜ私だけが疎開しなかったかというと、当時は国家総動員法が施行されていて、数えで15歳以上はすでに戦闘員なんです。昭和5年生まれというのは数えで15歳、ぎりぎり戦闘員としての体験を持っているんですね。

 ですから、あの晩も、「明日も勤労動員で工場だなあ」などと考えながら、うつらうつらとしていたわけです。そんななか、警戒警報ではなく、空襲警報が鳴り響いたのは、午前零時を何分か回ったところでした。

 警戒警報なら寝ていられても、空襲警報ともなればさすがにそうはいきません。おやじが「坊、起きろ」と言うから、すぐに跳ね起きましたよ。

「今日のはいつもと様子が違う、よくわからんが数がやたらと多いみたいだぞ」

「あらら、今日はなんだかすごい」

 そもそもそれまでの空襲はたいてい昼間行われていたのに、今回は夜です。ラジオ放送も最初のうちは「東方海上に数目標」と言っていたと思いますが、そのうちに「数十」、やがては「多数」と変わってきました。要するに、日本軍はこの時ほとんど米軍の攻撃状況を把握できていなかったのでしょう。

 敵の連中は、みんな高高度で飛来して来て、日本近海に達したところで一気に高度を下げてきました。低空飛行で東京に侵入して来たのです。編隊ではなく、単機飛行でしたよ。それが次から次へとやって来ました。

■あれよあれよと周り中が火の海になって……

 私は急いでいつも通りの学生服に着替えて、その夜はかなり冷え込んでいましたから、その上に綿入れを羽織りました。頭には防空頭巾を被り、さらにその上に鉄兜を被る。鉄兜といってもちゃちなものでしたがね。それでゴム長を履いて表に飛び出した。

 外に出てみて驚きました。空襲警報が鳴ってそれほど間がなかったにもかかわらず、向島の我が家から見て南の方角、つまり深川方面の空はすでに真っ赤に燃え上がっていたのです。後でわかるのですが、空襲警報が鳴る7分前に第一弾が投ぜられていたのです。しかも、その火の中を次から次へと低空飛行のB29が突っ切って行くのが見える。海の方に向かってどんどん突っ切って行くのもいれば、逆にこちらに向かって飛んで来るのもたくさんいる。そして焼夷弾をバラバラと、次から次へと落とす。

「あらら、今日はなんだかすごいよ」

「ただごとじゃねえよ、これは」

 おやじとそんな会話を交わしているうちに、西の方角の浅草、神田方面にも爆撃が始まって、バラバラバラバラと焼夷弾を落としていくのがよく見えました。それから今度は東の方角、平井のあたりにも焼夷弾が次々と落とされていく。

 もうあれよあれよという間に、周り中が火の海になっています。本当に容易ならざることになってしまったんです。とにかく東も南も西も火の柱がものすごい勢いで噴き上がっていましたし、それとともにものすごい黒煙も渦を巻いて押し寄せてきた。

 戦後になってから、B29の搭乗員が書いたものを読んだら、この日の東京上空はあまりの火の明るさで、搭乗席でも腕時計が楽々と読めたというんですね。それぐらいの火の海だったということです。

≪東京大空襲≫ガラガラ、ガラガラーッ!B29から籠状の焼夷弾が撒き散らされ下町は火の海になった へ続く

(半藤 一利/文春ムック 文藝春秋が見た戦争と日本人)

関連記事(外部サイト)