≪東京大空襲≫ガラガラ、ガラガラーッ!B29から籠状の焼夷弾が撒き散らされ下町は火の海になった

≪東京大空襲≫ガラガラ、ガラガラーッ!B29から籠状の焼夷弾が撒き散らされ下町は火の海になった

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≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜 から続く

『日本のいちばん長い日』、『聖断』などのノンフィクションを記してきた半藤一利さんの原点が、自らが体験した1945(昭和20)年の東京大空襲であった。

 東京大空襲は、1945年3月10日の陸軍記念日(日露戦争時の奉天会戦に勝利した日)、下町が狙われ、死者は10万人を超えた。『 文藝春秋が見た戦争と日本人 』より抜粋して引用する。(初出:『くりま』2009年9月号「半藤少年がくぐり抜けた戦争と空襲」)

◆◆◆

■B29は馬鹿でっかい。とんでもなく獰猛で汚い飛行機でした

 それからどれぐらい経ってからだったでしょうか。向島はまだ爆撃を受けていなかったから、界隈はまだ真っ暗なんです。そこにB29が一機、低空で飛んで来ました。

 B29は日中、超高空で飛んでいるところを見ている分には、きれいな機体の飛行機だなあとしか思っていなかったんですが、間近で見ると馬鹿でっかい。あんなにでっかいとは思わなかった。しかも4基のエンジンが油で汚れて真っ黒なのがはっきり見える。とんでもなく獰猛な汚い飛行機でした。

 私たちの頭の上をB29が通過して行くのを眺めていたその瞬間です。我々の頭の上で、いわゆる「モロトフのパン籠」と言われていた焼夷弾が破裂したんです。それはもう、鮮やかな破裂といいますか、破裂のその音と同時にザーっと焼夷弾が降って来た。

 あの様子は、どう説明したらいいんでしょうかねえ。土砂降りの大雨なんてものじゃありません。もっととてつもなく大きな物がガラガラ、ガラガラーッと落ちて来るんです。

 それまでおやじと防空壕の上に立って高見の見物を決めこんでいたんですが、2人して本当に防空壕の上から転げ落ちました。周りにはいくつも焼夷弾が落ちたようです。あとで見たら、転げ落ちた場所の2、3メートル先に焼夷弾の筒が一本突き刺さっていました。

 そもそも焼夷弾というのは、大きな籠状の爆弾の中に36発、弾が入っていまして、空中で破裂して中の弾がバラバラバラと降って来るんです。それが地上に落ちて、それぞれ火のついた油脂をまき散らす。

 当時、僕らは学校で、焼夷弾は地上に落ちてから火を噴くものなんだから、落ちた時すぐに手袋をはめた手でつかまえて遠くに投げればいい、そっちで火を噴くから大丈夫だと教わっていました。そんなの嘘、嘘。それどころじゃないですよ。

 それから、敵は焼夷弾を落とす前に油を撒いてよく燃えるようにしているんじゃないか、と言う人もいましたが、私の知る限りではそんなことはありませんね。実際、この日、私たちの頭上に現れたB29は、1機だけで飛来していきなり焼夷弾を落としていきましたから。

■「坊、いいか、すぐ風上に逃げろ。もう駄目だから、逃げろ、逃げろ」

 とにかくあっという間の直撃でした。我が家にも焼夷弾が一発落ち、家が燃え始めた。これはなんとかバケツの水で消し止めることができた。燃えているところを、でっかいハタキで叩いて削り落としたりしながらね。近所の子たちも手伝ってくれたから、少年四人で、「ちょろいもんだねえ」なんて言いながら消したんです(笑)。

 そうこうするうちに、3軒先の油屋さんが火を噴き出した。これもとにかく消さなきゃいけないってんで、懸命に4人で火消しをやっていたら、おやじがやって来て血相を変えて言うんです。

「坊、いいか、すぐ風上に逃げろ。もう駄目だから、逃げろ、逃げろ」

 おやじはといえば、家の中から手提げ金庫だけを持ち出して、それを自転車に積んで、今まさに逃げ出そうというところ。

「坊、なにしてる。ぼやぼやしていないで早く逃げろ」

 もう自転車を漕ぎ出していました。事実、油屋どころか火の柱の噴き出している家があっちにもこっちにも。それでいよいよこれは危ない、と一緒に火を消していた連中とも相談して、私も逃げることにしたんですが、その前に家の中から学校のカバンだけ持ち出した。

 なんでそんな一刻をあらそう時に学校のカバンなんてと思うかもしれませんが、実はカバンの中に命より大事にしていたメンコが入っていた。大相撲の幕内力士全員のメンコです。メンコは取ったり、取られたりだから、全力士集めるのは、本当に大変なんです(笑)。

 そいつをいつも後生大事にカバンの中に入れていたもんだから、学校の道具を持ち出したというよりは、むしろメンコを背負ったと言った方がいい。それはいいとして、さてどちらに逃げるかです。

■風上の北に逃げるか、風下の南に向かうか

 その晩は強い北風が吹いていましたから、北の荒川放水路の方角はもうどうにもならないくらいの火の海に見えました。同時に、北から黒い煙がものすごい勢いで、奔流となって襲って来ていましたから、おやじには風上に逃げろ、と言われはしましたが、とても北へ向かう勇気はなかったですねえ。

 たしかにこの場合、勇気と言っていいんだと思います。北の方向に6、700メートルぐらい行けば、荒川の土手に出られたんです。そこまで辿り着ければなんの問題もなかったんですよ。

 ただ、それは後から考えれば、ということであって、その時はとてもじゃないが火と煙を突っ切って行けなかった。それで仕方なしに仲間4人で一緒に南の方へ逃げることにしたんです。大きな道路(現在の八広はなみずき通り)を小走りで逃げ始めました。

 そこへあちこちの路地からも逃げようとする人たちが合流して来ますから、ぞろぞろと大きな人の流れが出来て南に向かって行く。ところがこの時にはすでに南の方も火の海になっていましたから、南の方角からも同じように大きな人の流れが押し寄せて来る。

 その人たちが口々に、

「向こうに行っても駄目だ駄目だ」

 と叫んでいるから、私たちも、

「こっちも駄目だ駄目だ」

 と大声で言い返す。

 南から逃げて来た人たちと私たちが合流して、おたおたしながら、しばらくどうすりゃいいんだと行ったり来たりしていたんですが、結局、一緒になってまた南の方に下って行くことになりました。

■背中に火がついた! そして……

 火に囲まれて逃げている最中、私の背中に火がついたのはどのあたりでしたか……。飛んで来た火の粉が着ていた綿入れのチャンチャンコに燃え移ったんです。まるでカチカチ山の狸みたいなもんです。私の後ろを走っていたおじさんが声をかけてくれた。

「おい、そこの坊や、背中に火がついているぞ」

 声をかけられるまでまったく私は気づいていなかったので、これは大変だ、と被っていた鉄兜を脱いで、カバンを放り投げ、チャンチャンコを脱ぎ捨てたんです。それでも防空頭巾だけは被っていたように思いますが、結局、このとき身軽になったことが後々、吉と出たわけです。もしカバンなんかいつまでも背負っていたら、どうなっていたか。

 で、そのまま南に向かうと途中に中居堀(なかいぼり)という十字路がありまして、ここにぶつかった時に今度は東へ行くか、西へ向かうかとなったんです。

 東に行けば、荒川の支流の中川、西へ向かうと隅田川です。東へ向かう人もいれば、西へ向かう人もいる。さらにもう一つ、東武線の小村井(おむらい)という駅を通って亀戸に向かう道もありましたが、亀戸の町はすでに燃え盛っていましたから、そちらに行く人はいなかったと思います。

 この中居堀のあたりで、これまで一緒に逃げて来た仲間とも離ればなれになってしまいました。

■安心したのもつかの間。突如襲い掛かった猛火

 結局、私は東の中川に向かったんですね。東へ、東へと逃げて、中川の川っぷちまでやって来た。そこに平井橋という橋が架かっていて、当時はそのたもとが大きな原っぱで、ちょっとした広場のようになっていたんです。

 その原っぱにどんどん人が集まって来ていました。ここにはまだ火が来ていませんでしたから、なんとなしにみんなそこで助かったような気になった。周りには誰一人知っている人はいません。なかには安心したのか、タバコを吸う奴もいたりして、周りの人に怒られていましたよ。

「なにやってんだ。上からB29に見つかるじゃねえか!」と。

 そこでしばらくの間、みんな人心地ついたような感じでたたずんで、大人は雑談なんかしていたんですけれど、突如、襲って来たんです、猛火が。

≪東京大空襲≫「どうしたらいいのか……」生死を分けた一瞬の判断 へ続く

(半藤 一利/文春ムック 文藝春秋が見た戦争と日本人)

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