≪東京大空襲≫「生き延びることができたのは、ただただ運としか言いようがない」命からがら逃げた半藤少年が誓ったこと

≪東京大空襲≫「生き延びることができたのは、ただただ運としか言いようがない」命からがら逃げた半藤少年が誓ったこと

お話を終え、帰路に着く半藤一利さん ©志水隆/文藝春秋

≪東京大空襲≫「どうしたらいいのか……」生死を分けた一瞬の判断 から続く

『日本のいちばん長い日』、『聖断』などのノンフィクションを記してきた半藤一利さんの原点が、自らが体験した1945(昭和20)年の東京大空襲であった。

 東京大空襲は、1945年3月10日の陸軍記念日(日露戦争時の奉天会戦に勝利した日)、下町が狙われ、死者は10万人を超えた。『 文藝春秋が見た戦争と日本人 』より抜粋して引用する。(初出:『くりま』2009年9月号「半藤少年がくぐり抜けた戦争と空襲」)

◆◆◆

■夜が白々と明けてきたころ、ようやくあたりの火もおさまってきた

 船の上に、いったいどれぐらいの時間いたのでしょうか。燃え狂う火の海が沈静化するまで、船をこちらの岸に着けることはできませんでしたから、相当な時間が経っていたはずです。

 船から岸に上がって、助けてもらったおじさんたちに挨拶をしたのか、どうか。それさえもよく覚えていません。とにかく寒くて寒くて仕方なかった。なにはともあれ、体を温めて、ずぶ濡れになった服を乾かさなければと、残り火に当たっていたことだけを覚えています。

 夜が白々と明けてきた頃、ようやくあたりの火も収まってきました。というよりも、もう燃えるものはあらかた燃えてしまい、燃えるものがなにもなくなってしまったから、おのずと収まったんでしょうね。

 それでとにかく家に帰ろう、と思ったんですが、考えてみれば靴下をはいているだけなんですよ。焼け跡は瓦礫や針金、金属といったものが散乱していて、もう無茶苦茶な状態ですから、とても靴なしでは歩けない。

 途方に暮れていたら、見ず知らずのどこかのおじさんが「あんちゃん、これ履いていきなよ」って靴を一足渡してくれました。おそらく川に飛びこんだ人が岸に脱ぎ捨てていった靴だったんでしょう。「ありがとうございます」って、そのおじさんにお礼を言って、ひどいドタ靴でしたけれど、それを履いて家の方向に歩き出したんです。

 中川で溺れそうなところを引っ張り上げてくれたおじさんもそうだし、このドタ靴をくれたおじさんもそうだけれど、大空襲のさなか、あんなひどい状況にもかかわらず、親切な大人がたくさんいました。

 今、あらためて溺れかけたあたりに行ってみますと、なぜこんな所であんなにたくさんの人が溺れて死んでしまったのかと思いますよ。たしかに当時は今よりずっと川幅も広かったですけれど、それにしても……。

■金輪際、「絶対」という言葉は使うまい。

 生き延びることができたのは、ただただ運としか言いようがありません。

 最初の一撃をいきなり受けた深川や本所のあたりは、向島あたりと比べるとはるかにひどい被害を受けていますし、亀戸の一帯も大勢の人が亡くなっている。

 さらに言えば、東へ行くか、西へ向かうかで悩んだ時に、私は東へ逃げて中川にたどり着きましたが、西へ行っていたらどうなっていたか。おそらく西の隅田川の方に逃げた人は、半分以上亡くなってしまったのではないですか。

 隅田川の言問橋(ことといばし)のあたりは、言葉に絶するような死体の山でしたから。戦後すぐに『リンゴの唄』を歌った並木路子さんも、隅田川に飛びこんでいます。並木さんはなんとか無事だったけれど、一緒にいたお母さんは亡くなってしまいました。私の空襲体験など、どちらかと言えばまだ幸運な方だったのかもしれません。

 はたして、私にとってあの空襲はなんだったのか。我が家の焼け跡にぼう然とたたずみながら、私はこんなことを考えていました。

 俺はこれからの生涯、二度と「絶対」という言葉は使わないぞ。「絶対に俺は人を殺さない」「絶対に自分の家は焼けない」「絶対に日本は勝つ」なんて言えない。そんなのはすべて嘘だと思ったんです。川で溺れかけた時に、たしかに私は誰かの手を振りほどいてしまったんですから……。

 金輪際、「絶対」という言葉は使うまい。それが、そのとき思ったことでした。

 それと「なぜ、こんなことが?」という問いが、小さな炎を上げて私の身体をつき動かしました。その炎がずっとそれからも長い間、身体のどこかでくすぶりつづけている、と思っています。昭和史に今ものめり込んでいるのは、きっと身体の中で炎が消えずに燃えているからなのではないでしょうか。

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(半藤 一利/文春ムック 文藝春秋が見た戦争と日本人)

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