「天皇を機関車にたとえるとは何か!」美濃部達吉「天皇機関説」が国会で揉めにもめた政治的背景

「天皇を機関車にたとえるとは何か!」美濃部達吉「天皇機関説」が国会で揉めにもめた政治的背景

「天皇機関説」とはいったい何だったのか? ©iStock.com

 1935年の日本で起きた「天皇機関説事件」とはいったい何だったのか? 立命館大学授業担当講師の秦野裕介氏の新刊『 神風頼み 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■「天皇を機関車にたとえるとは何か!」

 天皇機関説に対して、「天皇を機関車にたとえるとは何か!」と激昂した人がいた、という話がある。実際にそのように言ったかどうかはともかく、天皇機関説とは何か、を理解しないまま天皇機関説を批判していた人々がいたことは想像に難くない。現に浜口首相を狙撃した犯人は「統帥権干犯に腹が立った」と供述したものの、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかったという。

 これをもって、「統帥権干犯を知らずに浜口を批判したのか」「天皇機関説を知らずに美濃部を批判したのか」と言うのは簡単ではあるが、東大法学部を出た首相補佐官が立憲主義について「学生時代の憲法講義では聞いたことがありません」と発言するような国では、憲法について最低限の知識を持たないことがむしろ当たり前であろう。

 天皇機関説や統帥権干犯を理解していない一般人がいるということよりも、「立憲主義を聞いたことがない」と発言する人物が内閣を支え、憲法改正に携わっていることのほうがはるかに問題であるが、その内閣が歴代最長となったことは記憶に新しい。それだけこの内閣が日本人に支持されてきたという事実は、日本人の立憲主義に関する考え方そのものを示している。こうした憲法の軽視が何をもたらすのか、ここでは「天皇機関説事件」について考えることで見ていくこととしたい。

「天皇機関説」とは突き詰めると、天皇は国家の最高機関である、という学説である。もう少し詳しくいえば日本の統治権は法人としての国家に属し、天皇はその国家の最高機関として統治権を行使する、と考えたものである。伊藤博文の憲法に対する考え方も、突き詰めると天皇機関説に至る。

 この考え方は、政党の力が増し、議会制度が確立されていく中で大日本帝国憲法を立憲主義的に解釈するために一木喜徳郎や美濃部達吉といった東京帝国大学教授たちによって作り上げられていった。そして政党政治が本格的に始まる中で、天皇機関説は国家公認の考え方として定着していった。

 一方美濃部らの天皇機関説に対して「天皇主権説」という考え方も存在した。天皇主権説では天皇は国家そのものであり、統治権は天皇個人に属するとした。その根底には、天皇は現人神であり、天皇の祖先にあたる天照大神が瓊瓊杵尊に対して与えた「天壌無窮の神勅」に基づいて日本を統治している、という考え方がある。

 天皇主権説の論者の代表の一人である穂積八束東京帝国大学教授は、自身の憲法学の教科書である『憲法大意』を井上毅から依頼されて執筆し、その序文を伊藤博文に依頼した。しかし伊藤は穂積とは意見が違う、として拒否したという。これはまだ伊藤が政党政治に関わるはるか前で、憲法を作ったばかりの超然主義を唱えていたころであるから、伊藤の立憲主義的な思想にそもそも合わなかったのだろう。

 ちなみに、穂積は彼の論文である「国体の異説と人心の傾向」において、三権分立について「憲法の敵は専制の政府である」とし、「政府と議会との間は分権を主持し各々独立対峙して相侵さざらしむるは、各々憲法上の権能に由りて他の権力の専制に流るるを防がんとするのである」と述べている。

 この穂積の言について坂野潤治氏は、「多数党による少数意見の無視の連続を見せつけられた今日では、穂積の三権分立論にも妙に惹かれるものがある」(『明治憲法史』)としている。2010年代から2020年代初頭の10年近くに及ぶ政治の議会軽視の異常な状況を的確に表現した言であろう。

■「緩慢なる謀反であり、明らかなる叛逆である」

 穂積の唱える天皇主権説と美濃部の天皇機関説は1910年代に政党政治が一般化する中で政界・官界では天皇機関説が有力となり、政党政治を支える理論的支柱となる。

 一方天皇主権説は軍部(特に陸軍)および教育界に支えられ、国家主義の高まりの中で立憲主義を排撃する時の理論的支柱となる。つまりこの問題は大日本帝国憲法が立憲主義に基づく「憲法」であるのか、それとも「憲法」という名前の別の何かであるのか、をめぐる議論であった。

 昭和10年(1935)2月18日、帝国議会の貴族院本会議で貴族院議員の菊池武夫議員(男爵議員・予備役陸軍中将)が美濃部達吉貴族院議員(東京帝国大学名誉教授・帝国学士院会員議員)の天皇機関説を「緩慢なる謀反であり、明らかなる叛逆である」と指弾した。それに対して当時の岡田啓介首相(予備役海軍大将)や松田源治文部大臣(衆議院議員)は、学説は学者による討論に委ねるべき、と答弁した。

 25日に美濃部は菊池への反論演説を行っている。岡田による要約では次の通りである。

「これは著書の断片的な一部をとらえて、その前後との関係を考えずになされた攻撃である。わたしは君主主義を否定してはいない。かえって天皇制が日本憲法の基本原則であることをくりかえし述べている。機関説の生ずるゆえんは、天皇は国家の最高機関として、国家の一切の権利を総攬し、国家のすべての活動は天皇にその最高の源を発するものと考えるところにある」(『岡田啓介回顧録』)


 この美濃部の演説の冒頭部分は実際の美濃部の言葉では次のようになる。

 私は菊池男爵が憲法に付てどれ程の御造詣があるのかは更に存じない者でありますが、菊池男爵の私の著書に付て論ぜられて居りまする所を速記録に依って拝見いたしますると、同男爵が果して私の著書を御通読になったのであるか、仮りに御読みになったと致しましても、それを御理解なされて居るのであるかと云うことを深く疑う者であります。

?

 恐らくは或る他の人から断片的に、私の著書の中の或る片言隻句を示されて、其前後の連絡をも顧みず、唯其片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて、軽々に是これは怪しからぬと感ぜられたのではなかろうかと想像せられるのであります。

 かなり“上から目線”で菊池議員を貶すような演説であるが、菊池議員も美濃部の演説を聞いて「それならよろし」と一旦は納得した。これで沈静化したかに思われたが、続いて江藤源九郎衆議院議員(予備役陸軍少将)が岡田首相の見解を質したことから問題が再燃した。岡田は「誤りがあるとは思わない」と答弁し、美濃部を擁護する姿勢を見せたが、それが政友会による政府批判の格好の口実となった。

「総理は日本の国体をどう考えているか」という質問に岡田は「憲法第一条に明らかであります」と答え、「では憲法第一条にはなんと書いてあるか」と聞かれると「憲法第一条に書いてある通りであります」と答える、というのを何回も繰り返したという。のらりくらりとはぐらかすことでこの事態を乗り切ろうと考えたのだろう。

 しかし江藤が美濃部を不敬罪で告発し、在郷軍人会の圧力も増す中で陸軍大臣林銑十郎陸軍大将は美濃部の取り調べを政府に要請、それに基づき美濃部は出版法違反で取り調べられるようになった。

■岡田内閣が画策した“トカゲの尻尾切り”

 岡田は陸軍による圧力について次のように言っている。

 機関説問題については、陸軍の態度はだんだんにはっきりしだして、「国体観念に疑惑をいだかせるような学説には絶対に反対である。第一こういう問題についてはっきりした処置を決めなければ、兵士の教育にさしつかえがある」と、政府に迫るようになった。

?

 こちらが陸軍大臣に期待するところは、軍のそういった動きを押えてくれることなんだが、林は、その点ではどうもたよりにならなかった。この問題だけではなく、たいていの場合そうだったが、一ぺん閣議で承知していることを、すぐあとでひっくり返す。陸軍省へ帰ったあとで、電話をよこして、さっき言ったことは取り消す、とこうなんだ。(『岡田啓介回顧録』)

 その理由について、岡田は林が若い軍人を抑えきれていないところに求めているが、林や大角岑生海軍大臣の言い分が3月16日には「かかる説は消滅させるように努める」と「行き過ぎたもの」となっていき、岡田としては閣内不統一を恐れて陸軍の強硬意見に押し切られてしまった、と後悔している。

 ちなみに菊池議員や陸軍の背景にいたのは「原理日本社」の蓑田胸喜らであった。蓑田は津田事件よりも早く美濃部事件でその名を挙げており、在郷軍人会や陸軍との太いパイプを持っていた。津田と異なり、美濃部は蓑田にとってわかりやすい「敵」であった。

 陸軍・右翼・政友会からの突き上げに対する落としどころとして、岡田内閣は、司法省に提訴されていた不敬罪については不起訴にし、内務省が関与していた著書の発禁処分を行うことで解決を図った。しかし、喜田事件の再現のような“トカゲの尻尾切り”でことが収まるはずもなかった。

■政争の具となった「天皇主権説」

 政友会の目的は天皇機関説を葬ることではなかった。岡田内閣そのものが打倒の対象だったのであり、天皇機関説はそのための格好の道具でしかなかった。したがっていくら岡田が譲歩しても岡田内閣への圧力が緩まることはなかった。

 一木喜徳郎枢密院議長や金森徳次郎法制局長官が標的となり、林陸相に迫られて8月3日に第一次国体明徴声明を出すことになった。岡田の解説によれば「統治権が天皇に存せずして天皇はこれを行使するための機関なりとなすが如きは、これまったく万邦無比のわが国体の本義にもとるものである」というものであった。

 岡田はこの声明で幕引きできるものと思っていたようだが、岡田自身が「大間違いだった」と述べているように、これでも事態は収まらなかった。8月24日には政友会が、27日には在郷軍人会がそれぞれ岡田内閣を批判し、天皇機関説の「芟除(さんじょ・取り除くこと)」を目指した会合を持ち、機関説批判は広がっていった。

「外道の所業である」発案者でさえ否定した「神風特攻隊」はなぜ実行されたのか? へ続く

(秦野 裕介)

関連記事(外部サイト)