「彼らの一匹や二匹は殺したって…」ロシア船襲撃日本人“海賊”…「国士」の虚像を背負った男の末路

「彼らの一匹や二匹は殺したって…」ロシア船襲撃日本人“海賊”…「国士」の虚像を背負った男の末路

都新聞に載った護送車中の江連の写真(中央)

ロシア船に乗り込み「船長以下11人をみな殺し」した日本人“海賊”とソビエト・パルチザンの虐殺事件 から続く

 武装した日本人集団が外国まで出かけて外国船を襲撃。物資を奪ったうえ、乗組員を殺害するという前代未聞の出来事がいまからちょうど100年前に起きていた。背景にはロシア革命とそれに伴う日本のシベリア出兵、その結果としての尼港(ニコラエフスク)事件という国際問題があった。

 船員の告発から明るみに出た事件は、主導した船長・江連力一郎らの逮捕へと繋がっていった。

◆◆◆

■「彼らの一匹や二匹は殺したって…」

 北海道で逮捕された江連とうめら6人は12月16日夜、札幌発の夜行列車で東京へ護送されたが「江連の出發(発)で札幌驛(駅)は大混雑」(12月18日付東日朝刊見出し)という状態。

 12月18日発行19日付國民夕刊は「江連力一郎護送記 大賑かな車中の巨魁」を掲載した。記事によると、札幌駅には「群衆潮のごとく押し寄せ」、三等車に乗った江連は見送った札幌署刑事部長に「おかげさまで、当市民衆諸君の見送りまで受けました」と冗談を言ったという。

 当時の札幌―東京間は列車で約1日半かかった。新聞各紙は途中の各駅から記者を乗り込ませて江連やうめから話を聞こうとし、護送の警察官もある程度まではそれを許した。「泰然自若として まだ空呆(とぼ)ける江連」(12月19日付東朝朝刊)、「カラーの汚れを氣(気)にし乍(なが)ら 江連仙臺(台)通過」(同日付読売)……。いまで言う実況中継が紙面に展開された。

 同じ12月19日付の東日朝刊は「けさ七時 上野に着く海賊團(団)」の見出しで、やはり車中の言動を記事に。江連は、パルチザンとの関係について「出かけて行ってこっちが弱かったら皆殺しにされてしまう」「われわれの同胞はいずれもこんな悲惨な目に遭わされている。私はこれを思うと、彼らの一匹や二匹は殺したって何でもないと思う」などと熱弁を振るった。

 しかし、「私は決して人殺しなどした覚えはない」と容疑を否認した。同じ紙面では、途中の青函連絡船が大しけで揺れ、江連が船酔いして吐いたことを「海賊の船酔ひ」と見出しで茶化した。

 12月19日発行20日付東朝夕刊の「群衆に取巻かれ 江連夫妻等警視廰(庁)へ護送」は社会面トップ。車内の江連について「窓際に陣取った江連はサージ(毛織物の一種)の背広に黒の外套をまとい、茶の中折れ帽の下から炯々(けいけい=目を鋭く光らせる)と、一種の威力さえ感じさせるまなこをバッチリとみはって、いささかの疲労も感じないらしく、平然として落ち着いている」と描写した。

 記者の質問に「私のとった行為というものが悪であるか善であるかはちょっと判断に苦しみます」と述べ、「大正11年末のいい脚本だと思ってください」と話した。

 警視庁の取り調べが始まったが、江連ら中心人物以外の乗組員は次々釈放された。その中にはうめも。12月20日夕、車で警視庁を出たうめを記者らが追跡。「おうめの隠れ家 昨夕放逐されて麹町の知人の許(もと)へ」と12月21日付東朝朝刊。いまのワイドショー並みの過熱報道だ。

 ロシア革命の混乱があったとはいえ、事件が国際問題にならなかったわけではない。日本政府が苦境に陥ったことは間違いなかった。

■「江連力一郎は写真班の猛烈なフラッシュを浴びながら悠々と法廷入りした」

 1924年4月2日、予審が終結し公判に付されることになった。ここまで時間がかかったのは、前年の9月1日に起こった関東大震災の混乱のためだろう。

 1924年10月6日、初公判。同日発行7日付東朝夕刊は「法廷に並んだ卅(三十)三の深編笠 海賊江連等の公判 三年振りに開かる」の見出しで社会面トップで報じた(当時、刑事裁判などの被告は深編笠を被って入退廷した)。

〈 海賊船大輝丸事件の江連力一郎ほか34名(二宮、梅原逃走中)にかかる第1回公判は6日午前10時20分から、東京控訴院の大法廷を借用して、久保判事が裁判長となり、安部検事が立ち合い、事件発生以来3年目に開かれた。

 大輝丸事件の公判というので、まだ薄暗い午前6時には、気の早い傍聴人がものすごい吹き降りの中をぬれねずみのようになって押しかけ、第1番目の傍聴券を手に入れて小躍りしながら法廷の入り口に頑張っている。

 かくて午前9時には伽藍堂(がらんどう)のような大法廷の傍聴席も埋まり、午前10時、50余名の弁護士がおのおの一抱えある記録をかついで弁護席に3列横隊をつくった。

 やがて午前11時5分前になると、お仕着せの久留米絣の羽織に銘仙の袴をはき、公判準備の日とは打って変わって堂々たる風采に返った主魁・江連力一郎は、あたかも事件当時をしのばせるよう、33名の深編笠の長い行列の陣頭に立って、写真班の猛烈なフラッシュを浴びながら悠々と法廷入りした。〉

■「昔の辻斬りですな」「江連さんの言った事は嘘です」

 初公判では、検事が事件の動機を「尼港事件」への憤激からロシアの物資を略奪して同胞の恨みを晴らそうとした、と陳述。裁判長の尋問に対して、江連は犯行までの経過と武器弾薬の入手先について述べたほか、ランチは邦人避難に使う目的で分捕ったとして略奪の意図を否定した。

 ロシア人殺害は認めたが、同胞の恨みを晴らすためで「昔の辻斬りですな」と答えた。しかし、陸軍との関係については「頭に残っていません」と答えただけだった。

 その後の公判では江連ら中心人物がロシア船襲撃は「公憤」だと主張。大筋で海賊行為や虐殺を否定したが、あいまいな陳述も多かった。

 これに対し、乗組員らは幹部の命令による虐殺を次々証言。「江連さんの言った事は嘘です」(同年10月10日付東朝朝刊見出し)、「江連さんが掛聲(声)で露人を斬殺した」(11月21日発行22日付読売夕刊見出し)などと述べた。

■そして一審判決は…

 翌1925年1月27日の論告求刑では、検察側が「被告全員が共同正犯」として、江連に死刑、部下の2人に無期懲役などと求刑した。そして同年2月27日の一審判決は――。

「死刑が懲役十二年に…… 海賊團長の嬉し涙 けふ(きょう)江連外卅餘(余)名に判決言渡し 三年越しの怪事件大團圓(円)」。27日発行28日付東日夕刊は1面トップでこう見出しを立てた。

 他の中心人物2人が懲役8年、1人が7年。船長が犯人隠避で罰金となったのを含めて全員有罪だったが、全体として刑は軽く、「判決も被告人らの大和魂を認めたようにみえる」と「史談裁判」は評している。

 新聞各紙に載った法廷写真でも江連には笑顔が見える。被告のうち江連ら22人は控訴したが、同年12月5日の東京控訴院での判決はほぼ一審通り。この前の11月、肺を患っていたうめが死亡。裁判所は江連の10日間の拘留停止を認め、江連は通夜と葬儀に参列した。

 控訴審判決後、10人が上告したが、江連は罪に服した。そして昭和天皇即位に伴う恩赦と模範囚だったことなどから、逮捕から8年足らずで出獄した。その際には「壮士」(若い政治活動家)が集まり「江連の争奪戦」「引張凧(ひっぱりだこ)の江連氏」と新聞に報じられた。

■江連の“その後”

 その後の江連は「満蒙至誠会」のメンバーの肩書で満州(現中国東北部)に渡ったことが資料で分かっている。「剣士江連力一郎伝」によれば、関東軍(満州駐留の日本軍)特務機関の要員だったというが、活動の内容は分からない。

 戦後は、再婚した妻の実家の東京・阿佐ヶ谷で暮らし、いろいろ事業にも手を出して失敗。詐欺事件に絡んで新聞に名前が登場した。最後は1954年11月、ひっそりと亡くなった。満66歳だった。

■「海賊と武器と陸軍 奇怪なる三角関係」

 事件を振り返って大きな疑問は軍との関係だろう。発覚直後から新聞にはさまざまに報じられていた。最も早かったのは1922年12月14日付の國民。「海賊と武器と陸軍 奇怪なる三角関係」を見出しに、実業家や国会議員が橋渡しして大輝丸の出航に陸軍幹部が関与していた疑惑を報じた。

 12月15日付の読売と時事新報朝刊は、江連が、日本の人口増殖のためにはシベリアの開放が必要として、陸軍省高級副官・松木大佐の了解を得ていると語っていたと報道。報知も12月20日付朝刊で同趣旨の記事を載せた。

 松木大佐とは当時、山梨半造・陸相の高級副官だった長州(山口県)出身の松木直亮・陸軍大佐。実は彼は、山梨の前任の田中義一陸相時代、中野正剛・衆院議員が追及したシベリア出兵などに絡む陸軍機密費問題で関与が浮上した人物。

 半藤一利ら「歴代陸軍大将全覧昭和篇 満州事変・支那事変期」(2010年)は、田中陸相と軍務局長と合わせて「長州の三奸」と呼ばれたとしている。最後は大将にまで上り詰めるが、「国民よ満洲に行け」という論文や、国家総動員の解説書を出して国民をあおった。

 報知は12月16日発行17日付夕刊で「海賊船と騒がれた江連は 軍閥陰謀の悲惨な犠牲」の見出しで、外務、内務両次官や内務省警保局長、参謀本部の将軍らの関与した疑いを伝えた。

 さらに12月19日付朝刊では、江連が乗組員を集めているのを不審に思った水上署が出航をストップさせたが、江連が警視庁に出頭して外事課と協議した結果、いつの間にか出航していたとし、当局と何らかの妥協があったことをにおわせた。

 その後も「武器の出所は矢張(やはり)陸軍側」と報道。警視庁側の態度についても「薮蛇を恐れ 申譯(訳)に調べて」などと指摘した。

■「陸軍当局は今日までの経緯を十分明らかにする責任があると言われている」

 この間、事件に関する評論的な記事は極端に少なかった。動機は国を憂える「国士」的な考えだと認めても、海賊行為だけでなく船員を虐殺した行為を認めるわけにはいかない、という戸惑いがメディアにも国民にもあったのだろう。

 その中で12月19日付東朝朝刊の「鐵(鉄)箒」に「嗚呼(ああ)君子國」という寄稿記事が載った。筆者は、日露戦争の日本海海戦を描いた「此一戦」の著者で平和主義者として知られた元海軍大佐・水野廣徳。

「北海海賊の凶暴はその性質において、尼港におけるパルチザンと何の選ぶところがない」と断言。「国際信義を重んずる対外政の見地より言えば、日本が尼港事件の補償として樺太を占領したることが正理であるならば、北海海賊事件の補償として露国が千島、対馬を占領することあるも、これまた正理と言わねばならぬ」と述べ、事件の裏には軍閥の陰謀があるといわれていることに触れ、そうした見方を否定する国民は「君子」だと皮肉った。

 読売も12月26日付朝刊で「江連事件と陸軍當(当)局の責任」という無署名の社説ふうの記事を掲載した。江連と児玉代議士が大輝丸出航直前の9月中旬に松木大佐と数回会見したのは事実と記述。オホーツク方面への航海の斡旋、つまり現地軍への紹介を依頼した可能性を指摘し「陸軍当局は今日までの経緯を十分明らかにする責任があると言われている」と述べた。

 一方、当初は軍の関与をにおわせた時事新報は翌日12月16日付朝刊になると、「事件の背景に大きな人物が潜んでいるとのうわさは絶対に事実がないことが判明した」と態度を一変。12月21日付朝刊でも、警視庁刑事部長の「陸軍省で了解があるとかなんとかいううわさは絶対に事実がないと自分は確信する」という発言を伝えた。

 翌1923年1月9日、東京地裁の予審判事は、人事異動で昇進して台湾第一守備隊司令官となった松木少将を召喚。尋問したが、内容は不明。結局、予審終結決定書や一・二審判決でも軍の関与は全く触れられなかった。

■公文書に残された言葉

 しかし、動かせない事実がある。国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブには、江連らの動きについて陸軍省、外務省とアレクサンドロフスクの派遣軍参謀部が交わした公文書が公開されている。

 まず、1922年9月23日の日付で松木大佐の印が押された電報は「予備銃貸與(与)の件」として「露領『オホック』方面へ出張中の江連力一郎より願い出あれば、貴軍保管予備兵器中より三八式歩兵銃百(100)、同弾薬一万(10,000)貸与方取り計らわれたし」としている。これに対し、斉藤・派遣軍参謀長名の電報は「現在、他に貸し出しているので応じられない」と返信。

 そこへ日付は不明だが「内田(康哉・外務)大臣」から現地参謀部の通訳官宛てに「同人(江連ら)の行動はこの際、極めて危険と認められる」ので、陸軍と打ち合わせて調べ、場合によっては渡航差し止め措置をとるよう命令。「本人たちは内務省の了解があると言うかもしれないが、内務省は何ら了解を与えたことはないと言っている」とした。

 これを受けて陸軍省は「渡航の目的が本人たちの申し出とは違うようだ」として措置を了解。さらに追いかけた10月4日付の電報で「江連一行と陸軍とは何等(なんら)特種の関係なし」と断言した。

■「国際的大事件になるかもしれない」

 このいきさつを見ると、松木大佐が江連らに武器の貸与を含めた便宜供与を約束したことは間違いない。しかし、その間に悪いうわさが入ってきた。立花義順・元東日記者の「海賊船大輝丸事件」は、3人の乗組員が布施弁護士のところに相談に来ていたとき、「この江連力一郎の海賊船大輝丸事件は、既に少数の人々の間ではあったが大きな関心を呼んでいたもので」と書いている。

 それに符合する新聞記事もある。東日が特ダネを打つ約2カ月前、10月7日付の読売朝刊社会面トップ「陸軍と御用商人が絡んで 軍器買込みの怪事 大阪の一商船がサガレンのア港で 某方面に利用して又また國際問題」。

 江連の名前は出ていないが、大輝丸が大量の武器と食糧などを積んでアレクサンドロフ港に寄港。さらに北部沿海州方面へ向かったとした。「国際的大事件になるかもしれない」「海賊船と見られても釈明の余地がない」とまで書いている。

 その後の情報もあった。警察の正史である「警視庁史 大正編」(1960年)によれば、同年10月、サハリン北部の近海で漂流するロシアの貨物船が発見され、乗組員は1人もおらず、船内が激しく荒らされていた。

 続いて同じような船が見つかり、海賊船に襲われて乗組員は全員殺されたということになった。日本とロシアはそれぞれ沿海の警備に当たったが、ある日、ロシアの警備艇が1人の男が漂流しているのを発見。江連らに襲われて1人だけ海中に飛び込んで逃げた乗組員と判明した。日本政府も捜査に当たったが、見つからないまま12月になったのだという。

 陸軍省と外務省は江連らの不審な行動をつかんでいた。読売の報道もあった。この時点で対処していれば、あるいは海賊行為は防げたかもしれない。それらの事実が明るみに出ないよう、政府ぐるみで裁判に圧力をかけたことが想像できる。

■「誠に正直な善良な、そして、ごく内気な素直な青年だった」

 戦後の1951年7月3日、江連はまだ続いていた他の被告の公判に証人として出廷。「大輝丸は海賊船ではなく、軍部に頼まれてオホーツク方面の白露軍に武器を運ぶ目的だった。しかし、武器が手に入らず、アレクサンドロフ港で調達しようとしているとき、ロシア船と接触したことから乗組員同志が銃で撃ち合いになった。ロシアの2つの船とも戦闘行為だった」と述べた。しかし、これも部下を守るためか、話がうまくできすぎていて全面的には信用できない。

 江連には獄中で記した「獄中日記」(1932年)がある。記述からは礼節を重んじる古武士のような風貌が浮かぶ。奇妙なのは、その中に海賊事件に触れる記述が全くないことだ。自慢するわけでもなく、反省や弁解の言葉もない。

 事件発覚直後の12月15日付東朝朝刊のコラム「鐵箒」には、江連と水戸工兵隊で同期の志願兵という人の「江連の性格」という投書が載っている。「誠に正直な善良な、そして、ごく内気な素直な好個の(ちょうどいい)青年だった」という。

「内務にも演習にも忠実な勤勉家」。鈍重な方でよく上官からビンタを受けたが、「同輩にはこのうえない親切な友だった」。南洋から帰った後に会い、武勇伝を聞いたが「自分から武勇講談の主人公を以って任ずるドン・キホーテ」のようだった。「彼は単なる浮浪漢、殺人鬼ではない」と断言している。

「剣士江連力一郎伝」は「大輝丸事件は尼港の復讐だったという巷説は、反ソの気運が生んだ作りごとに違いない、と思う」と力説。「江連力一郎の品性に、『国士』という国事に生涯を懸ける人物の風格がのぞけるだろうか。剣客ではあったが、粗野な気取り屋の田舎者の一人にすぎなかったのではなかったか」と言う。

「彼の目的は、砂金の採取(略奪)だった。その目的が挫折し、乗組員を帰国させるための、苦し紛れの通り魔に変貌した犯罪なのである」。私も似た感想を抱く。ただ、砂金採取で軍が武器を渡してくれるとは思えない。公判でも部分的に陳述しているように、砂金で稼いだ資金を使ってオホーツク方面にいる日本人を船で連れ帰るなどを名目にしたのではないだろうか。

 実際に事件発覚直後のころにもオホーツクで飢餓に陥った邦人保護のために救援船が派遣されていた。これに対して、このころ、日本政府がシベリア撤兵を進めようとしていることに陸軍参謀本部や現地軍が反対していた。軍部の一部には江連らにわずかでも局面を有利にするための工作を期待する空気があったのではないか。

■「殺るほかないと決めちまった」

 同書には1937年に弟子が江連に質問した内容が載っている。

〈「大輝丸で出かけたのは、砂金を狙ったようですが、それはほんと?」

「ほんとだ。失敗したがネ」

「船上で殺(や)ったとき、尼港の報復だとか、水戸連隊の復讐だとか伝えられたんだけど、本心はどうだったんです?」

「本心か、ウン」

「いくらせっぱつまっての処置だったとしても、命乞いする民間人を殺るなんてひどい」

「そうだったナ」

「そんなことをするのが、尼港や水戸の報復になると思ったんですか?」

「思わんナ」

「じゃ、どうして?」

「いまにして思えば、ほかに打つ手があった。あんときは殺るほかないと決めちまった。殺る段になって、俺は怒鳴っちまった。大正9年5月24日(虐殺の日)を忘れるなッて。で、合図のピストルをぶっぱなしたんだ。それを、部下の連中が後になってしゃべったからナ」〉

 当初の目的がかなわないと分かったとき、素直に帰国する手もあった。江連にそれをさせなかったのは、部下に対する見栄、そして自分に張られた「国士」「豪放」「快男児」といったレッテルを裏切れないというプライドだったのではないか。

 本当は真面目で繊細で、思ったより小心だったのでは? そのうえで「江連力一郎」を演じていた。切羽詰まって「尼港事件」の現場を見た際の怒りの感情に仮託して「海賊」行為に突っ走った。そんなところが真相だったように思えるのだが……。

■「憂国の志士」の“虚像”

 そして、時代が江連の位置付けを変えていく。1930年11月の江連の出獄時のことを「剣士江連力一郎伝」は「『義賊』『国士』の歓迎ぶりで、右翼勢力の噴出を象徴するかに見えたのである」と書いた。

 昭和恐慌が進み、同じ11月には濱口雄幸首相が狙撃された。「満州事変」は翌年、「五・一五事件」は翌翌年。日本が戦争の時代に深く入って行くのに合わせて、江連は「海賊団の巨魁」「無法のテロリスト」から「憂国の志士」「熱血の快男児」に押し上げられた。

「雪之丞変化」などの大衆作家、三上於菟吉は小説「怪傑江連力一郎」を「中央公論」に載せるほど。だが、それは主にメディアが作り上げた“虚像”だったのではないか。

 出獄が決まったことを報じた1930年4月17日発行18日付東朝夕刊の記事は江連に「かつて北海に海賊船大輝丸を浮かべて露船を撃滅。尼港の恨みを晴らしたというロマンチックな海洋奇談の主人公」の形容詞を付けた。

 ちょうど1世紀後の現在、例えば万が一、この国の周辺で「日本有事」の出来事が起きたとき、メディアはどれほど冷静でいられるだろうか。国民は熱狂のうずに巻き込まれないだろうか。危うくはないだろうか。

【参考文献】

▽小泉輝三朗「大正犯罪史正談」 大学書房 1955年
▽ 「日本近現代史辞典」 東洋経済新報社 1978年
▽陸軍省・海軍省編「尼港事件ノ顛末」 1920年
▽今井清一編著「日本の百年5 成金天下」 ちくま学芸文庫 2008年
▽安久井竹次郎「剣士江連力一郎伝 北海の倭寇、草莽の首領」 創思社出版 1983年
▽森長英三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
▽半藤一利ら「歴代陸軍大将全覧昭和篇 満州事変・支那事変期」 中公新書ラクレ 2010年
▽「警視庁史 大正編」 1960年
▽江連力一郎「獄中日記」 郁文書院 1932年
▽江連力一郎「ステッキ術」 郁文書院 1932年

(小池 新)

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