懐に手榴弾を忍ばせて…「首を縦に振らなかったらピンを離すぞというわけや」山一抗争の主要人物が語る、抗争勃発の“裏側”

懐に手榴弾を忍ばせて…「首を縦に振らなかったらピンを離すぞというわけや」山一抗争の主要人物が語る、抗争勃発の“裏側”

田岡一雄組長(中列左から3人目)を山本健一(田岡組長の右)、加茂田重政(同左)ら側近組長が囲む 『烈侠』より

 死者29名、負傷者70名(警察官、一般市民含む)を出した史上最悪と言われる"山一抗争"。1984年から89年にかけて山口組と一和会の間で起こった暴力団抗争の発端、それは戦後、山口組を日本最大の指定暴力団へと急成長させた三代目組長・田岡一雄の死去に伴う跡目争いだった――。

 ここでは、一和会副会長兼理事長を務めた加茂田重政氏が半生を語った『 烈侠 』(彩図社)より一部を抜粋。山一抗争が勃発した知られざる経緯を、加茂田氏の視点で振り返る。(全2回の1回目/ 後編を読む )

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■「三代目の遺言」はなかった

「三代目の遺言」とかいう例の話やけどな、そんなの絶対ない。いまさら言うても詮無いことやけど、ほんまは山広が継ぐのが筋やろ。よりはっきり言えば、山広に順番がまわってきとった。それをあの人が勝手に決めたんやないか。それを「三代目の田岡の親分の遺言や」と言うて。

 姐さんのせいで一和会となったいう話もあるけれども、それはたしかやろ。姐さんが竹中を可愛がりよったからな。わしもなにかと反発するほうやんか、なんでも「はいはい」言うほうやないねん、気性的には。だから「マサはうるさい」と言われる、そういうところがあると思うわ。

 わし自身が四代目になるっていう頭(考え)はなかった。田岡の親分が亡くなったときに、「四代目は狙うなよ、そういう野心は持ったらあかんよ」と米田にも言われとったし、わしもそう言われて「そりゃそうやな」と思っとった。竹中とは貫目でいえば同じやし、人数的にはウチのほうが全然多かったんやけど、それは流れが決めることであって、自分から「わしが当代になる」と言うもんではないやろ。極道の実力は運も大事や。

 竹中とも、実際のところ山広が四代目を継ぐとの話で確認しとったんや。竹中も最初は四代目について「自分はいらん、そんな気はない」て言うてたんやで。竹中が神戸拘置所に入ってたときに、わしは面会に行ってるんや(昭和五58〈1983〉年6月)。そんときに「兄弟、山広に四代目を継がせ。あとはどうにでもなるやないか」「兄弟はまだ若いやないか」と言うて、竹中もそんときはそれで納得しとった。

 竹中が保釈で出てきた翌日、夜中まで飲んで話をしたとき、竹中は「兄弟、山広が四代目を継いだら、わしと一緒に『兄弟会』をこしらえんか」と言うてた。「兄弟、(山口組を)出よ、出て、二人で(新しい組を)作ろうや」とすら、竹中とわしとで言うとったこともある。 それも、竹中からや。山口組を割って出て、一本で行くいうような話もしとった。

 ところが、竹中は姐さんに言いくるめられて豹変や。それでわしの嫁も姐さんに呼ばれて、「マサのバカタレが、竹中と話はしなかったんか」「生一本な人間やから、一本になるのはともかくも、あっち(山広派)には行ってないやろな」とも言われとる。もう、その段階でわかったわな。「組が振り回されとる」と。

 四代目の襲名の手続きでいえば、6月5日の定例会で決まることになっとったが、実は2日前に決まっとるわけや。これはおかしい。稲川総裁が神戸に来て、姐さんが「お父ちゃんの遺志で、竹中を四代目にする」と、その場で稲川総裁の了解をとりつけてる。稲川総裁に「ついては後見をお願いします」と頼んでるわけやろ。そこまで決められとった。

 せやから、(竹中四代目の誕生に反対する)わしらが5日の定例会に出れば、ひとこと言わなならん。「一度も直系の者たちで話し合いがないのに、なんで勝手なこと決めとるねん」と。順序が違うやないかと。道すじがおかしいやろと。そしたら、竹中を推す連中は、「お前らは姐さんの言うことを聞けんのか」「稲川総裁が後見すると言うとるのに、恥をかかすんかい」とくるやろ。そうなったら、修羅場やろが。その場で殴り合いや。

 わしらは田岡の親分のおかげでここまで来れたんやから、その大恩のある親分の家で喧嘩騒ぎを起こすわけにはいかん。だから定例会は欠席した。確実に罵り合いや殴り合いになるのがわかっとったからや。

 それと、わしらは竹中の盃を受けたわけやないから、言葉の正しい意味では山口組の分裂ではないんや。四代目を認めんから「離脱」したわけであって、逆盃をしたわけではない。だから「義絶状」とかいうのは、本来成立しない。竹中とは親子やないんやから。

[義絶状とは?]

 義絶状とは、山口組から分裂した一和会に対し山口組が出した状である。この状は本来は個人に出されるものであり、これを組に対して出すのは極めて稀なことである。

 

 この状の種類には破門、絶縁、除籍、引退などの種類があり、破門状には黒字破門、赤字破門がある。黒字破門の場合は期間をおいて破門が解除される。その場合は復縁状などが配られる。赤字破門は絶縁と同等の意味があるが、人を立てての復帰の可能性がある。除籍は組織に対しての貢献がある人間に対しての処分であり、引退は言葉通りのものである。

■「あんなとこは信用できん」手打ち破りは2、3回あった

 わしらが山口組と別れる前後の話や。竹中とわしが話し合いをしたんや。そのときはまだ別れてなくて、竹中と加茂田と四国高知の豪友会な、それでうまく収まってた。ところが、ある人間がごちゃごちゃして、死んでもうたんや。で、神竜会が竹中とおかしくなった。

 神竜会は、元は加茂田組やから。結局、竹中と別れたのには、その対立にわしも巻き込まれたというのもある。それで別れて、神戸に帰ったら、すぐに山広から電話がかかってきて、山広に会うた。それで、山広と手を組むことになっていったというのが本当の話や。このあたりは誰も知らん思うわ。わしと山広だけの話やったから。

 あと、竹中についていく気にならんかったんは、割れてどうこうなりそうやった時期、わしは兵庫病院に入院しとかんと捕まりそうなことがあって、偽装で入院してたんやけど、そのときに竹中と姫路の木下会の枝と、ちょっと揉めたことがあった。それをいったん手打ちしたら、向こうは手打ち破りをしたわけや。せやからもう、あんなとこは信用できんと。しかも手打ち破りは2、3回あった。(竹中についていかなかったのは)そういうのもある。

 竹中は機転がきくというか、細田組が潰れたとき(昭和五58〈1983〉年7月)に、西脇組と竹中組が細田の若い衆を吸い上げたことがあってな。そんとき、わしに細田から電話がかかってきて「兄弟、来てくれ」と言う。「いま、竹中の兄弟と西脇の兄弟がうちの組に来てる」と。

 細田は、「組を竹中と西脇で2分割みたいな形にするんはやめろ」言うてた。つまり、自分で行きたいところを決めろと。「お前ら行きたいとこにみんな行け」と細田は自分とこの若い衆に言うてたわけや。「自分は加茂田行きます」「自分は山健行きます」、中には竹中のところに行く者もおるやろ、でも、若い衆がそれぞれ自分で決めて組を移る。それでええやん。それが、若い衆を自分のとこに吸い上げるためによその組を切り取るようなことをした。

 竹中とは言い合いをしたこともあった。北海道へ加茂田組が侵攻したときに「お前が取ってこんかい」とか言われて、わしは「なんであいつに言われなあかんねん」と思うた。山健が言うならまだわかるけどな、若頭でもなんでもない人間に言われて。「なんやありゃ、あれに言われることがあるかい」と。

■誰が組長なら分裂はなかったか

 四代目を誰にするのか、親分衆の合意がちゃんと反映されとるとか、田岡の親分がほんまに指名していた、とかのような筋が通った話やったら、わしは呑むよ。当たり前やがな。けどな、遺言なんてそもそも存在しない話を持ち出してくるからややこしゅうなる。

 その辺がきっちりしてないときに、山広以外の人間で、わしが誰ならついていくかの話なら、わしは山健が四代目やったら、ついていった。横浜の益田がクッションで継ぐんでもよかったかもわからんな。それやったら山口組におったかな。実際、益田のワンポイントっていうんは、当時噂されてたから。益田が継いどったら、いったんみんな丸くおさまる。

 そもそもやで、竹中については、「なんで四代目を継ぐんや」ということでみんな反発したわけやから。中山(勝正・三代目山口組若頭補佐、豪友会会長)のほうがまだよかったんちゃうかと、わしは思うてた。竹中に継がせるより、中山のほうが良かった。

 あとは、一和会で出るときに、加茂田組が独立する可能性もあったことも言うとくわ。わし自身も、そう口に出して言うてたしな。ほんまに一本で行ったほうが、良かったかもわからへんな。そりゃあキツいやろうけど。あの地域(福原)を押さえていれば、加茂田の名前でそれなりに食えていけるしね。

 で、頃合いを見計らって山口組に帰ればええ、と思ったんやけど。そこらへんは、わしは不器用やった。やっぱり、頼まれて喧嘩で頼りにされたら、わしの力を見せたろ、と思うてまうんや。

■山広が懐に手榴弾を──身を捨てての説得

 一和会に参加した理由は、ずっと言わなかったんやけど、あのときは首を縦に振るしかなかった。さっき、山広が電話してきて会うたという話をしたが、そのときの話や。

 実は、山広は家に話し合いに来たとき、懐に手榴弾を忍ばせてきとった。わしが首を縦に振らなかったら(手榴弾の)ピンを離すぞというわけや。それは今でもよう憶えとる。わしがそこで頼みを受け入れなければ、山広は手榴弾を爆発させるつもりやった。懐にそれが見えてな、山広は「『うん』と言うてくれ、言うてくれなかったら爆発させるで」言うとった。そら極道やし、いざというときの肚は据わっとった。それくらいの覚悟は山広にもあったいうことや。

 山広の説得で一和会に行ったときは、自分で納得して行ったというより、そらもう山広についた人間を助けるために、という気概や。ただ、山口組という名前を捨てて一和会に行くのは、気持ちとしてはあかんかった。そんときは気持ちが張ってるから、わしの力を見せたるという感じになっとった。

 山広とは五分の兄弟やけど、山広のほうが年齢が上やから、わしは一和会の中では山広を立ててた。でも二人きりのときは「ヤマヒロ」やったな。

 しかし、山広は抗争に負けた組長やからと、いろいろ言われとる。わしもそりゃ山広には思うところもいろいろあるで。でも、世の中、勝てば官軍、言うけどな、仮に山広がボンクラやったとして、なんで三代目山口組組長代行とか、入れ札を山健とやるほどの地位に就くなんてことになるんや。そんな話があってたまるか。それはそれで言うとかなあかんな。

■美人のママがいる中華料理店で事始め

 一和会の名前についてやけど、一和会は「和」という名前を使うとるけど、要するにみんなで協調するというような意味や。最初の「一」は田岡一雄の一(かず)、和は田岡の親分が言う「和親合一(わしんごういつ)」を合わせたものなんや。せやから最初は「一和会」(かずわかい)やったんが、マスコミが「いちわ」と読むもんやから、しゃあないから一和会(いちわかい)となった。そのあたりはこだわりがのうて、ええ加減なもんやった。わしはもう名前は、どうでもよかった。

 一和会の幹部は、山広とかは経済ヤクザやった。喧嘩できる極道もおればカネ儲けがうまい極道もおる。佐々木道雄(一和会幹事長、三代目山口組若中、佐々木組組長)とか白神英雄は顔の広い極道やった。日本中に幅広い人脈があって、外交家やったな。

 一和会の本部は、元町のニューグランドビル。二階を全部ぶち抜きで事務所にして、下にあった中華料理店で事始めなどしとった。あの店は、わしの伝手があった。美人のママがおって、えらい面倒見てもろたわ。気っ風がええ人でな、わしあんな女の人はほかに見たことない。いろいろ気を遣うてくれてな。

 抗争が始まってからは、もう、わしら飯を食う暇もないねん。外で店に入って、ゆっくり食べる時間がないのやな。せやから、事務所に戻ってきたら腹が減ってかなわん。それで、若い衆が「ママ、親分なんも食べてないんや」とか言うから、ママも「ええーっ」て驚いてな。そしたらすぐに作ってくれる。

 あのビルやけど、一階のあそこの入り口というのは、使ってなかったんや。横からしか入れなかった。階段でね。

■加茂田組の参加が持つ意味

 もしわしが参加してなかったら、一和会もあないな形で成立しとらんやろ。わしの名前がなければ、溝橋、北山、あのへんは全部出てない。あれらはもともと番町会やしな。

 あとから考えれば、わしがまとめて下から、番町会にいたような人間を全部取り込んで、そういうのを一本でまとめていったほうがきれいだったんちゃうか。山広は山広、わしはわしというかたちで別にやっていくという形や。まあ、やってもうたことはしゃあないが。

 しかし、わしがおらなんだら、もし分裂はしとったとしても、あないな全面戦争にはなってなかったかもしれん。テレビのインタビューで「来たら行きます。喧嘩はします」言うたのは、そら極道やからしゃあないで。極道しとる以上、来たら行かなならんやろ、ということや。

 もともと、四代目選出の手続きが理不尽やったから、仕方なく組を出たまでで、割って出た意識はあんまりなかった。その点は、いまの六代目山口組と神戸山口組の抗争とは違う。四代目選出がそういう形なら、こっちは独自の道を行くわ、というだけの話や。

 最初に手を出したのは向こうで、こっちが仕掛けた喧嘩やないから。せやけど、来たらしゃあないやろ。そんだけの話や。受けて立ったというだけや。

「フリーパスみたいなもんや」お付きの者や若い衆を連れ…元・山口組幹部が語る、ディズニーランドで“並ばずに乗れた”意外なワケ へ続く

(加茂田 重政)

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