「死ぬリスクを負ってまで、行く意味とは」野口聡一が“宇宙飛行の意味”を考えるようになった空中分解事故

「死ぬリスクを負ってまで、行く意味とは」野口聡一が“宇宙飛行の意味”を考えるようになった空中分解事故

宇宙から見た地球 ©NASA/JAXA

 文藝春秋2022年10月号より、科学ジャーナリスト・須田桃子氏による「文藝春秋が伝えた科学の肉声」の一部を掲載します。

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■大気圏で燃え尽きようとしていた

 今回、文藝春秋に掲載されたおよそ100年分の科学に関する記事を読んで感じたのは、科学や技術は着実に、分野によっては相当のスピードで進歩しているということだ。

 一方で、新たな技術は恩恵や利益だけでなく、新たな倫理的・社会的課題をもたらし、時には一般社会との軋轢を引き起こす。そうした課題についての本質的な議論が深まらないまま、技術ばかりが先行している分野もある。また、科学の知見を政治や行政の判断に活かしていくことも重要なはずだが、日本ではこの部分が成熟しておらず、様々な分野で同じ過ちが繰り返されているように見える。

 今回は「宇宙開発」「生命科学」「原子力・地震」「研究不正」「科学技術政策」「科学とは何か」の6つのテーマに絞り、科学の本質や社会との関係性を考える上で重要と思われる記事を選んだ(記事中の肩書は掲載時)。

■宇宙飛行士はカプセルもろとも燃え尽きてしまう

 文藝春秋は宇宙開発の初期から、国内外の宇宙飛行士たちの肉声を伝えてきた。ミッションに「人類初」の枕詞がついて回った初期の飛行士たちに際立つのは、沈着冷静ぶりだ。米空軍のジョン・グレン中佐は「宇宙最悪の旅」(1962年5月号)で、米国人として初の有人地球周回の一部始終を記している。ソ連のユーリ・ガガーリン氏が、人類初の有人宇宙飛行に成功した翌年のことだった。

 1周目の終わりに自動操縦装置に故障が発生し、グレン氏はそれ以降、大部分を自分の手で操縦する。3周目の後に帰還することになったが、ここで最大の危機が訪れた。カプセル(宇宙船)の遮熱装置が外れる可能性が浮上したのだ。それがなければ大気圏突入後、1500度以上の熱にさらされ、飛行士はカプセルもろとも燃え尽きてしまう。

 だがグレン氏は、類まれな精神力を発揮する。「たとえ最悪の事態が起こっているにしても、私としてはこれを防ぐことはできないのだし、どちらに転ぶにしてもこの危機は長くは続かないだろう。そこで私は人事を尽くして天命を待つといった気持ちで、その時に私がなし得たこと——つまりカプセルの平衡を保つことに努力した」。

 幸い遮熱装置は外れず、カプセルは大西洋上で無事、回収される。地球への帰還後、渡された質問表の最後の一問は「今日いつもとは違ったことがあったか」。

 グレン氏は密かな自負と安堵を込めてこう記す。「宇宙でも平常な一日でした」。

■「ほんとうに苦しんだのは徹頭徹尾、対人関係である」

 1962年4月号
 宇宙開発の最高殊勲チーム
 糸川英夫(東大生産技術研究所教授)

 実は冒頭のグレン中佐の地球周回(マーキュリー計画)は、故障や悪天候で11回も延期されている。「〈度重なる延期が〉世界中の新聞で叩かれているときに、他人ごとではなく心から同情せざるを得なかった」(〈 〉内は引用者注、以下同)と綴ったのは、1950年代半ば、東京大学生産技術研究所を拠点にロケット研究を開始した「日本の宇宙開発の父」、糸川英夫博士だ。

 糸川氏らが開発した初めての本格的な地球観測用ロケット「カッパロケット〈記事中ではカッパー〉」の開発で糸川氏が最も苦心したのは、意外にも「対人関係」だったという。

「研究者が、科学的な、或いは技術的な難問に立ち向うのは苦しみではない。楽しみである。(中略)ほんとうに苦しんだのはこんなことではなくて、徹頭徹尾、対人関係である。人と人とのふれ合いによって生ずる誤解と意見の不一致である」

 糸川氏が味わった「煉獄の苦しみの連続」は、大勢のチームで研究を進めたがゆえに生じたものだった。だが糸川氏は、「ロケットの研究は始めから性格的にチーム研究をとるべきであった」と断言する。なぜなら、日本では誰も成功経験のない研究分野であり、知恵を寄せ合いながら手探りで進むほかなかったからだ。

 最初のペンシルロケットは青空に飛び立つ代わりに、発射台を滑り落ち、砂上を這い回った。そして研究チームが命運をかけたカッパ6型4号機は、1958年6月、ついに初の宇宙観測に成功する。このロケットも1~3号機の連続失敗や、それによる世間の批判に耐えて成功に漕ぎつけたのだった。

 悲喜こもごもの年月を振り返る糸川氏の次の言葉には、感慨と未来への期待が込められている。

「かつてカッパーロケットの最初の計画図面を前にして、これが芽ならば、樫の木の巨木になる日まで、よく風雪に耐え抜け、と心につぶやいた日を想うと、今は巨木になって日本の宇宙科学を支えているカッパーロケットの歴史の一頁一頁も亦(また)過去の夢にしかすぎない」

■「はやぶさ2」成功の陰に

 そんな糸川氏の名に因(ちな)んで名付けられた小惑星「イトカワ」から2010年に試料を地球に持ち帰ったのが、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の探査機「はやぶさ」だ。月以外の天体からの“サンプルリターン”は世界初の快挙。はやぶさの打ち上げに使われたのは、糸川氏のペンシルロケットの流れをくむ固体燃料ロケット〔M-V(ミューファイブ)ロケット〕だった。

 はやぶさの後継機が20年、別の小惑星「リュウグウ」から目標を大きく上回る5・4グラムもの試料を持ち帰ったのは記憶に新しい。JAXAの津田雄一プロジェクトマネージャーは「はやぶさ2『管制室で震えた“完璧なる帰還”』」(2021年2月号)で、試料の写真を見た時の感動を「『10年越しの勝負に勝った!』と絶叫したい思い」だったと明かしている。

 困難に直面した際、意見が分かれたり、プロジェクトマネージャーの決断に異論が出て混乱したりしたことはなかったのか。津田氏の語る「備え」が印象的だ。1~2年前から具体的な場面を想定した議論をチームで重ねていたという。

「選択肢は無限にあるので、本番で議論をしていたのでは結論が出るまで時間がかかり混乱が続くことが目に見えていましたから。『このケースの議論の選択肢はこれとこれだ』とあらかじめ二択か三択のレールを敷いておくことにかなりの力を入れたんです」

 この入念な備えがあったからこそ、いざという時のチームの議論が拡散せず、迅速に迷いなく判断を下すことができたのだ。探査機の運用を担う工学者チームと研究を担う科学者チームがスクラムを組み、科学者チームの代表が工学者チームに参加するなど相互理解を促す工夫もした。

 技術力は言うまでもないが、かつて糸川氏が悩んだチーム運営の手法も、60年の時を経て進化したことがわかる。

 さて、有人飛行では米ソが熾烈な先陣争いを繰り広げたが、冷戦終結後は国際宇宙ステーション(ISS)が建設され、宇宙は国際協調の舞台になっていく。日本人宇宙飛行士も次々に誕生した。彼らの手記やインタビューもそれぞれの人の個性が表れていて味わい深い。中でも、人類が宇宙に行く意味を深く考察しているのが、2021年5月、約半年ぶりにISSから地球に帰ってきた野口聡一・宇宙飛行士だ。

■「“死の世界”に包まれている」

  2021年12月号
  宇宙で知った生と死の境界点
  野口聡一(宇宙飛行士)

 野口氏は2003年に起きたコロンビア号の空中分解事故を機に、「死ぬリスクを負ってまで、宇宙に行く意味とはなんだろう」と考えるようになった。「これまで私たちは数値化できない、人間の内面的な変化に向き合ってこなかったのではないか。そんな思いが宇宙飛行を重ねる度に強くなっていきました」。

 野口氏の宇宙滞在日数は344日に及ぶが、宇宙飛行士としてのハイライトは、時間にしてみればごく短い船外活動にあるという。生命の気配はもちろん、音も一切ない宇宙空間。「“死の世界”に包まれている」ように感じる一方で、何にも遮られず対峙する地球は「まるで生き物のように眩しく、輝いて」いた。

「宇宙から地球を眺めたとき、私が生まれてから今まで経験してきたことは、すべてあの球体の中で起こったのだと思い、直感的に地球の持つ時空の広がりを理解できたように感じました」

 広大なサバンナや北極が今いる場所と地続きであり、40億年の生命の連鎖のもとに今の地球があることが、宇宙からの帰還後は実感できるようになったのだという。

「間違いなく、この星でしか私は生きられないし、そこに帰っていって死ぬ。先祖も、今後生まれてくる子孫もすべて、この球体の中で生まれ、死んでいく。三次元の空間的な広がりだけでなく、概念では捉えきれないほどの時間の広がりがそこにあるのに、それを私が見ているのはこの一瞬というアンビバレントさと尊さがあります」

  須田桃子氏「文藝春秋が伝えた科学の肉声」 全文は、月刊「文藝春秋」2022年10月号と「文藝春秋digital」に掲載しています。

 

(須田 桃子/文藝春秋 2022年10月号)

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