目の前には「内臓をほとんど食い尽くされた」若い女性が…「人喰いヒグマ多発地帯」北海道・樺太の惨劇

目の前には「内臓をほとんど食い尽くされた」若い女性が…「人喰いヒグマ多発地帯」北海道・樺太の惨劇

「樺太の熊は北海道の熊よりおとなしい」――そんな風説を否定するような樺太で起きた「人喰い熊事件」の数々をお届け。写真はイメージです ©getty

出てきたのは女の髪の毛、赤子の両手…人喰いヒグマを解剖してわかった「衝撃の中身」 から続く

「樺太の熊は北海道の熊よりおとなしい」――そんな風説を否定する樺太で多発した「人喰い熊事件」の数々を、ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『 神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史 』より一部抜粋してお届け。

 なぜ、大正後期を境に人喰い熊事件が多発したのだろうか?(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■北限の出稼ぎの地

 明治時代には「北海道落ち」という言葉があった。本州で食いつめた者が、北海道に「落ち延びる」ことを指す。

 そして北海道には「樺太落ち」という言葉があった。北海道で食いつめた者が、さらに樺太に「落ち延びる」からである。

 樺太は、冬期に零下20度を記録するのが普通の酷寒地であり、流氷のために交通は杜絶する。また水稲栽培が不可能なため、米はすべて移入せざるを得ない。従って物価が非常に高かったといわれる。

 その一方で、賃金もまた一般的に高かった。夏期の短い北方では、漁業や土木業など多くの産業が夏に集中せざるを得ない。短期間に多くの人手が必要なため、賃金が高止まりする傾向があった。さらに緯度が高いため、夏の1日は極端に長い。

 要するに「きついが金になる」ので、多くの出稼ぎ労働者が、北海道、樺太に渡ったのである。

 また同島は北海道と同じく大自然の宝庫であり、ヒグマの密集地帯でもあった(地元の人々は「アカグマ」と呼んでいたが、ヒグマが「緋熊」と言われるように赤毛の個体が多いことを考えれば同種と言っていいだろう)。

 樺太のヒグマはおとなしく、人間に向かってくることは滅多にないと長らく言い伝えられてきた。たとえば以下のような記述である。

「同じ熊でも樺太の熊は北海道の熊よりおとなしい、樺太の熊は突然人に出会って驚いた時でなければ決して進んで人を襲わない」――『樺太日日新聞』大正5年9月30日

「樺太の熊は北海道のものほど執念深くなく、実にあっさりとしている(中略)それはこの地の熊が臆病であると云うよりは、下手に人間様に相手になってはよいことが無いという風に考えているので、寧ろそれは寒国の動物の特性たる賢さから来るものであろう」――『樺太風物抄』谷口尚文、七丈書院、昭和19年

「こっちは自動車に乗っていたんだが、ついウッカリとクラクションを鳴らしてしまったんだ。すると奴さん、驚くまいことか飛び上がってスタコラと一目散に逃げ出してしまった。その恰好の可笑しさに思わず哄笑してしまったが、こんなユーモアたっぷりな、それでいてスリルに富んだ出来事も樺太の秋でなければ見られない事である(「樺太の旅」阿部悦郎)」――『週刊朝日』昭和10年秋季特別号

 しかし筆者が地元紙『樺太日日新聞』(明治43年~昭和17年)をほぼすべて閲覧した印象では、決してそんなことはない。

 冬が長く、夏の極端に短いこの地方では、いったん食物に困窮すると、里に下りて見境なく牛馬を喰い殺し、場合によっては人間をも襲った。そしてその凶暴性は年々増していき、昭和10年には樺太全島を震撼させた「伊皿山事件」が起きるのである。

 本章で取り上げるのは、樺太庁管轄のため北海道庁の統計資料には出てこない、従って専門家の間でもまったく知られていない、樺太における人喰い熊事件の数々である。

■炭鉱調査隊が襲われる

 筆者の調べた限りでは、樺太統治が始まった明治末期から大正中頃にかけては、殺傷事件は極めて少なく、その多くは猟師が手負い熊に逆襲されるというケースであった。しかし一つだけ謎に包まれた事件がある。

「熊に喰はれしか――本年七月中、樺太島の劇場樺太座に乗込み数日間、慈善興行を為せる、区内函館無料宿泊所慈善活動写真隊、照沼兵吉ほか六名の一行は、同所を打揚げ後、西海岸各地を巡業し、さらに栄浜方面に向かいたるが、その後どこに行きたるものか、本部にさえも一向通信なしとて所主、区内宝町仲山与七より、これが捜索方を樺太支庁警務係に出願したりと」――大正2年10月4日『函館新聞』

 この失踪事件に関しては、当該記事以外にまったく手がかりがないが、前記「伊皿山事件」との関連もありそうなので後述する。

 大正前期までは、獣害事件に関しては、おおむね平穏であった樺太も、後期になると、にわかに不穏な事件が続発するようになる。特筆すべきは、大正11年に西海岸北部の恵須取町で発生した、鉱山会社の地質調査隊一行が執拗にヒグマに付け狙われた事件である。

 この事件は、現地に出張していた樺太庁の技手が上司に当てた手紙を、地元紙が報じたことで騒ぎになった。以下、手紙の一部を転載してみよう。

「「……新聞や警務課員等の噂にてよくご存じとは思い居り候えども、千緒川上流二里くらいのところに宿営せる三菱隊より米噌運搬のため、海岸なる伊賀駅逓に遣わしたる人夫一名ラッパを吹きながら下山の途中、午前七時頃海岸より千間足らずの場所にて突然に襲われ、直ちにラッパは打ち落とされ、横打ちに打ち倒され、臀部に噛みつかれたり」

(中略)「去る十五日、三井会社の三人連れにて標杭打ちを終わり帰途、午後五時頃、千緒川の上流一里半余の場所にて、先頭に歩める人夫一名またもや熊に襲われ、顔面半分骨を痛める重傷、その他側頭部等に掻き傷を負い、(中略)上述のごとく熊に出会するにあらずして寧ろ熊に襲わるる状態にて一同困り居り候」」――『樺太日日新聞』大正11年7月6日

 普通ヒグマは、足跡を消す「留め足」を使って藪に潜み、追撃隊の先頭が通り過ぎた2人目以降を狙うものである。しかし記事を見ると先頭の人夫が襲われている。つまり最初から人間を襲うためにうろついていたとしか思えない。熊除けラッパはなんの役にも立たず、かえってヒグマを寄せ付けたとも思える。

 相次ぐ事件に一行は、刈り分け道を整備して見通しをよくすることや、アイヌ猟師らに頼みアマッポ(仕掛け銃)やオトシ(罠)を仕掛けるなどして対処したという。その後、続報がないので、加害熊を仕止めるか、追い払うことに成功したと思われる。

 事件現場である恵須取村一帯はヒグマの巣窟で、翌年10月にも「本月初旬から中旬の恵須取方面は熊の出没が甚だしい」(『樺太日日新聞』大正12年10月30日)の記事があり、この月だけで3頭が獲殺されたと報じている。

■腹中から生々しい女の足が…

 さらに翌年の大正13年10月、同管内で再び人喰い熊が出没する。

「十七日樺太西海岸恵須取川上流、樺太工業造林現場において作業中の某は、突如巨熊に襲われ、うち一名は逃げ場を失いその場に咬み殺され、一名は重傷を負い、虫の息の状態にあり、馬一頭も荒れ狂う巨熊のために重傷を負わされた」――『小樽新聞』大正13年10月22日

 樺太工業は後に述べる通り、王子製紙、富士製紙と並ぶ三大製紙会社のひとつで、経営者は渋沢栄一の姻戚に当たる大川平三郎である。それはともかく記事には捕獲についての記述がないので、おそらく加害熊は逃走したものと思われる。その証左とも思える人喰い熊事件が、その後、付近一帯で続発し始める。

「樺太西海岸北部、鵜城方面では最近、巨熊出没しているが、そのうち最も多い箇所は、鵜城、恵須取間および珍内間付近で、去月下旬から本月上旬にかけ、既に被害者三人におよび、中にも悲惨なのは若い婦人が道路を通行中、熊に襲われ、内臓をことごとく喰われて路傍に斃死してるのを通行人が発見し、ただちに付近部落民の招集を行い、熊を銃殺したところ、腹中から生々しい女の足がそのままとなって出てきたような凄惨なこともあり、また鵜城殖民地農夫が用達しに出かけ、ホロ酔い機嫌で帰宅の途中、襲われて首を引き抜かれ、そのまま即死したが、胴体以下を七八間先の叢中に穴を掘って埋めた上に熊が張り番しているのを翌朝、通行の農夫が発見して大騒ぎとなり、付近の猟師を狩り集めて銃殺したこともあり、また今月二日に珍内某伐採所の杣夫三人が通行中、熊と出会したが、折良く一人が銃を携帯していたので手早く発砲したが、手許が狂って命中せず、熊はやにわに同人に飛びかかり、激しい格闘となったが、結局熊のために顔面を掻きむしられ、その場に昏倒したのを同行者が救ったというようなことが続出するので、同方面旅行者はもちろん、一般の恐怖は非常なものであると」――『小樽新聞』大正13年11月26日

 位置関係を説明すると、樺太西海岸北部、恵須取村25キロ南に鵜城村があり、さらに45キロ南に三浜村(のちの珍内町)がある。この70キロの区間に、通行中の一般人を襲って喰い殺す複数の猛熊が、同時多発的に出現したのである。それだけでも前代未聞の椿事といえるわけだが、しかし事件は終わらなかった。

■終わらない「人喰い熊」騒ぎ

 5年後の昭和4年、三たび人喰い熊騒ぎが、恵須取住民を恐怖に陥れたのである。

「恵須取町永島造材部、朱昌魯が数日前、付近の小川にヤマベ釣りに赴いたところ、川岸より五六間離れた草むらに真夏の陽を浴びながら巨熊が朱の足音も気づかずに昼寝の高いびきをしてるので、肩にした猟銃の狙いを定めて一発、たまは急所をはずれ腹を貫いたので熊は棒立ちになって一声吠えたかと思う間もあらばこそ、朱を目がけて飛びかかったので、朱は盲滅法に鉄砲をぶっ放したが、血に染まった熊は朱を叩き倒し昏倒したのを見て、そのまま森林奥へ姿を隠した、物音を聞き付近にいた流送人夫が駆けつけ応急手当を施したが、間もなく絶命した」――『小樽新聞』昭和4年8月11日

「最近、恵須取川上流に頻々として巨熊の出没をみるので同地造材業者や通行人は非常な危険を感じておったが、去る七日午前十時頃同地石井造材所杣夫吾妻某(四六)が所要あって外出したところ、一頭の巨熊はいきなり飛びかかってきたので、度胸のよい吾妻は何くそとばかり持ち合わせの刃物をふるって大格闘を演じたが、全身数ヵ所に致命的負傷を負い、その場にたおれたるを友人某が見つけて、背にした鉄砲を連発して見事巨熊を射とめた、なお吾妻は直ちに病院へ運ばれたが、途中遂に絶命した」――『樺太日日新聞』昭和4年10月16日

 2つの事件は2ヵ月ほどの間隔で発生し、さらに現場が至近であることから、朱に手負いにされた加害熊が2つ目の事件を引き起こした可能性が高い。

(中山 茂大)

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