出てきたのは女の髪の毛、赤子の両手…人喰いヒグマを解剖してわかった「衝撃の中身」

出てきたのは女の髪の毛、赤子の両手…人喰いヒグマを解剖してわかった「衝撃の中身」

人喰いヒグマを解剖してわかった「驚きの中身」とは? 写真はイメージです ©getty

19歳少年が「ほぼすべてを喰い尽くされた」状態で…砂金採りに沸く北海道民を襲った「凶悪熊」の超ザンコク から続く

 人喰いヒグマを解剖することになった北海道の大学の研究グループ。胃袋の中から出てきたのは、人間の遺体の一部など恐ろしいものばかりだった……。そして、研究者たちが食べた「ヒグマの味」とは?

 ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『 神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史 』より一部抜粋。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

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■「丘珠事件」の知られざる事実

 令和3年6月に札幌市内の住宅街にヒグマが出現したニュースは、北海道民に大きな衝撃を与えた。

 実は筆者はヒグマが徘徊していた東区の出身で、現地には大いに土地勘があるのだが、あの住宅街のど真ん中に、飼われていたのではない、完全な野生のヒグマがうろついていたというのは、まったく信じられない出来事であった。

 それはともかく、この事件で再び脚光を浴びたのが、明治11年に起きた「丘珠事件」である。なぜこの事件が日の目を見たのかというと、「東区にヒグマが出たのは、丘珠事件以来、およそ150年ぶりではないか」という一部の報道がなされたからである。

 本州ではあまり知られていないと思うので、事件の経緯をかいつまんで説明すると、明治11年1月、札幌市内の山鼻村で穴熊狩りをしていた蛯子勝太郎がヒグマに逆襲されて死亡した。ヒグマは冬ごもりから目覚め、「穴持たず」となって徘徊を始めた。「穴持たず」とは、冬ごもりできなかった熊のことで、空腹を抱えているため極めて危険とされる。

 ヒグマは平岸、月寒を経て北上し、丘珠村の開拓小屋に乱入。戸主の堺倉吉と長男留吉を喰い殺し、妻リツならびに雇い人に重傷を負わせ、翌日熊討獲方に射殺された。加害熊は札幌農学校(現・北海道大学)に運ばれて剥製にされ、胃から出てきた被害者の手足のアルコール漬けとともに附属植物園に長らく展示された。

 北海道帝国大学教授で動物学者の八田三郎による『熊』(明治44年刊)に、事件の様子が詳細に記されている。発生日時については、後述する通り後年、議論となったが、そのまま引用してみよう。

「明治十一年十二月二十五日の当夜は非常な雪降りであった。師走の忙しさに昼の疲れもひとしおで、炉に炭を焚きたてて安き眠りに就いた。一睡まどろむ間もなく、丑の刻と思しきに、暗黒なる室内に騒がしき物音がした。倉吉は目を覚まし「誰だッ」と云う間もあらず、悲鳴を挙げた、やられたのだ。妻女は夢心地に先ほどからの物音を聞いていたが、倉吉の最後の叫びに喫驚し、裸体のまま日も経たぬ嬰児をかかえて立ち上がった、この時背肌にザラッと触れたのは針の刷毛で撫でたような感じがした、熊に触れたのだ」

 妻女は夢中で戸外へ逃げ出し、伏古川の向かいに住む雇い人、石沢定吉に助けを求めた。この時すでに主人と嬰児、さらに別の雇い人が食われていた。

 翌日、熊討獲方が到着すると、倉吉は原形を止めないほどに食い荒らされていた。程なくして山林に潜んでいたヒグマが討ち取られた。身の丈6尺3寸(約190センチ)のオスの成獣であった。

 一方で、『新版ヒグマ 北海道の自然』(門崎允昭・犬飼哲夫、北海道新聞社、平成五年)では、事件発生日は明治11年1月17日となっていて、その経緯も若干異なる。

 事件発生の数日前に、円山と藻岩山の山間に熊撃ちに行った猟師、蛯子勝太郎が咬殺され、ヒグマはそのまま「穴持たず」となって徘徊を始めた。開拓使は熊撃ちに命じて追跡させたが、白石村から雁来村に来たところで吹雪に阻まれて断念した。このヒグマが堺倉吉一家を襲ったものだという。また堺家の雇い人は女性で、妻女とともに逃れたことになっている。

 生き延びた妻女は「利津」といい、当時34歳であった。南部の生まれで、19歳の時に、当時まだ蝦夷と呼ばれていた北海道に渡り、堺倉吉と同伴して内地に帰ろうとしたが、箱館戦争に阻まれて引き返し、「当時大森林であった札幌の附近」に住むことになった(前掲『熊』)。

 札幌市東区の札幌村郷土記念館が編纂した『東区今昔3 東区拓殖史』(昭和58年)には、明治初期に札幌村(現在の東区)に入植した開拓団の人名が詳しく記載されている。明治4年の『札幌郡丘珠村人別調』に「堺倉吉」の名前があった。
  
第十六番
堺 倉吉 三七
妻 利津 二九
女 政  二
母 喜都 六五

 この資料によれば、事件当時、倉吉は44歳、利津は36歳だったことになるが、後に触れるように「数え年」だろう。倉吉の母喜都については、記録では触れられていない。また「女政」とあるが、ヒグマに襲われたのは男児であったので、両名とも事件前に死去したのかもしれない。

 当時の丘珠村は鬱蒼とした原生林だったようで、明治12年に同村を訪れた開拓使物産局員の備忘録に、「石狩街道にて可や道幅広く開きあるも、両側大樹のため旅行者は熊害をおそれる程の有様にて、毎月大木を伐倒し、これに火を移しその焼失するを待ち開墾する態の始末、実に未開の形そのままなりし」(前掲『東区今昔3 東区拓殖史』)とある。

■なぜ「1月」と「12月」で議論が分かれたのか?

 この丘珠事件が、いつ起こったのかについては、「1月」か「12月」かで長らく議論が交わされてきた。その理由は、前出の八田博士が丘珠事件の3年前に起きた、極めて似かよった事件と混同してしまったことによるらしい。

 その事件とは以下のようなものであった。

「1875年12月8日、虻田郡弁辺村(現豊浦町)の山田孝次郎宅に1頭のヒグマが侵入し、同家に寄留している関川善蔵を咬殺し、孝次郎の長女と、同じく同家に寄留する亘理慶蔵の母に傷を負わせた。ヒグマは岡田伝次郎とアイヌの猟師たちによって銃殺された」――『ヒグマ大全』門崎允昭、北海道新聞社、令和2年

 2つの事件は民家に猛熊が侵入したことや、被害者の人物構成がやや共通しており、発生日時も「明治8年12月」と「明治11年1月」で、なんとなく似ている。混同しても無理からぬところではある。

 この議論は、昭和56年に道職員であった安田鎮雄が当時の警察資料を発掘したことで終止符が打たれた。その資料というのは以下の文書である(現代語に意訳)。

「警察課 札幌警察署
 本月十一日、山鼻村において当地寄留の蛯子勝太郎を殺害、喰い殺した悪熊を討ち獲った者より申し付けられたところによれば、本月十二日に右熊は、平岸村より月寒村および白石村を経て雁来村で足跡を見失ってしまったが、本月十八日、丘珠村居住の堺倉吉の小家へ乱入、戸主倉吉並びに同人長男留吉を殺害、他に二人へ重傷を負わせ(後略)」――明治11年1月19日(取裁録 警察課)

 追跡の経緯に関しては、榊原直行の『諸世雑記』にも記録されていて、「明治十一年十月十七日、円山村にて炭焼小屋の屋根より突然飛出し、(中略)佐々木直則、武田義勝、榊原熊太郎三人にて出張のところ、打ち合わせの通り足跡を踏み辿り、この時は最岩獄中腹を登り、坂を下り川を越え、真駒内の方へ上がり、月寒坂下林に入り」などと記録されている。佐々木、武田、榊原は「熊討獲方」に雇われた白石村の士族である(『士族移民北海道開拓使 貫属考の』中濱康光)。

 さらに『丘珠百二十年史』(「丘珠百二十年史」編纂委員会、平成3年)中の「「人食いグマ事件」真相の真相」で、著者の細川道夫が堺家の位牌まで確認して調べた結果、事件は明治11年1月18日未明に発生し、位牌に記載されていた「明治10年12月16日」は旧暦(太陰太陽暦)であると結論している。発生日時に混乱が生じたのは、新暦(太陽暦)が庶民の間に浸透していなかったので、生き残った妻リツも旧暦で語ったためではないかとしている。これはかなり説得力がある。

■犠牲者は3名でなく「4名」では?

 しかしである。

 今回、筆者は当時の読売新聞が、同事件を報じているのを発見してしまった。以下はその転載である。

「一昨日の新聞に北海道札幌辺へ熊が出て人を噛み殺した事を出しましたが、またくわしい知らせに、その熊をよくよく探すうち先月十七日の晩に、また札幌在岡珠村の酒井倉吉の家へ暴れ込み、無慚にも倉吉と子供を一ト口に噛殺し手も足も離ればなれで家の中は血だらけ、その上にまた女房へ噛みつき大疵を受けその物音に驚いて隣から駆け付けた男も同じく疵を受け、熊は飛び出して何れへか逃げてしまい、その事が警察所へ知れて翌日、屯田兵五十人を人選し、いよいよ熊狩になってそれぞれ手わけをし四方八方探すと、岡珠村の熊笹の中に寝ているのを見つけ、ソレというより警察課長の森長保君がはなす一発の弾丸に難なく彼の熊を打ち留め、大勢かかって札幌へ引き出したが、長さは六尺余り胴のまわりは五尺六寸高さは三尺六寸余りもあり(後略)」――『読売新聞』明治11年2月2日

 パソコンによる新聞検索など存在しなかった時代に、この記事が見つからなかったとしても不思議ではないわけだが、「ダメ押し」でもう一つ、決定的な資料を発見した。

 北海道立文書館所蔵『開拓使公文録』の『明治十一年 長官届上申書録』という文書である。こちらも「熊」で検索したらすぐに見つかった。

「危難救援の者賞誉の儀上申
 本年一月十八日午前三時、当札幌郡丘珠村平民、堺倉吉居小家へ猛熊乱入、倉吉ならびに同人長男、留吉儀は即死、倉吉妻リツおよび雇人姓不詳酉蔵は重傷を受け翌十九日死去致し候ところ右乱入の際、倉吉雇い青森県下陸奥国三戸郡五戸馬喰町平民、石澤定吉、リツの危難を認め同人を背負い急場を避けしめ候段、奇特の儀につき明治七年第百号公達に照準し別紙の通り賞誉取り計らい候、この段上申仕り候なり 明治十一年二月二十二日」

 この文書によれば、「雇人酉蔵」は19日に死亡しているので、前出の警察文書とは行き違いになってしまったらしい。

 これまでの諸説では、この事件で死亡したのは3名であり、その内訳は「倉吉、留吉、蛯子勝太郎」(犬飼哲夫、門崎允昭説)、あるいは「倉吉、留吉、雇人酉蔵」(八田三郎説)で食い違いが見られた。しかし右資料を総合すると、犠牲者は「倉吉、留吉、雇人酉蔵、蛯子勝太郎」となり、丘珠事件における死者は4名というのが正しいことになる。

■解剖と禁断の実食

 この他にも、いくつか興味深い資料を発掘したので、以下にまとめてみよう。

 事件発生後、おそらく最初にこの事件について回顧したのは、30年後の以下の新聞記事ではないかと思われる。

「▲三号館の老熊―第一号館の右側第二号館と相対して第三号館がある、この三号館の東部薄暗きところに傲然と構え込んで御座る銅色の老熊が居る。こやつステキ滅法な曲者で、明治十一年は一月の中旬、札幌郡は丘珠の炭焼小屋に忍び入り一夜のうちに父子の二人を噛み殺し、なお飽き足らず産褥の母をも犯さんとしたが、欲に目のくらめる熊は炉中に火のあるにも気付かず驀然これに躍り込んだが、さあそうなってはさすがの熊もたまらない、他の生命どころか自分の生命にもかかわる大事と一目散に逃げ走ったが、逃げたとて逃げおおせるものでなし、とうとう銃殺の憂き目に遭うて往生奉ったのが即ちこの三号館の老熊である、挿絵の壜詰は当時老熊の腸から掘り出した親子の遺骸であるが、今なお依然として博物館に秘蔵されてある。

 ▲村田氏の談―(中略)こやつは第一に元丸山に火薬庫のあった沢で馬追いを喰い殺し、それで飽き足らずして丸山より今の遊郭の中を通り豊平の河流を向こうに渡って、さらに丘珠の近傍、炭焼小屋の辺に至り、最初にはまず南の方の炭小屋に入らんとしたらしいが、早くもこの様子を観知し、入り来らんとする熊を目がけて火ぼたを投げたので、熊はたちまち歩を転じて北側の小屋に忍び入り、いきなり親爺を噛み殺し、次に生まれて百日目ばかりの赤児をもひと噛みとなし、なお母をも噛み殺さんの勢いであったが、やにわに彼は炉中に飛び込んだので、体一面に火を浴びて一目散に逃げ走った、その翌日、付近村落の大騒ぎとなり、槍鉄砲で捜し廻り、遂に三日目の夕刻、首尾よくこれを打ち取ったのである。この壜詰は当時解剖の切、彼の体内から出たものであるが、この通り親爺の額と子供の手足がまだ消化せずにあったものと見る。誠に可愛そうぢゃありませんか云々」――『北海タイムス』明治42年5月19日 博物館案内(五) ▽老熊の歴史

 博物館とは、現在の北大植物園のことで、案内役の村田老人は剥製の名人であり、同館の生き字引のような人物だったらしく、他の資料にも、その名前を散見した。

 また『朝日新聞』(大正2年10月28日)に、丘珠事件を追悼する詩歌が掲載されているが、内容は割愛する。

 次に昭和8年発行の『恵迪寮史』(北海道帝国大学恵迪寮)に、解剖の様子が詳細に描かれているので、現代語に改めて抄出してみよう。

「第一、その形状で著しかったことは、そのヒグマにまったく脂肪がなかったことである。その原因は、そのヒグマに非常なことがあって厳冬を凌ぐ貯蓄をすることができなかったのか、あるいは自ら求めなかったのか、いずれにせよ地上は雪深く餌を得ることができず、食を絶って長く、飢餓が窮まって遂に前条の暴挙に及んだことは疑いを容れない。

(中略)その胃を審査してみると、その最後の食料であった物の性質は実に驚愕すべきもので、ヒグマはもともと食物を噛まないもののようで、消化し残ったものはみな、少しも噛んだ徴候がなく、かつその消化力も甚だ遅く、死前十二時間に食べた証拠がある物も、わずかに消化するだけで、その物の形容および性質とも残っていて、明らかに弁別し得るほどである。ただ数日前に食った物のみは、その消化が頗る進んでいた。

(中略)前条に記した猛羆は、あるいは一時、アイヌに飼われて後に、逸走したものであるという。しかしこれは、もとよりひとつの憶説で、これを証明する事実はない。むしろ飢餓が極まって、この事変を起こしたとするのを穏当とするべきだろう」――『恵迪寮史』北海道帝国大学恵迪寮、昭和8年

■「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」

『クラーク先生とその弟子たち』(大島正健著、大島正満・大島智夫補訂、新地書房、1991年)にも「篠路の熊」の一節があり、明らかに丘珠事件について記されているが、この中にも解剖するくだりが描かれている。

「思わぬ材料に恵まれ歓呼の声をあげた学生達は、ペンハロー教授指導のもとに、早速解剖実習にとりかかった。見る見る皮は剥ぎとられ、内臓を開く段取りとなったが、教授の目をかすめて二三のものがひそかに一塊の肉を切りとった。そして休憩時間を待ちかねて小使部屋へ飛び込んだ。

 やがてその肉片が燃えさかる炭火の上にかざされた。そして醤油にひたす者、口に投げ込む者、我も我もと珍らしい肉を噛みしめていたが、誰いうとなく、「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」という声がほとばしり出た。

 定刻になって師の呼ぶ声に、一同は何喰わぬ顔をして解剖室に戻り、手に手にメスをふるって内臓切開に取りかかったが、元気のよい学生の1人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々眼を覆う惨状に、学生達はワーッと叫んで飛びのいた。そして土気色になった熊肉党は脱兎の如く屋外に飛び出し、口に指をさし込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した。

 後に訪ねて来た内田瀞が、「あの肉は酸味があって堅かったのゥ」とありし日を思い起して述懐していたが、事実何とも堅い肉で、口へ入れて見たが、私にはそれをのみ込んで胃の腑に収める勇気は出なかった」

■人喰いヒグマの胃袋から出てきたのは…

 もう一人、解剖に参加した学生、黒岩四方之進の回顧が『小樽新聞』(大正15年5月19日)に掲載されている。

「熊公の大きな胃袋の中から出たものは、まず第一番に赤い布片で、次には縄付きのままの鮭の頭が飛び出し、その後からは長い頭髪のついている食われた主人の頭の一部や、赤児の両手や竹輪のように刻まれている腕の断片やら続々と露出して来た(中略)その時黒岩さん午前中に剥製をおわって、その日の昼飯の折にはその熊の肉を焼いてたらふく食べたという(当時の思い出ばなし 熊公の胃袋から長い頭髪 さすがに猛者連もこの時ばかりは 一期卒業生 黒岩四方之進氏談)」

 最後に加害熊の剥製であるが、現在は劣化が著しいため、北大植物園内の倉庫に保管されており、一般の観覧には供されていない。
 

目の前には「内臓をほとんど食い尽くされた」若い女性が…「人喰いヒグマ多発地帯」北海道・樺太の惨劇 へ続く

(中山 茂大)

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