「とにかく我慢して他人より3倍働け」世界でただ1人“トランプタワーを買い占めた日本人”が語った「シンプルな成功哲学」

「とにかく我慢して他人より3倍働け」世界でただ1人“トランプタワーを買い占めた日本人”が語った「シンプルな成功哲学」

貸付総額は1兆円超――ノンバンク・アイチを率いて、トランプタワーまで買収してしまった男の「成功哲学」とはいったい? ©小学館

「地上げの帝王」「マムシ」など数々の異名を持つ街金融アイチ会長、森下安道――貸付総額は1兆円超、ゴルフ会員権ビジネスの考案、トランプタワーの買収など、バブル時代の経営者として栄華を極めた彼が語った「あまりにもシンプルな成功哲学」とはいったい?

 ノンフィクションライターの森功氏の新刊『 バブルの王様 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

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■時間は平等

「この世でいちばん買いたいものは時間ですよ。もしときをカネで買えるなら、金輪際値をつけない。いくらでも出すんだけどね」

 それが森下安道の口癖だった。その言葉は、カネのありがたみを人いちばい体感してきたことの裏返しのように思える。常々そう口にしていた森下は、ビジネスに関する決断が速い。自らに言い聞かせるかのように社員たちに向け、こう続けた。

「家だって車だってカネで買えるし、うまくいけば飛行機だって持てる。けれど、時間だけはどうしようもない。それだけ時間は大切なんだよ。貧乏人でも大金持ちでも、どんなに偉い人間でも使える1日は24時間だろ。時間だけは、われわれに平等に与えられている。だから悪いことは言わない、とにかく我慢して他人より3倍働け。そうすれば、結果はあとで必ずついてくるからな」

 森下の貸金に対する取り立ては厳しかった。反面、気前はよかった。わけても妻や子供たちには惜しげもなく、求めるものを買い与えてきた。

 長女の美佐子と次女の夕子を産んだ京子が病弱だったため、森下は出会ったばかりの福井豊子に子育てを任せた。そうこうしているうちに2人は男女の関係になる。豊子は森下にとって3番目の妻となり、1967(昭和42)年、雅美(仮名)が生まれた。森下の三女である。

 洋服屋と金貸しという二足の草鞋(わらじ)を履きながら、森下は雅美の生まれる前年に手形割引業「高千穂通商」を設立した。そこから金融の世界へ足を踏み入れ、瞬く間に大金を手にしていった。

 ある意味、時代が森下のビジネスを押し上げた面もある。東京・新宿通り沿いの四谷に洒落(しゃれ)た本社ビルを構えるまでになった森下は、やがて日本一の街金融業者となる。幼い3人の娘たちを連れ、毎年欧州旅行に出かけ始めたのも、この頃だ。

 最も神聖なユダヤ暦の「贖罪(しょくざい)の日」、ヨム・キプールにあたる1973年10月6日、エジプトとシリアのアラブ連合軍が、イスラエル軍の占領したゴラン高原に砲弾を撃ち込んだ。それを機に第4次中東戦争が世界経済を襲った。

 第一次石油危機とともに、文字通り燎原(りょうげん)の火のごとく、物価の高騰の波が押し寄せた。石油危機は、70年大阪万博に沸いた日本人の浮かれ気分を吹っ飛ばし、国民はパニックに陥った。ガソリン燃料はもとよりプラスティックやパルプといった石油に頼るあらゆる物資の枯渇が囁(ささや)かれ、庶民はスーパーに行列してトイレットペーパーを買い求めた。

 オイルショックのせいで、とりわけ日本の中小企業が軒並み大きなダメージを食らった。材料費の高騰で製造業が資金繰りに窮し、立ち直れない会社が続出した。

 不況になればなるほど、銀行や信用金庫といった従来の金融機関は助けてくれない。そこで中小の会社経営者が街の金融業者に飛び込んだ。

■オイルショックでますます繁盛した貸金業

 森下は悪運が強い、といえばその通りかもしれない。本社ビルを建設したばかりでサンポール事件に見舞われ、窮地に立ったアイチを石油危機が救ったともいえる。新潟県の上越国際CCや川越グリーンクロスといったゴルフ場が倒産したのも、オイルショックの影響が大きかった。手形を持ち込んで借入を申し込む中小企業がアイチに押し寄せた。息をつく暇もない。森下の貸金業はますます繁盛していった。

 森下自身はこの頃、海外進出を思いついたのかもしれない。頻繁にヨーロッパを訪れるようになる。欧州旅行は同業の貸金業者を誘うときもあれば、家族サービスを兼ね、妻や娘たちを連れていくときもあった。豪勢な欧州旅行について尋ねると、森下はこう話した。

「どうせ泊まるなら、安いホテルでは意味がないでしょ。その国で最もグレードの高いホテルの、いちばん高い部屋に泊まりました。すると、取引相手も驚くでしょ。私は語学が苦手だから、通訳も必要だしね。本当は若いうちに勉強すればよかったけど、彼らにも高いカネを出しているんですよ」

 折しもオイルショックのあった73年、日米の貿易摩擦により、それまで1ドル360円だった固定相場制が変動相場に切り替わる。円が高騰して1ドル360円から1ドル280円前後の円高ドル安になり、日本人も海外旅行を楽しむようになった。

 70年代、日本から欧米に向かうツアーオペレートは、スイスの「クオニイ」という旅行代理店が取り仕切っていた。JAL(日本航空)をはじめ、日本旅行や近畿ツーリストがそこを通じてパッケージ旅行を企画した。たとえばJALはJALパックジョイと称し、「ヨーロッパ15日間38万円」のツアーを盛んにPRし、ハワイのJALパックツアーも人気を呼んだ。

 森下が毎年のように欧州を旅するようになったのも、そうした海外旅行人気の空気が影響しているのだろう。もっとも森下の場合、ハワイや香港などがメインだった庶民向けのパックツアーとは、かなり様子が違った。欧州に出かけるときは、必ず日本航空グループに特別なツアーを用意させた。今風にいえば、自分たちだけのプライベートのオーダーメードツアーである。

 現在のようにさまざまな航空会社が国際線に乗り入れるようになった航空の自由化のはるか前である。日本の国際路線便は、日本航空がナショナルフラッグキャリアとして独占していた。

■スーツケース100個の大名旅行

 中学校もろくに通わず、長兄の洋服屋で丁稚奉公をしてきた森下は、子供たちの教育にずい分熱心だった。母親の異なる三人の娘たちをみな横浜の森村学園初等科に入学させ、一流大学への進学を望んだ。

 森村学園は1910(明治43)年4月25日、日本女子大の創立に関わった森村市左衛門が、東京・南高輪の邸内に「私立南高輪幼稚園」をつくったことから始まる。この年の9月に尋常小学校をつくり、71歳の市左衛門自身が園長と校長を兼ねた。森村学園はそこから中等科や高等科を加えて教育を広げ、戦後に横浜市に移転する。良家の子女が通う日本屈指の名門私立学校となる。

 にわか分限にありがちだが、森下はことのほか富裕層の優雅な暮らしぶりを意識していた。森下一家は、夏になると毎年、欧州旅行に出かけた。休暇期間は3人の娘たちの通う森村学園が夏休みになる7月下旬から8月いっぱいまでのおよそひと月半におよんだ。森下夫妻はもちろん、小学生の3人の娘たちもJALのファーストクラスで欧州に向かった。

 ファーストクラスにはむろん子供料金などない。旅行の費用は変動相場制の導入で円高に向かった日本円で、実に一人あたり1000万円から1500万円もかかった。そんな贅沢極まりないファミリー旅行は、今も昔も聞いたことがない。まるで欧州貴族の夏季休暇のような大名旅行だ。期間が長いだけに、旅の荷物も半端ではなかった。

 スーツケースやボストンバッグだけで50個から100個ほど日本から運んだ。すべてルイ・ヴィトンやグッチ製のブランド鞄ばかりだ。むろん荷物の移送は、JALパックが自宅の受け取りから現地のホテルまで請け負う。

 JALパックの課長が添乗員となって行動をともにし、現地で雇った日本人の通訳兼ガイドは、森村学園の教師が娘たちに与えた夏休みの宿題の面倒まで見ていたという。そうしてJALオーダーメードツアーの費用は、5人分で5000万円から7000万円に上った。まさに森下一家のために仕立てた特殊な海外ツアーというほかない。

■ついたあだ名は「ガイド殺し」

 森下はツアーの関係者のあいだで「ガイド殺し」と呼ばれたそうだ。

「なぜ、お前はそんなに気がつかないんだ。もういい、別のガイドに代えてくれ」

 ひと月半ほど欧州に滞在するあいだ、現地で雇ったガイドにダメ出しをし、交代させるケースが後を絶たなかった。そのため欧州に駐在するJALの各支店長は、神経を尖らせた。森下に言われるがまま、慌てて他のガイドを探したという。たまたま70年代のその森下一行の大名旅行に付き合った日本人のアルバイト留学生を見つけた。こう思い起こす。

「私はJALのブリュッセル支店長に、『日本から来ている大金持ちのお客さんがいるんだけど、ガイドをやってみないか』と誘われて引き受けました。はじめは誰とも聞かされていなかったのですが、それが森下会長でした。パリで雇ったガイドがクビになったから、ベルギーを案内する者がいなくなったそうなんです。それで、ガイドを引き受けました。ブリュッセルの街はとても静かなのでさほど問題なく、会長には満足してもらったと思います」

 JALパックが用意した森下の欧州ツアーはたいていパリを中心に、そこから南下して南仏やイタリアを訪ねたり、隣国のベルギーを経由してドイツやオランダを回るパターンが多かった。いずれも専用の鉄道や自動車を仕立て、陸路で旅をしたあと、場合によってはクルーザーで英国へ渡った。

■わずか5人の家族旅行に「大型自動車が3台」

 通訳やガイド、荷物を運ぶポーターにいたるまで、JALグループが雇ったスタッフたちがその役目を担った。先の日本人留学生がガイドをしたのは、フランスからベルギーに向かったときのことだ。

 JALのパリ支店長から連絡を受けたブリュッセル支店長が、パリからベルギーへ入る鉄道路線の最初の駅であるブリュッセル南駅で森下一行を出迎えたという。出迎えのために用意されたのが、英ロールス・ロイスと独メルセデス・ベンツのリムジンカー、それに大型のリムジンバスだ。わずか5人の家族旅行のためになぜ3台の大型自動車が必要だったのか。日本人ガイド留学生に尋ねると、こう答えた。

「まず列車から降ろされた荷物に驚きました。数えてみると、53個のトランクが並べられていきました。もちろん一家族の旅行でそんな大量の荷物なんか見たことないし、それも全部ルイ・ヴィトンデザインのトランクでした。JALパックの課長から運んでくれ、と指示され、ポーターさんといっしょにそれらのトランクを運びました。彼らは慣れたもので、黙々とリムジンバスに積み込んでいく。もちろん、荷物運びは無料ではありませんから、ポーターさんは大喜びでしたね」

 つまり、日本から運ばれてきた大量の衣裳や荷物といっしょに移動するため、現地でリムジンバスを仕立て、そこにトランクやスーツケース類を積み込む必要があったわけである。一方のロールス・ロイスには森下夫妻とJALパックの課長、ベンツのリムジンには3人の娘たちとガイドが乗り込み、ホテルシェラトンに向かった。ベルギーの滞在は、首都ブリュッセルで2泊、北の都ブリュージュで1泊。ホテルはもちろんスイートルームで、荷物を収納するため、最上階の同じフロアーにさらにもう一つ部屋を借りた。

 トランクには「安道」や「豊子」「美佐子」などと日本語で書かれた札が付けられていた。日本語なのは荷物の中身が本人にわかるようにするためで、パーティ用のタキシードやスーツ、夫人のイブニングドレス、なかには子供たちの宿題が詰め込まれたスーツケースまであったという。

「山口組幹部」はヘリコプターを使って送り迎え…今なら許されない「ヤクザのゴルフ事情」 へ続く

(森 功)

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