「山口組幹部」はヘリコプターを使って送り迎え…今なら許されない「ヤクザのゴルフ事情」
2022年12月04日 18時00分文春オンライン

送迎はヘリコプター…今なら決して許されない「山口組のゴルフ事情」とは? 写真はイメージです ©getty
「とにかく我慢して他人より3倍働け」世界でただ1人“トランプタワーを買い占めた日本人”が語った「シンプルな成功哲学」 から続く
「森下会長、(若)頭が東京に来るので、悪いけどヘリを用意しといてんか」
1980年代後半の「ヤクザのゴルフ事情」を、ノンフィクションライターの森功氏の新刊『 バブルの王様 』より一部抜粋してお届け。
貸付総額は1兆円超のノンバンク・アイチを率いたバブルの帝王・森下安道氏と山口組幹部はどんな関係だったのか?(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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■山口組5代目のゴルフ
「瀧澤さんは絵が好きでね、うちのアスカ(インターナショナル)にもよく来てもらったけど、あるときオークションに行きたいというので、連れて行ったんですよ」
生前の森下安道が、そう話したことがある。瀧澤とは、元山口組最高幹部の瀧澤孝のことだ。江戸時代から続いた「國領屋下垂(こくりょうやしもだれ)一家」の8代目総長である瀧澤仁志が、田岡一雄3代目組長に取り立てられ、組織は山口組直系2次団体となる。
そのあとを継いだのが、実弟の孝だ。瀧澤は竹中正久4代目組長体制に反旗を翻した一和会との「山一(やまいち)抗争」の実績を買われ、5代目の渡辺芳則組長体制で若頭補佐に就く。文字通り若頭補佐は、山口組ナンバーツーの若頭を支える執行部の一員である。瀧澤は國領屋下垂一家を「芳菱会」と改め、関東ブロック長を務める山口組大幹部の一人として大きな勢力を築いてきた。
6代目山口組組長の司忍(つかさしのぶ)とともに1997(平成9)年に起きた組員の拳銃所持事件で共謀共同正犯に問われ、逮捕されたこともある。その保釈保証金が司の10億円を上回る12億円に上った。ちなみに保釈金の史上最高額は、牛肉偽装事件で身柄を拘束されたハンナングループの浅田満の20億円で、2番目が日産自動車特別背任事件のカルロス・ゴーンの15億円である。
■きっかけは「美術品コレクション」
美術品コレクションが趣味だった山口組の瀧澤は、やがて森下と親しくなった。その瀧澤本人が山口組5代目組長体制の発足する少し前、次期組長を確実視された渡辺に絵画をプレゼントしようとしたという。オークションに連れて行ったという先の森下の話は、瀧澤からプレゼント用の絵画選びを相談されたときのことである。
渡辺はもともと瀧澤と同じ若頭補佐として、4代目組長の竹中に仕えてきた。85(昭和60)年1月、組長の竹中とナンバーツーの若頭中山勝正が同時に暗殺された。それを境に世にいう「山一抗争」が勃発する。
山口組では暫定執行部体制を敷いて渡辺が若頭に昇格し、抗争の陣頭指揮をとった。当初、優勢なのは一和会だったが、次第に山口組という暴力団社会の金看板に押されて形勢が逆転し、89年3月には白旗をあげた。
そしてこの山一抗争で一和会を壊滅に追い込んだ若頭の渡辺が、次の山口組5代目組長の座を約束される。事実、渡辺は抗争終結の翌4月、5代目組長に昇りつめた。瀧澤の絵画プレゼントは、この間の出来事である。
■山口組幹部たちの「プレゼント攻勢」
上司や得意先に対する付け届けやプレゼント攻勢は世の常といえる。そこに一般社会と暴力団の世界との違いなどない。渡辺は夫人にブティックを経営させてきたが、山口組幹部の夫人たちはその店に通い、高級ブランド品を競って買った。
渡辺自身もまた、絵画が好きだったのであろう。少なくとも瀧澤はそう考え、青い目の描かれた加山又造のシャム猫の原画を贈ろうとしたという。数億円する高価な絵画で、なかなか手に入らない貴重な人気作品だ。
瀧澤は絵画選びを兼ね、渡辺を東京に招待して接待を繰り返した。その接待場所が、アイチの開発した千葉県君津市の上総GCだった。84年11月のオープンセレモニーにジャック・ニクラウスが来日し、話題を呼んだゴルフ場である。
森下自身、ゴルフに目がなく、バブル紳士たちと賭けゴルフを楽しんできた。山口組の渡辺ともいっしょにラウンドしたのか、尋ねてみた。が、さすがにそれは控えていたようだ。森下は言った。
「瀧澤さんとはたしかに親しかったけど、さすがに世間がうるさいからね、そんなことはできませんよ。うちのヘリは使ってもらっていたけどね」
これまで書いてきたように、80年代半ばは森下に対するマスコミの関心が集まった時期にあたる。音響機器のアイデン倒産をはじめ、中江滋樹の投資ジャーナル詐欺やコスモポリタンによる株買い占めなど、森下の周囲では立て続けに事件が起きた。
今でこそ、反社会勢力と認定されればゴルフ場に立ち入れないが、当時は暴力団組長が子分たちを引き連れ、平気でラウンドした。といっても、さすがに山口組組長といっしょにゴルフをしているところをマスコミに報じられたら、大騒ぎになる。
おまけに血なまぐさい山一抗争の真っただ中である。前述したように、4代目組長の竹中が愛人のマンションロビーで暗殺されたのが、上総GCオープン3カ月後の85年1月だ。日本の暴力団史上最大といわれた抗争は、そこから89年3月までおよそ4年にわたって続いた。渡辺の5代目組長就任は、山口組が圧倒した抗争終盤に確実視されていたから、アイチの上総GC行きはそのあたりの出来事だろう。
ちなみに87年8月には、田園調布の森下邸に銃弾が3発撃ち込まれた。原因はアイチが融資していた東村山市の特別養護老人ホーム「松寿園」とのトラブルだとされる。したがって山一抗争とは無関係だろうが、ただでさえ暴力団との関係が取り沙汰されてきたアイチにとって、山口組との接点が明るみに出てはいかにもまずい。森下自身が上総GCで彼らに付き合わなかったのは、そうした事情があったに違いない。森下に代わり、アイチの社員たちが彼らの世話を命じられた。
■5代目就任のプレゼント
静岡県浜松市を根城にしてきた芳菱会総長の瀧澤は、東京にもプライベート事務所を置いていた。事務所は赤坂にあるANAインターコンチネンタルホテル東京の裏にあり、本人は上京すると、内幸町にある帝国ホテルのスイートルームに宿泊した。
「森下会長、(若)頭が東京に来るので、悪いけどヘリを用意しといてんか」
瀧澤は森下にそう伝え、森下はアイチの社員にゴルフ接待のアテンドを命じた。ラウンドするメンバーは山口組若頭だった渡辺と瀧澤、そこにたいてい組幹部ではない紳士が加わったという。
3人はボディガード兼運転手の組員たちとともに早朝6時に帝国ホテルを出て、ヘリポートのある木場に向かった。アテンド役のアイチの社員が、ヘリポートで山口組一行の乗ったベンツ3台を出迎え、いっしょにゴルフ場へ飛んだ。ヘリの飛行時間はせいぜい40分ほどしかないが、アイチの社員たちはさすがに緊張した。
「お風呂になさいますか」
初めてのラウンド後、ゴルフ場の支配人がそう尋ねたこともあったという。気をきかせたつもりなのだろう。すると瀧澤が笑い飛ばした。
「ばか、俺たちは風呂に入らないんだよ」
ゴルフ場はとうぜん貸し切りなのだが、やはり同伴の紳士に背中の刺青を見られることを気にしていたのだろう。山口組一行はゴルフを終えると、すぐにヘリで木場まで戻ってきた。そこで組員たちが出迎え、ホテルに帰った。山一抗争の終盤、そんな光景が何度か繰り返されたのだという。
もっとも瀧澤が5代目山口組組長を目前にした渡辺のために探し求めていた肝心の加山又造の原画は、なかなか見つからなかったようだ。アイチの幹部社員が明かした。
「たしか日本洋画商協同組合主催のオークションの下見会が、麹町のダイヤモンドホテルで開かれるというので、そこに瀧澤総長をお連れした覚えがあります。ヤクザの名前ではオークションで絵を競り落とせません。なので、アイチで買って手数料をもらって渡そうとしたわけです。それで下見会のためにホテルの会場前で待ち合わせしていると、瀧澤総長が白いマスクに真っ黒いサングラスをかけてベンツから降りてきた。子分衆に『おまえらはここで待ってろ』と言い、車の中で待機させていました。だけど、本人がいかにも怪しい。だからサングラスとマスクを外し、帽子だけをかぶってもらって下見会場に入りました」
結成65年の歴史ある日本洋画商協同組合は銀座にギャラリーを構え、洋画の出版・編纂の他、オークションも主催してきた。オークションには事前に会員の画商を招く下見会がある。暴力団組長は本番のオークションに参加できない。そのため、下見会で目当ての加山の絵画を探そうとしたわけだ。瀧澤を案内したアイチの幹部社員が、その光景を思い起こしてくれた。
「下見会にお連れしたとき、そのなかにたしかに加山又造の絵が20点近くありました。絵のサイズが小さすぎたり、大きすぎたり、雑な描き方だったり、いろいろありました。ほれぼれする加山作品もあった。だけど、シャム猫の原画はありませんでした。だから、結局あきらめたのではないでしょうか」
瀧澤が渡辺に絵画をプレゼントできたかどうか、それは森下に聞いても、わからないと言った。
(森 功)
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