「日本にはどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」平成の天皇皇后両陛下が私に語ったこと

「日本にはどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」平成の天皇皇后両陛下が私に語ったこと

上皇上皇后両陛下 宮内庁提供

御所で懇談6回、満州事変、エリザベス女王からテニスコートの恋まで……。ノンフィクション作家・保阪正康氏による「平成の天皇皇后両陛下大いに語る」(「文藝春秋」2023年1月号)を一部転載します。

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■「極めて誤解を生む表現です」

 安倍晋三元首相が銃撃された7月8日の夕方、帝国ホテルの宴会場「孔雀の間」で、元侍従長渡辺允(まこと)さんのお別れの会が開かれた。会場に入ると生前をしのばせる写真が飾られていた。一人で馬に乗る少年時代のモノクロ写真、品格ある夫人と仲睦まじい夫婦の写真、孫世代も含め親戚一同アロハシャツを着て南の島で撮った記念写真などだ。

 そして正面の祭壇には、朗らかな表情をした渡辺さんの上下に大きく引き伸ばされた写真があった。長身だった渡辺さんが瑞宝大綬章を佩用(はいよう)した燕尾服姿で、水色と黄色の勲章のリボンが目にも鮮やかに映った。

 入口で迎えてくれた三姉妹の息女に挨拶した後、会場に入ると徐々に人が集まって来た。その中には川島裕氏(元侍従長)や羽毛田信吾氏(元宮内庁長官)といった宮内庁や古巣の外務省の関係者、メディア関係者のほか、上皇上皇后両陛下の長女黒田清子(さやこ)夫妻の姿もあった。

 黒田さんの結婚は、渡辺さんの侍従長時代の大きな仕事の一つだった。世間の注目を集める内親王のご結婚は、徹底した情報管理をしながら話をまとめなければならず、天皇家と黒田家の間に立つ渡辺さんの采配なくしては難しかったと聞いたことがある。

 安倍元首相の容態もまだわからない状況の中で、出席者たちの多くはその話題を口にしていたが、渡辺さんが上皇上皇后両陛下に対して常に献身的であり、「臣」であり続けたことを称賛する声を方々で聞いた。

 渡辺さんと私の最初の出会いは2005年頃にさかのぼる。私は当時、昭和天皇が1日24時間の「フルタイム天皇」であったのに対し、平成の天皇は「8時間天皇」だと時々書いていた。昭和の時代は、国家の君主としての天皇像が確固としてあり、昭和天皇は日常の所作まで君主としての振る舞いを求められた。それに対して平成の天皇は、戦後民主主義体制の中で育ち、大きな制約がある中とは言え、プライベートの時間も一定程度は保障されてきた。その日の公務を終えられれば、束の間ではあるが明仁という個人に戻ることもできる。私はそういった在り方のほうが現代日本の象徴としてはふさわしいという思いも込めて書いていた。

 これを目にした侍従長の渡辺さんは、編集者を通じて私に会いたいと連絡してきた。宮内庁の侍従長室を訪ねると渡辺さんは予想以上に厳しかった。

「24時間説と8時間説のいわんとする意味はわからないわけでもないですが、陛下にお仕えしている身としては納得できない表現です」

 と言う。そして両陛下のスケジュールを持ち出し、日程がいかに詰まっているかを具体的に説明した。たしかに大変なお忙しさであったが、私は、そのようなスケジュールのことを言っているのではなく、天皇の人間としての在り方を比喩的に表現したものだと説明した。

 渡辺さんは私の説明に納得することなく、「極めて誤解を生む表現です」とくり返した。

「あなたの書いた『秩父宮』は読みました。真面目に本を書く人であることはわかっています。だから8時間天皇とだけは二度と書かないで欲しい。それはわれわれは困る」

 と強く念を押した。私は渡辺さんの一族が明治以来、天皇家に仕えてきたことを知っていたので、その方面に話を進めると渡辺さんはこういった。

「私はそういう感情から言っているのではありません。かつての時代のような天皇の在り方とは一線を引いてお仕えしています」

 渡辺さんはどこまでも真剣だった。私はその態度に打たれ、誤解を生む表現であることを認めた。以来、渡辺さんとの距離が縮まった。「わからないことがあったら、いつでも連絡をください。わかることなら答えますから」というので連絡したこともある。

■陛下も日記などは残されている

 2015年には本誌で対談し、2019年の御代がわりの際には、作家の半藤一利さんを交えて日経新聞で座談会を行った。最後に会ったのは令和になった翌年、2020年の暮れのことだ。その随分前に「折り入って相談したいことがある」と丁重な手紙をもらっていたのだが、なかなか会う機会をつくれず、また渡辺さんも体調を崩したこともあり、ホテルニューオータニのラウンジで会うまでに1年近く経っていたように思う。

 渡辺さんは酸素吸入のチューブを付けて出歩くようになっていた。話は『昭和天皇実録』のことになった。2015年に一般向けの刊行が始まった『実録』は全19巻の密度の濃い書になって2019年に刊行を終えていた。渡辺さんはこう話した。

「上皇陛下もいずれ『実録』が刊行されるでしょう。しかし陛下の場合は、昭和天皇に比べて資料が少ないのが心配です。陛下も日記などは残されている。しかし公表されるかどうかはわからないし、難しいかもしれない。備忘録風の記述やプライベートのことも多く書かれているでしょうから……」

『実録』の編纂には、宮内庁書陵部編修課の専門スタッフ数名があたったが、24年あまりかかった。何より記述の元となる資料が重要であり、その収集に相当な時間が費やされる。渡辺さんは、平成の天皇の実録のことをしきりに心配していた。

「実は、自分も明治天皇にお仕えした曾祖父以来四代の歴史を振り返りながら、私が身近に接した陛下のことを書き残しておこうと考えています」

 渡辺さんの曾祖父渡辺千秋は維新後、内務省に入り西南戦争の事後処理などで活躍した。薩摩出身の有力者に重用され県知事など務めた後、貴族院議員となり、その後、宮内大臣となる。次男千春が大山巌の四女と結婚し、その長男の昭は昭和天皇の御学友に選ばれた。昭の長男が允氏だった。

 渡辺さんは体調が芳しくないようだったが、「家で資料をひっくり返している」「みなさん、わが家のことを華族とおっしゃるけれど、曾祖父だって元は信州の小さな藩(諏訪高島藩)の下級武士なんですよ」などと語るのを聞きながら、執筆を励ました覚えがある。

■どれだけの側近が書き残しているか

 天皇の実録の編纂には、資料として天皇本人の回想録や、側近である侍従(武官)長の日記の「質と量」が大きなちがいを生む。昭和天皇で言えば、終戦直後にGHQに提出するため行われた聴取の記録『昭和天皇独白録』や、内大臣木戸幸一、侍従長入江相政ら側近たちの日記がなければ、ずっと無味乾燥なものになっていただろう。

 渡辺さんは正直なところ、平成の侍従や側近のうち、どれだけの人がきちんと書き残しているか心許ないと感じていたようだ。昭和天皇の御代と異なり、侍従は華族出身者から官僚中心に代わってしまった。しかも他省庁からの一時的な派遣がほとんどであり、お仕えする期間も数十年から数年単位に短くなった。式部官長から宮内庁参与まで25年仕えた渡辺さんは例外的に長い。

 公的な記録として侍従(職)日誌というものはある。しかし、それはあくまで公的な記録であって表面的なことしか書かれておらず、天皇が洩らした言葉や心情などは記されていない。渡辺さん自身『天皇家の執事』という本を書いていたが、書き残したことも多くあると洩らしていた。

■「君も書き残しておきなさい」

 話を聞きながら、私に手伝ってほしいのかもしれないとも感じられ、「資料がある程度まとまった時にお手伝いできることがあれば」と私は言った。すると渡辺さんはこう言われた。

「君も両陛下には何度かお会いしているのだから、必ず書き残しておきなさい。20年後か30年後かに書かれる『実録』のためにも」

 私はうなずいた。

 たしかに私は半藤さんとともに計6回、お目にかかる機会をいただいていた。2回目は磯田道史氏、5回目は加藤陽子氏と半藤夫人の末利子さんがいっしょだった。その頃、参与として陛下の相談役を務めていた渡辺さんは、当然そのことを知っていたのだ。

 7月8日のお別れの会の夜、私はこの言葉を思い返していた。私や半藤さんは、在野の歴史研究者として帝国陸海軍の元軍人や皇室関係者に話を聞いて昭和史を書いてきた。だから、いずれは両陛下との対話の記録をまとめたいという気持ちはあった。

 両陛下にお目にかかったのは、2013年2月から2016年6月にかけて、お二人がまもなく80代に入ろうとされていた時期だ。当時は露も知らなかったが、内々には生前退位の御意思を示され、宮内庁内では議論が進んでいた時期でもある。「私的旅行」と称して行き先を自ら決められて、千曲市のあんずの里や東根市のさくらんぼ農家をお訪ねになったりもしていた。戦後70年(2015年8月)という大きな節目もあった。

 平成の御代が終わろうとする時期に、両陛下がどのようなことに関心を持たれ、どのような話をされたのか。そのことは記録しておくべきだろう。

 渡辺さんの言葉は、この原稿を書くに当たって背中を押してくれた。最近、30代、40代の研究者の書を読むたびに、悪しき資料主義に走り、当事者の肉声がほとんど生かされていないことに危機感を感じていた。肉声を尊重してきた在野の研究者の一人として、後世の役に立つものになればとの思いはひときわ強い。

 今回の原稿では、あえて時系列は無視してテーマ別にまとめる。そのほうが両陛下のお考えがよくわかると思うからである。

■御所の庭を望む応接室で

「保阪君、雲の上の人に会う気はあるか」

 電話をかけてきた半藤さんの言っている意味がすぐにはわからなかった。

「両陛下にお目にかかって雑談するんだよ。昭和史のことをお聞きになりたいとおっしゃって、君の名前が挙がったんだ」

 半藤さんは単刀直入にこうつけ足した。すでに3度、両陛下にお目にかかっているらしい。だが、私が戸惑っていると、「とにかくあまり深刻に考えなくていいから」と言う。

 それからはあっという間だった。思わぬ成り行きに驚いた妻にうながされ、背広を新調し靴と鞄を買った。2週間後の2013年2月4日、私は半藤さんと共に両陛下のお住まいである御所をお訪ねすることになった。

 帝国ホテルのロビーで待ち合わせてタクシーに乗り、皇居内の生物学研究所前で迎えの車に乗り換え、ほどなく御所にたどり着いた。あたりはもう暗かった。正面玄関を入ると左手の控室に通されてソファに腰を下ろした。

 ここまでホテルを出てわずか10分あまり。ホテルのロビーの喧騒とはまったくの別世界に私たちはいた。まもなく侍従が現れて手順を説明してくれた。

「お目にかかるのは別の部屋です。これからお部屋までご案内して私がドアを2回叩きます。そしてドアを開けます。すると両陛下が立っていらして、『どうぞ』とおっしゃるはずです。そこで私の仕事は終わりです。あとは両陛下とお二人の世界の話になります」

 侍従は丁重だった。長い廊下を先導し、応接室のドアの前に立つと彼は「トン、トン」と長めに一拍おいて二度ノックをした。ドアを部屋の内側に開くと、右側に天皇陛下、左側に美智子さまがお立ちになっていた。

 半藤さんは、「今日はお招きいただきましてありがとうございます」と頭を下げた。私も「初めてお伺いさせていただきます。保阪と申します。今日はお招きありがとうございます」と申し上げ、部屋に入った。

 応接室にはテーブルとソファが置いてある。庭園が望める角部屋だった。半藤さんが陛下の前、私が美智子さまの前に座った。

「よくいらっしゃいました」

 とまず陛下に声をかけられた。ハッとしたのは、そのとき陛下が蝶ネクタイをされていたことだ。派手なものではなかったが、これまでお見かけしたことのない装いだった。

■「どうして民主主義が根付かなかったのでしょう」

 半藤さんは手土産としてお菓子を持参していたが、私はその頃、出版したばかりの『仮説の昭和史』という上下の単行本を持って行った。

「どんな本ですか」

 お尋ねいただいたので、「昭和史で、もし米国と開戦しなかったら、などいろいろな仮説を立てて、その場合の日本はどのような国になっていただろうかと私なりに考えた本です」と答えた。すると陛下は、

「仮説は大事ですよね。日本にはどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」

 といきなり思いもよらぬことをおっしゃった。私も半藤さんもすっかりまごついてしまった。本をお渡ししたときに「日米開戦直前のハルノートを受諾したら」とか、「戦争をもっと早く終わらせていたら」という例を挙げたので、戦前のことを指してのことだとは思うが、最初からこういう質問を受けて驚いた。

 私たちが答えに詰まっている様子をみて、美智子さまが穏やかな口調で私に尋ねた。

「保阪さんは何年のお生まれなのですか」

「昭和14年の12月生まれです」

 半藤さんが言い添えてくれた。

「私と10歳ほど離れています」

 陛下は1933(昭和8)年、美智子さまは1934(昭和9)年のお生まれだから私より5、6歳上になる。一方、半藤さんは1930(昭和5)年生まれなので陛下より3歳年上だ。

 そして、子供の頃の教科書の話に移った。半藤さんが「いやあ、あの頃はひどい教科書でした」と嘆息すると、陛下も美智子さまもはっきりとうなずかれた。

 私は戦後に学んだ世代だったので黙していたが、半藤さんはこう言った。

「陛下のお立場からは言いにくいことかもしれませんが、今ではちょっと考えられないくらいに強引な教科書でした」

 すると美智子さまはこうおっしゃった。

「私も同じ教科書でした。極端な内容の教科書でしたね」

 率直なのに驚いて陛下のほうを見ると、

「私もあの教科書で勉強していたんですよ」

 と話される。陛下は1940年に学習院初等科に入学されている。日本の尋常小学校は、その翌年から47年まで国民学校と呼ばれた。戦時体制に対応して「皇国民」育成にふさわしい教育を行うためである。

 お生まれになった時から皇位継承が決まっていた陛下もまた、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」とか、「この国を 神生みたまい、この国を 神しろしめし、この国を 神まもります」といった内容の国定教科書で勉強していたのかと思うと感慨を覚えないわけにはいかなかった。

■「建物が何一つないんですよね」

 私は戦後に教育を受けた世代なので黙っている以外になかったが、美智子さまから尋ねられた。

「保阪さんが小学校に入ったのはいつですか」

 このように美智子さまは会話の中に招いて下さる。こうしたお気遣いはその後、何度もしていただいた。

「昭和21年の4月です。そのときはまだ小学校も国民学校という名前が残っていました」

「私の妹といっしょの学年ね。妹の生まれは保阪さんより1年遅いけれど、早生まれでしたから。あの頃も大変な時代でした。教科書がなかったんですよね」

 戦争直後はモノ不足の時代だ。私は「先生が毎日、謄写版で印刷してくれた紙で勉強していました」という体験を話した。

「妹の様子を見ながら本当に大変だなあと思いましたよ」

 両陛下ともお話しになるときは必ず相手の目を見て話す。ソファに座って斜め向かいの相手に話すときは、体を少し相手の方に向ける。それがお二人のなさりようである。

 半藤さんは、「陛下はそのころ栃木にいらしたんですね」と聞いた。終戦時の話だ。昭和19年7月から初等科の同級生とともに日光に疎開され、20年の11月に列車で東京にお戻りになるまでその地にいらした。

 帰京時、埼玉と東京の県境の荒川を渡り、赤羽のあたりまで来ると見渡す限りの焼け野原が広がっていた。

「建物が何一つないんですよね。これほどひどいのかと本当に驚きました」

 まだ陛下は小学6年生だった。その後、原宿駅で降りられ赤坂離宮に向われた。そのときの衝撃は今もよみがえるようで、心底驚いたという表現をされた。

ノンフィクション作家・保阪正康氏による「 平成の天皇皇后両陛下大いに語る 」は、「文藝春秋」2023年1月号と、「 文藝春秋 電子版 」に掲載されている。

(保阪 正康/文藝春秋 2023年1月号)

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