夫から「中絶か離婚」を迫られ…中卒のシングルマザーが「特別養子縁組」で我が子を託す“苦渋の決断”をした理由
2023年01月21日 12時00分文春オンライン

※写真はイメージです ©iStock.com
生みの親が育てられなくなった子どもを引き取り、法律上においても実子と同じ親子関係を結ぶ「特別養子縁組」。特別養子縁組について取り上げられるとき、その多くが、子どもを引き取った夫婦側の視点から語られる。だが、手放した側の親についてはどうだろう。
特別養子縁組には、当然ながら子どもを「託した」側の立場の人も存在するはずなのに、彼女や彼らについて語られることはほとんどない。若年での妊娠、保護者の病気や死亡、経済的困窮、虐待――。複雑な事情が絡んでいることが想像できるが、実際に生みの親は何を想い、自ら産んだ子を手放すのだろうか。(全2回の1回目/ 続き を読む )
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2022年12月初旬、関東圏の主要ターミナル駅近くのカフェで、一人の女性と待ち合わせた。現れたのは、黒のセーターと緑のロングスカート姿の、かわいらしい目元をしたマスク姿の女性。20歳で出産し、産後半年で子どもと別れることを決意した、竹内陽菜さん(仮名、23歳)だ。
■被虐待児として育った幼少期
まず、陽菜さんの子ども時代と、母親との関係について触れておきたい。陽菜さんは母子家庭で育ち、母親からDVや育児放棄をされた過去をもつ、「被虐待児」だ。食べる物も満足になく、学校にもまともに通えず、小学校~中学校にかけては児童相談所への通告や家庭訪問を何度も受けている。
小学生だったある日のこと。陽菜さんは訪問してきた児童相談所の担当者に、「お母さんに叩かれてない?」と聞かれたことがあった。
「傍にいた母が私に向かって“叩いてないよね?”と言うから、“うん”と答えるしかなくて。本当は母から暴力を受けていたし、誰かに構ってもらいたくて、児相の人には保護して欲しかった。でも中学生のとき、母親の育児放棄で児童相談所に一時保護され、“このままここに残ることができるけどどうする?”と聞かれたときは、自ら“帰る”と伝えました。だって、母は付き合っていた彼氏にいつか捨てられる。母親は、自分がいなくては生きていけない人。自分にとっての母親は、私がなんとかしないといけない人。今もずっとそうです」
■15歳で働き始め、19歳で結婚
15歳になると、母親の借金の返済と生活費を稼ぐため、定時制高校に通いながら毎日、休みなくコンビニとラーメン屋で働く日々が始まった。仕事は楽しかった半面、生活に追われるうち次第に勉強が手につかなくなり、高校を中退。18歳になってすぐ風俗店で働き始めた。
中卒の女の子が毎月まとまったお金を稼ぐには、性産業に関わらざるを得ないという現実もあっただろう。子どもの父親となる男性と出会ったのはこのときだ。勤めていた風俗店の客で、8歳年上の、地元で公務員として働く男性だった。知り合って3か月で男性からプロポーズされ、二人は結婚した。
「風俗を辞めるため結婚しない選択はありませんでした。虐待を受けていて、生活もずっと苦しくて15歳から働いていた私からすれば、社会的に信頼が高く安定した職に就く彼は心から信頼できる大人。絶対に幸せにすると言ってくれるんだから、絶対に幸せになれる。そう思って結婚しました」
こうして2018年、19歳で結婚。母親からは、風俗で知り合ったばかりの二人という危うさから「必ず失敗する」と猛反対されたが、押し切っての結婚だった。実は彼には離婚した妻と、その妻との間に子どもがいたが、その事実はあとから知らされることになる。
■結婚から3か月で妊娠が判明したが…
陽菜さんは結婚を機に別の仕事に就き、結婚3か月後には妊娠が判明した。お互いに子どもが欲しいと言っていたため、妊娠はとても嬉しかった。だが、妊娠7か月のとき、突如、夫が「中絶か離婚」を切り出してきた。
「きっかけは私の極度のマタニティブルーでした」
陽菜さんは10代半ばから精神的に不安定となり、17歳から精神科への通院歴がある。当初は抑うつ状態と診断され、以来、薬を服用しながら症状をコントロールしている。のちに「境界性パーソナリティ障害」と「解離性障害」という診断を受けているが、いずれも原因は幼少時の成育環境が大きく影響する疾患だ。こうした病気を抱えながらの妊娠は何より身近な人たちからの助けが必要だが、残念ながら陽菜さんは誰からもサポートが得られなかった。
「妊娠を機にうつ症状が悪化し、仕事が続けられなくなりました。旦那からは、働いていないなら家の掃除を完璧にすること、毎食必ず主菜と汁物と副菜二品を作ることを言い付けられていたので、その通りに頑張りました。
私の住む地方都市は電車もバスもなく車が一人一台ないと生活できない場所。平日は夫が仕事で車を使うため、買い物は常に徒歩。そもそも私は精神科から処方された薬を服用していたため、免許の取得を控えていました。
大きなお腹で毎日片道徒歩40分のスーパーまで行っていましたが、夫は土日になると朝5時から夜11時まで必ずパチンコに行く。車もなく、誰も頼れない。精神的に不安感が増し、限界を感じていました」
■突きつけられた選択肢は「中絶か離婚」
そんなある日。今の状況の辛さを夫に訴えると、「だったら中絶するか、離婚してくれ」と、陽菜さんを突き放してきたのだ。
「その言葉を聞いたとたん、完全に取り乱してしまいました。理性が抑えきれず、そこらへんにあるものを旦那に向かって投げつけたら、警察を呼ばれてしまったんです。動揺して、母親にどうしようって電話をしたら、すぐに来てくれて。到着した警察に“どうしますか?”と聞かれると、母が“連れて帰る”と。それで母のもとに身を寄せることになり、そのまま旦那とは別居になりました」
このとき、お腹の子はすでに24週を迎えていて、中絶可能な時期(※)は過ぎていた。
※初期中絶手術は妊娠12週未満、中期中絶は妊娠22週未満まで可能とされている。
妊娠中から、陽菜さんの気持ちは揺れ動いていた。もともと望んだうえでの妊娠だったから、絶対に自分で育てたい。でも精神疾患を抱える自分に育てられるだろうか。切羽詰まった陽菜さんは、妊娠中に一度、まだ夫と衝突する前に児童相談所に自ら電話したことがあった。すると保健師が訪問してきた。母に連れられ実家に戻ったあとも、保健師の訪問を受けた。
■助産師から提案された「乳児院への入所」
「旦那と暮らしていたときは、自分で育てたい。でも旦那と別居してからは、育てる自信が持てない。母は自分のことで手一杯で頼ることができない。子どもへの気持ちが定まらずにいました。
保健師さんから聞かれるのは“どうしたいですか?”ということだけで、“こんな選択肢がありますよ”、ということは教えてくれない。『コウノドリ』というドラマを観て特別養子縁組のことは知っていましたが、託す側の情報はなかなか調べても分からない。どうしたいですか? と言われても、情報がないから答えようがありませんでした。
今は育てる環境ではないけど、いつかは自分で育てたい。でもそのためにはどうしたらいいか分からない。そんなとき、産む予定の病院の助産師さんから乳児院への入所を提案されたので、自分から、“乳児院にお願いします”と伝えました」
乳児院とは、保護者の養育を受けられない乳幼児を養育する、地方自治体や社会福祉法人が運営する施設をいう。
■中卒のシングルマザーをとりまく「過酷な環境」
こうして、迎えた出産の日。20時間の陣痛の末、3860gの健康な男児(コウ君:仮名)を出産した。産後は陽菜さんは母子同室が叶わず、母乳を止める薬を飲み、「1歳までに生活基盤を整えて引き取る」という陽菜さんの意向のもと、子どもは生後7日目で乳児院に保護されることになった。夫とは、産後1か月もしないうちに離婚が成立し、陽菜さんが親権者となった。
「産後1か月、悪露がまだ出ている状態で働きに出ました。最初は清掃で、次はコンビニ。でも体調が回復せず、体力が落ち切っていてなかなか続きませんでした。面接もたくさん受けましたが、扶養欄に子どものことを書くと、17時からの仕事や夜勤は断られてしまう。
しかも面接で“お子さんはどうするんですか”と聞かれ、“一緒に住んでいない”と言うと、すごく悪い人を見るような目でみられる。辛かったです。だけど、シングルマザーの産後の体験談をネット検索すると、がんばっている人ばかり。母乳風俗で働きながら育児をしているシングルマザーもいました。私も頑張らなくてはと、どんどん自分を追い込んでいきました」
頼れるパートナーも親もおらず、社会的なキャリアがほとんどない女性が産後、心身が不安定な状態で働くことがどれだけ過酷なことかは想像に余りある。しかも元夫から養育費が払われることはなかった。
「“乳児院に預けているなら、養育してないじゃん。なんで養育費を払うの”というのが元旦那の言い分でした。乳児院に預けるにも利用費がかかるし、そもそも養育費を払ってもらえたら乳児院に預けずにすんだかもしれないのに。“じゃあ、乳児院から出てきたら払ってくれる?”と聞いたら“お金がない”と怒り出すのです。あとで知ったのですが、彼は別れた最初の奥さんとの子どもにも養育費を払っていませんでした」
■生後五か月で「特別養子縁組」を決断
乳児院からは産後2か月目から面会の許可が出たため、何とか得た居酒屋での仕事をこなしながら、午前中は毎日面会に行った。面会では子どもの写真をたくさん撮り、子ども服も少しずつ買いそろえた。でも、午前の面会では子どもは寝てばかりで、次第に乳児院のスタッフのほうが我が子の様子に詳しいことを思い知らされ、心が苦しくもなった。
そして、生後5か月目を迎えた2019年のある夏の日。陽菜さんは、子どもを特別養子縁組に出すことに決めた。自ら児童相談所に電話した日付を、陽菜さんは今も正確に覚えている。
地元では「子どもを捨てた女」という噂も…特別養子縁組で我が子を託した女性(23)が忘れられない“主治医の言葉” へ続く
(内田 朋子)
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