小田急線“ナゾの阿波おどりの駅”「大和」には何がある?

小田急線“ナゾの阿波おどりの駅”「大和」には何がある?

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 いきなり季節外れの話題で恐縮だが、関東三大阿波おどりというものがあるらしい。阿波おどりの本場は言わずもがなの徳島で、それに次ぐのがなぜだか東京・高円寺というのは有名な話だ。が、阿波おどりが盛んな町は他にもあるという。関東三大阿波おどりの舞台は、高円寺、越谷、そして神奈川県のど真ん中に位置する、大和市だ。

 なぜか……というのは単純な話で、どれも商店街がはじめた小規模なお祭りが規模を大きくしてきたそうだ。大和の阿波おどりは1977年にはじまって、いまや40万人も訪れるビッグイベントだというからなかなかのもの。神奈川県内において、阿波おどりといったら大和、なのかもしれない。

■関東三大阿波おどりの町「大和」にやってきた

 今回は、そんな大和にやってきた。ターミナルはもちろん大和駅だ。大和駅はちょうど神奈川県の真ん中にあって、南北には小田急江ノ島線、東西には相鉄本線が通っているその交差地点に位置する。

 新宿からは小田急線の快速急行でおよそ40分。横浜からは相鉄線の特急で20分足らず。どちらから行ってもそこそこの時間で行くことができる。相鉄線は2023年の春から新横浜駅にも乗り入れるようになる。こうして見ると、大和駅はどこに行くにもとてつもなく便利、というわけだ。

 東西南北、おおよそ十字に線路が交差している大和駅に、小田急線でやってきた。小田急線はこのあたりを高架で走っている。

 高架の下に設けられている改札口を出ると……あれ、これはなんですか。相鉄線への乗り換え改札、いったんその中に入って、すぐに外につながる改札をまた抜けるという、ちょっとトリッキーな構造になっているじゃないですか。初見の人は、結構戸惑いそうじゃないかと思う。が、まあちゃんと案内もされているから、ケチをつけるほどのことでもない。小田急線と相鉄線を乗り換える人にはたいそう便利だろう。

 大和駅において小田急線の相棒たる相鉄線は、地下を走っている。高架と地下という絶妙な距離感でふたつの線路が交わっているから、それほどに交通が阻害されることなく成り立っているのだろう。

■外に出てみると…

 外に出てみると、十字の交差の四隅それぞれに、ちょっとした駅前広場が設けられている。本来なら相鉄線は地下に潜っているので、駅前から眺める限りは高架の小田急線しか存在しない。だが、ちょうど相鉄線の線路が通っているあたりの地上部分は遊歩道のように整備されていて一目瞭然なので、なんとなく十字に交差しているということが伝わってくるのだ。

 相鉄線が地下に潜ったのは、1993年のことだ。それより前は、ちゃんと地上を走っていた。ただ、地上を走る線路とその上を跨ぐ高架線という十字交差は、町を4つに分割してしまう。回遊性はとうぜん阻害されてしまうし、踏切は渋滞の要因にもなる。ということで、相鉄線を地上から地下に潜らせる工事を行った。そして地上の線路の跡地が遊歩道のように整備されたというわけだ。

■「大和」の中心はどこ?

 そうした事情からなのか、大和という駅はいったいどこが中心なのかがいまひとつわかりにくい。東側には「プロス」という駅ビルがあってこれが旗印にはなっているようだが、西側にもそれぞれ駅前広場があり、商業施設も十字の四隅を中心に同じように広がっているのだ。

 さらに、小田急の高架下にも商業施設が入る。いかにも古めかしい、昭和30年代の面影の商店街もあれば、賑やかしいイマドキの商店街もあり、ビジネスホテルもファミレスも。間々には新しめのマンションが建ち、さらにその周縁には戸建て住宅がひしめく住宅地だ。

 西側(つまり「プロス」とは反対側)の駅前は、「大和なでしこ広場」と名付けられている。大和なでしこってことですか……と思って調べてみたら、大和は女子サッカーが盛んなのだとか。2011年のサッカー女子W杯で優勝したメンバーにも大和出身の選手が何人かいる。そうした縁もあって、「なでしこ広場」となったのだろう。

 他にも「あすろーど」「ふれあう街昭和通り」など、駅の周りの商店街や道筋には、色とりどりの名がつけられている。もともとは周囲の商店街、十字に交わる線路で4分割されていたわけで、それが中央の遊歩道や駅ビルを中心に一体化された。とはいえ、4分割されていた頃の面影というべきか、どことなく雰囲気が違うのもまた歩いていておもしろい。

■賑やかな空気の商店街を歩いていると…

 そんな中で、いちばん賑やかな空気感が漂っていたのは、駅の北東側を東西に走る新橋通り商店会だ。大和で阿波おどりをはじめたのはこの商店街。商店街のちょっとした取り組みが、町全体の名を挙げることにもなるのだから、たかが……などといってバカにしてはならないのだ。

 その新橋通り商店会を歩いていると、そこから北に延びる路地沿いに何やらオトナ系のお店が並んでいる一角があった。安酒場やスナックの類いから、クラブ、そして風俗店らしき建物もある。大和と言えば、どちらかというと郊外の住宅地というイメージが強い。歓楽街的なゾーンとは縁遠い印象だ。だいたい、そういうものは20分程度で結ばれている横浜に任せておけばよさそうなもの。いったいこれは、どういうことなのだろうか。

 そういうわけで、このあたりで大和の町の歴史をたぐってみることにしよう。

■一面の桑畑に雑木林…“何もない寒村”だった「大和」に何が?

 大和という、なんだか縁起が良いというかたいそうな町の名前は、明治の半ばの1891年につけられた。当時はまだ市ではなく村で、鶴見村が大和村に改称した形だ。それ以前は下鶴間村・深見村・上草柳村・下草柳村という4つの村に分かれていて、互いに対立することもあったことから、“大きく和する”の意味を込めて命名したのだとか。いわば瑞祥地名の一種で、奈良の大和とは何の関係もない。

 明治時代は“村”だったということからも想像できるとおり、その頃の大和はまったく何もない寒村だった。

 鉄道などはとうぜん敷かれておらず、いまの大和駅周辺は一面の桑畑、あとは生い茂る雑木林。町という町はほとんどなく、いまの小田急線鶴間駅東側に矢倉沢往還の下鶴間宿が置かれていた程度だったようだ。いまでこそ、大和の中心は大和駅。だが、もともとは大和市域の一帯は、中核的な町を持たない村だったのだ。

 そんな大和にはじめて鉄道がやってきたのは、大正時代の終わり頃。1926年に神中鉄道(現在の相鉄本線)が大和駅を開業させ、1929年からは横浜と一本で結ばれるようになった。この当時、大和駅から横浜駅まではおおよそ1時間ほどかかっていたという。

 そして1929年には小田急線もやってくる。ただ、その頃は駅の位置が神中鉄道の駅と少し離れていて、小田急線は西大和駅と名乗っていた。両者の乗り換えには外を歩かねばならなかった。それでも横浜方面と東京方面、それぞれに通じる鉄道がやってきたのだから、交差地点の大和駅・西大和駅周辺には少しずつ市街地が形成されてゆくことになる。

■鉄道開通後やってきたのは…

 こうして交通の便が確保された中で、やってきたのは軍事関連の施設であった。鉄道の開通が相次ぎ、都市部との往来が便利になってきた相模原台地上には、昭和に入って次々に軍事施設が建設された。そのひとつが、いまの大和市内も含まれる厚木飛行場だ。いまでは米海軍の厚木基地になっているが、そもそもは1942年に完成した帝国海軍の飛行場。海軍航空隊も置かれ、帝都防衛の拠点として期待されていた。

 つまり、大和の町は1930年代後半から40年代前半にかけて、軍都としての趣を強めていった。こうした中で海軍が主体となった都市計画も実行される。いくらか離れた場所に設けられていた神中鉄道と小田急線の駅が同じ位置にまとめられたのは1944年のこと。都市計画の一環という意味合いもあったのだろう。

■急速に大きくなった“基地の町”の戦後

 戦争が終わると厚木飛行場にはマッカーサーが降りたって、そのまま米軍の施設になった。連合軍の進駐に、暴虐の限りを尽くされるのではないかと町の人々はなかなかおびえたという。が、多少の諍いはあったものの、大きなトラブルが起こることはなかった。大和の町は、比較的スムーズに“基地の町”になったようだ。

 ただし、まったく問題がなかったわけではない。そのひとつが、慰安施設だ。連合軍の進駐に備えてあちこちに慰安施設が設けられたのはよく知られたお話だが、厚木基地を抱えていた大和とて例外ではなかった。

 大和の町中にもダンスホールを備えた慰安施設がいくつも現れた。『大和市史』によれば、ひとりの娼婦が1日に20人以上の米兵の相手をしなければならなかったというからなかなか厳しいエピソード。もともとこういった米兵向けの慰安施設は、戦前からの海軍兵向けの遊郭が転用されたという説もあるようだ。こういった慰安施設の名残が、大和の町中にある“オトナゾーン”なのかもしれない。

 いずれにしても、こうして良くも悪くもアメリカの文化が大和の町に入ってきた。朝鮮戦争がはじまると、いっそう米兵相手の商売(慰安系のそれ以外も含む)も盛んになって、農村的な駅周辺の風景も大きく変わっていったのだった。

 そうした時代はほどなく終わるが、次いでやってきたのは高度経済成長だ。もともとふたつの線路が交わって交通の便が優れていた大和の市街地化が進むのはとうぜんのなりゆきだった。

 大和市が成立した1959年時点では、3万5000人程度だった人口は15年後には12万人を超えるまでに増えた。20~30代の家族が転居してくるケースが多かったというから、いまの時代からしたら垂涎のお話である。

■60年で20万も増えた人口を支えたのは…

 交通の便に優れているという強みは時代背景には関係なく、いまも同じだ。その後も大和の人口は増え続け、いまでは24万人を超えている。大和駅の周囲、商業地帯を抜けるとひたすら延々と、相模原台地の上に広がる住宅地。かつての田園地帯が住宅地に変わっていって、60年間で20万人も増えた人口を受け止めたのだろう。こうして、いまの大和の町ができあがったのである。

 大和駅前、高架と地下で十字に線路が交差している町の中心の、四方に広がる商業エリア。駅前という立地もあって、古い商店街が苦しい状況にあるのは大和とて同じかもしれない。が、駅からは一日中老若男女、たくさんの人が吐き出されてくる。

 駅前の「プロス」から東に向かって相鉄地上線跡を少し歩くと、何やら真新しい巨大施設が見えてくる。2016年に完成した、「YAMATO文化森」という。その中には、大型の図書館も入っていて、年間来館者数が自称日本一なのだとか。駅前から図書館までの遊歩道には、「図書館城下町」などという幟もはためく。たった100年ばかりのうちに田園地帯が大市街地に変貌した大和の町は、これからどう変わってゆくのだろうか。

(鼠入 昌史)

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