「『これは何という虫?』とよく聞くんですよ」上皇陛下が話してくださった悠仁さまの“素顔”
2023年02月01日 12時00分文春オンライン

悠仁さま 宮内庁提供
ノンフィクション作家・保阪正康氏による「続・平成の天皇皇后両陛下大いに語る 両陛下に大本営地下壕をご案内いただく」(「文藝春秋」2023年2月号)を一部転載します。(初回の記事は こちら )
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■「この前、悠仁と散歩しました」2人きりで森の中へ
御所は吹上御苑(ふきあげぎょえん)という巨大な森の中にある。
御濠(おほり)によって都心のビル街と隔絶された森には、天皇陛下のお住まいである御所のほかに、宮中祭祀がおこなわれる宮中三殿や、上皇陛下の母良子(ながこ)皇太后の住まいだった吹上大宮(おおみや)御所などが点在する。
そういった皇室の建物も、巨大な森の中にあってはごく小さな存在だ。昼なお暗い森の中には、小高い丘や深い谷があり、見上げるほどの大木もあれば、室町時代に掘られた道灌濠と呼ばれる濠もある。周囲から隔離され生きのびた武蔵野の在来種や、なぜ存在するのかが不思議な、海辺や外来の生き物が豊かな生態系を形づくり、カワセミやオオタカ、タヌキ、ハクビシンといった都会には珍しい動物、ゲンジボタルやベニトンボ、カブトムシやクワガタといった昆虫が数多く棲息しているといわれる。
2回目の懇談となった2013年9月10日夜も、御所の応接室からは虫の音がよく聞こえた。
「ずいぶん虫が鳴いているんですね。ここは本当によく聞こえますね」
半藤一利さんが、向かいのソファにお座りの天皇陛下と美智子さまに申し上げると、陛下は虫の音を聞き分けながら、その虫の名前をいくつか解説してくださった。
「この前、秋篠宮のところの悠仁(ひさひと)が来たんですよ。この辺をいっしょに散歩しました」
陛下は悠仁さまと2人だけで、虫が鳴く森の中を歩き、虫の種類などを教えたらしい。
この年の春、悠仁さまはお茶の水女子大付属小学校に入学され、9月6日に7歳になったばかりだった。お誕生日に合わせた報道では、「皇居にも度々訪れ、バッタやチョウを入れた虫かごを両陛下に見せながら話をされた」(読売新聞2013年9月15日付朝刊)と近況を伝える新聞記事もあった。
「悠仁は虫に興味を持って、『これは何という虫?』とよく聞くんですよ。私はすべて教えました。子どもっていうのはかわいいものですね。本当にかわいい」
陛下はそうおっしゃった。
「夜に歩かれたのですか」と聞くと「そうですよ」とにこやかに答えられる。
おそらく私たちが今いるのと同じくらいの午後8時前後に、お二人で虫の鳴き声を聞きながら歩かれたのだろう。陛下とお孫さんが2人きりで虫の音に耳を傾ける姿を想像するだけで、うれしくなった。
応接室はテラス戸を開け、網戸にしていた。陛下は耳を網戸の先の庭に向けて、
「今日も虫がよく鳴いている」
とおっしゃりながら、しばらく虫の音を楽しんだ。
陛下は「悠仁」と孫のことを呼んでいた。悠仁さまが陛下のことをどう呼ぶのかは聞きそびれてしまった。やはり御所言葉の伝統にのっとって「おじじさま」、皇后さまのことは「おばばさま」と呼ばれるのだろうか。これは私の想像に過ぎないが、そんな伝統にはしばられない、世間と変わらない祖父と孫の関係に近いのではないかという気がした。陛下は悠仁さまのことを「かわいいんですよ」と繰り返しおっしゃった。孫を思う気持ちとして「かわいい」と感情を抑制することなく素直におっしゃったことが、私たちには印象に残った。
■「タヌキが出て来て危ないんです」
今思い返すと畏れ多いことなのだが、この吹上御苑を両陛下に案内していただいたことがある。きっかけは、2014年12月19日の4回目の懇談の折、終戦時の御前会議の話が出て、半藤さんが「あの防空壕は、今はどうなっているのでしょうか。一度、見てみたいのですが……」と申し上げたことだった。防空壕とは、昭和天皇が終戦のご聖断を下した御前会議が開かれた「大本営地下壕」(御文庫(おぶんこ)附属庫)を指している。
陛下はこうおっしゃった。
「だいぶ朽ち果てて、中に入るのは難しいようです。いきなり入ると天井が落ちてきたり、タヌキが出てきたりして危ないんです」
半藤さんは、本誌の編集部員だった1965年に『日本のいちばん長い日』を書いて、1945(昭和20)年8月10日と14日の2回にわたり開かれた御前会議の舞台裏と、その一方で秘かに進んでいた陸軍強硬派のクーデタ計画(宮城(きょうじょう)事件)のことを、当事者の証言をもとに戦後初めて明らかにした。その半藤さんも皇居の中にある大本営地下壕はまだ見たことがなかった。執筆した当時は、地下壕の情報さえほとんどなく調べるのに苦労したらしい。
私たちは陛下の返答をうかがって、「そうですか、それは残念です」とだけ言ったが、陛下は半藤さんのリクエストを覚えていてくださったようで、私たちは次回の懇談時に驚かされることになる。
■「運動靴で」と言われ皇居へ伺うと……
その懇談は2015年2月22日に設定された。前回は師走の19日、今度は両陛下が大変お忙しいお正月を挟んですぐだったので驚いた。
それには理由があった。事前に宮内庁から、
「吹上御苑の梅を見ていただきたいので、運動靴を履いていらしてください」
と連絡があったのだ。皇居で梅見とはなんとぜいたくなことかと思った。このときは半藤夫人の末利子さん、東大教授の加藤陽子さんもいっしょだった。
午前10時40分にホテルグランドアーク半蔵門で待ち合わせ、宮内庁の車で御所に向い、午前11時すぎにはいつもの応接室で両陛下にお目にかかった。昼食をごいっしょさせていただいた後、3時くらいまでいつものように懇談が続いた。
「梅を見に行きませんか」
陛下がそうおっしゃったので、両陛下と私たち4人は御所から外に出た。
その日は曇り空の寒い日で最高気温は8℃。枯葉が積もるむき出しの土を踏みしめながら歩いていくと、日陰にはところどころ霜が残っていた。「運動靴で」と言われた意味がようやくわかった。
陛下が最初にご案内くださったのは、明治天皇が1888(明治21)年に梅花観賞のために建てた寒香亭という瀟洒な和風建築だった。少し小高いところに立つ亭からは、紅梅の梅林がよく見えた。大正天皇や昭和天皇もここで梅をよく見ていたに違いない。
大正天皇は「寒香亭」と題した漢詩を残している。
寒香亭
園林春は浅し 雪余の天
剪々風来たって 鳥語伝う
好し 是れ寒香亭子の上
梅花相対して 神仙に似たり
この詩の情景は、まさに私たちの目の前に展開していた情景そのものだ。寒香亭に入ると、陛下自ら匠の建築技術について説明された。
「この建物の雨戸は直角に曲がるんですよ」
雨戸に細工がしてあって、角に来るとくるりと90度向きを変えるのだ。私は、たまたま元老西園寺公望の別邸「興津坐漁荘(ざぎょそう)」(静岡市)で同じ細工を見たことがあったので、その職人技を知っていた。
寒香亭の後も両陛下と私たちの散策は続いた。
陛下と美智子さまは並んで先を行かれた。その足は意外なほど速く、ぐんぐん進まれるので、こちらが油断していると置いて行かれてしまう。同行した宮内庁職員と話をしながら歩いたこともあるが、お二人に付いて行くのが精いっぱいだった。そのうちに道から外れ、枯芝が広がるところに出た。両陛下は歩き続ける。行き先はおっしゃらない。御所からは離れていく方角だった。私たちは「どこに行くのだろう」と思いながら付いて行った。
■陛下はそこまで来てようやく……
枯芝の先に古い、いかつい重厚な建物が立っていた。陛下はそこまで来てようやく、
「ここですよ、この前のお話に出ていた防空壕の入口は」
と教えてくれた。草木に覆われた向こうにコンクリートの壁と鉄の扉がわずかに見えた。私と半藤さんは顔を見合わせて、両陛下のお心遣いに感謝した。
陛下は私たちに向って、
「ここで終戦の時の会議が開かれたんですね。今はタヌキが住んでいるらしいですよ」
そう笑顔で言い添えた。
陛下にうながされる形で、私たちは防空壕の入口に近寄った。分厚い鉄とコンクリートで作られた建造物であることは一目でわかった。鉄の扉を触り、鉄格子越しに中を覗いてみたが、その奥がどうなっているのかは暗くてまったく見えなかった。
戦争末期、長野県の松代で大本営移転のための工事が進められたが、それ以前に皇居内に会議ができる大本営の防空設備が必要だとなり、陸軍築城部が建設したのがこの大本営防空壕だった。昭和天皇が空襲を避けるために使われていた住居兼防空施設「御文庫」と地下通路でつながっているので御文庫附属庫とも呼ばれる。この2つをつなぐ地下道は、今はどうなっているのだろうと私の関心は深まった。私たちはしばらく滞在した後、防空壕の草むす周囲をぐるりと廻って御所に戻った。
宮内庁はその年の8月、戦後70年の終戦記念日直前にこの防空壕内部の写真を公表した。御前会議が開かれた会議室の床も壁も朽ち果てていたが、爆弾が落ちても崩れないように梁を格子状に巡らせた、特徴的な台形型の天井は、白川一郎画伯が御前会議を描いた絵画そのままの姿だった。御文庫からの地下通路の写真も公開されたが、土砂ですっかり埋もれてしまっていた。
戦後の大きな節目に合わせた防空壕の公表は、以前から決まっていたことなのかもしれない。ただ、もしかすると、半藤さんが「見たい」と申し上げたことをきっかけに両陛下が公表を考えて下さったのかもしれないとも思えた。防空壕の写真が公表された時、半藤さんが興奮しながら、「お話ししてみるものだなあ」とつぶやいたことが懐かしく思い出される。
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ノンフィクション作家・保阪正康氏による「 両陛下に大本営地下壕をご案内いただく 」は、「文藝春秋」2023年2月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されている。
(保阪 正康/文藝春秋 2023年2月号)
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