同級生がぽつぽつ“消えた”幼少期、息子は人質に…「私たちは奴隷でした」北朝鮮の超エリートが語る暮らしぶり
2023年02月02日 12時00分文春オンライン

自伝エッセイ『ロンドンからやって来た平壌の女』を上梓した呉恵鮮さん。ソウル市内のカフェで。(筆者提供)
「次の瞬間、夫は脱北しようという私の決心が確かなものかと訊いた(中略)その瞬間、母や兄弟の顔が頭に浮かんだ。私のために、ある日突然、家族全員が地方に追いやられることを思うと、胸がふたがれた。一瞬の選択によって、愛する人々を天国から地獄へと送る門の前に立っていた」
1月26日に刊行された、呉恵鮮(オ・ヘソン)さん(55)の自伝『ロンドンからやって来た平壌の女』(邦題仮、ザ・ミラクル)の一節だ。
呉さんは、2016年7月、駐英北朝鮮大使館の外交官だった夫、太永浩現「国民の力」議員と息子ふたりとともに韓国に亡命した。北朝鮮の外交官という高位層の亡命は当時、韓国では驚きを持って大きく報じられたが、なによりも耳目を集めたのは、夫人である呉さんの華麗な家柄だった。
呉さんの家系は「抗日パルチザン(日本の植民地時代に活動した抗日の非正規軍)」として知られ、叔父は金日成の護衛総局長や朝鮮労働党中央委員会軍事部長などを歴任した呉白龍氏(本名は呉スヒョンと本で明らかにしている)だ。
父親も人民武力部総政治局幹部部長などを経て、後年、金日成政治大学総長も務めた、北朝鮮の階級では核心層といわれるエリート層であり、自身も名門「平壌外国語大学」を卒業後、貿易省に勤めた北朝鮮のパワーエリート層だった。
そんな呉さんが亡命の道を選んだのはなぜか。本書ではこれまで語られなかった亡命に至るまでの経緯を軸に、北朝鮮のエリート層の日々の暮らしや、恋愛を禁止されていた中・高校時代の淡い初恋の思い出、日本からの帰国者との出会い、そして、在外の北朝鮮公館での生活ぶりがつぶさに綴られており、これまで知りうることのなかった北朝鮮のエリートといわれる人々の苦悩も浮かび上がる。
自伝を執筆するに至った経緯や亡命を決意した背景、そして北朝鮮での暮らしなどについてあらためて呉さんに話を聞いた。
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■同級生がひとり、またひとりと消えていく
ーーご著書では、北朝鮮在住時、官用車・ボルボでの家族旅行の様子なども描かれており、当時の裕福な暮らしぶりが垣間見えます。韓国では「北朝鮮の金のスプーン(韓国の階級論。年俸により、金・銀・銅、土のスプーンに分けられる)出身者がなぜ亡命したのか」に再び関心が集まっています。
「北朝鮮のそれは、韓国でいう『金のスプーン』とはまったく事情が異なります。幹部といっても、いつ何時粛清されるか分からない境遇です。車もその職務が終われば使えませんし、住んでいた家は一軒家で部屋がいくつもありましたが、父親が異動になれば空け渡さなければいけない。自分の資産ではありません。
私は中学、高校時代を平壌外国語学院(朝鮮戦争の戦争孤児のために故金日成総書記が設立した寄宿舎スタイルの学校。北朝鮮の名門校といわれる)に通いました。帰国子女など、幹部の子女が多く通っていました。そこは権力の怖さを目の当たりにする、“小さな共和国”でした。
卒業するまでに同級生はひとり、またひとりと突然いなくなりました。何も過ちを犯していないのに父親が粛清されて家族ともども地方に追放されたり、行方さえも分からない同級生もいました。幼いながらもそんな同級生について詮索したり話題に出してはいけないとみな分かっていて、平静を装っていました。こんな境遇が金のスプーンの人生でしょうか? もちろん、土台(北朝鮮で家柄、家庭環境を指す話し言葉)や忠誠心によって暮らしぶりは異なりますが、結局はみな、金氏一家の奴隷に過ぎません」
呉さんは、北朝鮮で外務省に勤めていた太永浩氏(現在、韓国の国会議員)の異動に伴い、1996年から2年間デンマークに駐在し、外貨不足からデンマークの北朝鮮大使館が在スウェーデンの大使館に統合されるのに伴い、2000年までスウェーデンに滞在した。
北朝鮮へ帰国し、2004年には太氏が駐英北朝鮮大使館勤務となり、4年間をロンドンで過ごした後、北朝鮮に帰国するも13年から再び英国勤務となり、亡命する16年までロンドンに過ごした。
■パソコンから韓国ドラマが見つかり、地方追放
――ロンドンでは、コリアタウンのニューモルデン(New Malden)を訪ねていたのが印象に残りました。韓国ドラマもそこで借りてきたと書かれています。
「北朝鮮の外交官は大使館内に居住することが原則なのですが、ロンドンではすでに3世帯が住んでいたので私たちは大使館から5分ほど離れたところに家を借りました。これがどれだけ嬉しかったことか。
北朝鮮の大使館では外出も単独では許されていないので、私はこっそり電車とバスを乗り継いで、ニューモルデンに行きました。誰かに見られているのではないかと常に回りが気になりましたけど、ニューモルデンにある韓国スーパーの中に入ってしまえばそんなことはすぐに忘れました。
韓国ドラマはそこから借りて見ていました。朝鮮語を話すと北朝鮮のイントネーションを訝しがられると思って、長く話をするときは英語にして。『冬のソナタ』、『秋の童話』、『パリの恋人』などを見ました。どんどん韓国への好奇心が膨らんでいきました」
――北朝鮮では韓国ドラマは処罰の対象では?
「当時も見つかったら大変でした。平壌にいたときに、米国駐在から戻り、北朝鮮で過ごした後、再び米国駐在を命じられた外交官は、出国1日前に娘のパソコンから韓国ドラマが見つかって地方に追放されました。姪は、学校の運動場に日本の漫画の絵を描いて、やはり処罰の対象となりました。こちらはなんとか許されたのですが、北朝鮮では米国や日本のものより韓国の文化に接することをとても嫌っています」
■なぜエリートなのに脱北したのか
――北の体制について疑問を持ち始めたのはいつ頃からなのでしょうか?
「長男は幼い頃、病気で苦しみました。北朝鮮の病院ではなかなかよくならなかったのですが、デンマークやスウェーデンの病院に通うと好転しました。北朝鮮の病院の設備や処方とまったく違うことに驚きました。次男はデンマークで出産しましたので、この時も北朝鮮との福祉の違いなどを深く実感しました。
決定的に絶望したのは金正恩の登場です。金日成から金正日に代わってから人々の暮らしはいっそう苦しくなりましたが、金正日は日々、人々を苦しめることはなかった。韓国との経済交流が始まった頃は市場も活性化していて、老いた金正日の代が終われば北朝鮮も変わると願っていました。ところが、2008から09年にかけて、金正恩が金正日と視察を共にするようになり、金氏一家による統治が続くことを知って暗澹たる気持ちになりました。
金正恩は若いので、北朝鮮全国を視察しながら計画もなしに指示をだして、人々を苦しめます。可視的なものを要求したため、国民はみな建設現場などにかり出されました。学生も幹部も労働者と同じです。国家のシステムはこのときから完全に崩壊しました。もう北朝鮮ではいくら努力しても未来がないと思うようになりました」
■家族4人が揃ったタイミングで亡命を決意
――亡命するというのは相当な覚悟だと察します。北朝鮮のエリートだった呉さんが他国へ行けば移民、脱北者になり、処遇も変わります。亡命を決心させたものは何だったのでしょうか?
「子供たちには自由を授けたかった。自由が許されない、人間以下の北朝鮮での生活に、多感な時期を欧州で育った子供たちが果たして耐えられるだろうか、そう思うようになっていました。平壌に戻って暮らしていた時も、教師が賄賂(約50ドルなどの金銭)を請求する習慣が当然になっているなど、北朝鮮の学校は腐敗していて、子供たちも馴染めませんでした。
なにより私自身がとても苦しかった。最初の英国勤務が終わって北朝鮮にいよいよ帰国する時にはすでに気が滅入って、怖ろしかったのです。
2度目の英国勤務の時は長男を平壌に残さなければなりませんでした(北朝鮮では亡命を防ぐ目的で家族が人質にされる)。ところが、財政難から国が留学生を外国へ送れなくなり、在外公館にいる家庭の大学生は親がその費用を負担する条件のもと、特別に留学許可が下りることになったのです。これは奇跡でした。
1年の期限つきでしたが、急いで平壌にいた長男をロンドンに呼び寄せました。家族4人が揃った、こんな絶好の機会はありません。最後の機会だと思いました。そう思って夫に北朝鮮へは再び戻らないと告げました」
■「亡命したい」と切り出したとき、夫の反応は
――太議員はどんな反応だったのでしょう?
「2度目の英国駐在の時には毎日、夕方一緒に散策をして、自由についてたくさんの話をしていました。なので、亡命の話を出したときは、夫は肯定も否定もせず、ただ黙って聞いていました。外でしたけど、どこで盗聴されているかわかりませんから慎重になっていたのです。
ただ、子供たちの教育の話になると、外国に残らなければならないという結論以外ありませんでした。そのうちにいよいよ北朝鮮から長男を国に戻すよう命令が出て、夫は私に訊きました。『脱北しようという私の決心は確かなのか』と。私の気持ちは決まっていました。そのときから夫と私は半年かけて脱北の準備を始めました」
――ご著書は、異母姉妹の話から始まります。異母姉妹の存在も、亡命に影響したとありました。
「父は、625(朝鮮戦争)が長期化すると、戦争が終わった後の復興を担う人材として当時のソ連に送られました。そこで高麗人(戦後、旧ソ連地域に移住した朝鮮半島にルーツを持つ人々)の女性と結婚して、子供が生まれました。異母姉です。留学を終えた父は妻と異母姉を連れて平壌に戻り、外務省の国際機構局に勤め始めましたが、妻が高麗人であったことから、仕事から外されるようになったそうです。
結局、父は金日成への忠誠を選択し、高麗人の妻と娘をソ連に送り返しました。その後、彼女らとの手紙のやりとりも禁じられ、父は彼女らを思って一生、苦しみました。そんな父の姿を見ていましたから、忠誠よりも自由を、子供を選びました」
■「帰国者」との恋愛を、両親が猛反発した過去
――お姉さんの存在はいつ頃知ったのですか?
「大学生の時です。平壌外国語大学の英語学科に通っていた時に、ロシア語学科に通っていた男子学生とおつきあいしたことがありました。そのうち彼が日本からの帰国者ということがわかり、母親に迷いながらも相談すると、猛反対に遭いました。党に忠誠を誓うわたしたちが帰国者と恋愛してはいけないと。
その時に、母は父の高麗人の前夫人と異母姉のことを話してくれました。父のように苦しむことになるというのです。それでも、大学を卒業するまでおつき合いは続いて、母とも口げんかになったりしていたのですが、とうとう見かねた父からも反対されて別れました」
北朝鮮でいう「帰国者」とは、1950年代から84年まで続いた「帰国事業」により北朝鮮に渡り、永住した在日朝鮮人とその家族(日本人を含む)をいう。当時、北朝鮮は「地上の楽園」と宣伝され、9万人以上が北朝鮮に渡った。
■「帰国者」の彼を通じて、日本の文化を知った
――帰国者は北朝鮮ではどんな存在とされていたのでしょうか?
「朝鮮を支配した日本から来たスパイが紛れ込んでいるといわれており、実際に粛清された一家もいました。北朝鮮の一般の人々も同様に、帰国者に対して信じてはいけない相手という認識を持っていました。知り合いの学生からも大丈夫なのかと忠告を受けました。
それでも、彼を通して、日本は発展している国だということを知りました。帰国者専用の外貨商店には日本からの商品がたくさんあって、東芝や日立の家電もありましたし、明治のチョコレート、日清ラーメンもとてもおいしかったです。幹部への贈り物は日本製の下着でしたし、私が好きだったのはいなり寿司でした。
帰国者はこっそり、いなり寿司や寿司、刺身、ヘアカットなどの商売をしていて、いなり寿司は注文すると時間どおりに持ってきてくれるんです。私の青春の思い出の一部分に日本や日本の文化があります。
最初の英国勤務の時には住んだ家の隣りに日本人女性が住んでいました。北朝鮮の外交官が珍しかったのか、暮らしぶりが貧しかったのでかわいそうだと思われたのか、よくショッピングに誘われました。とても優しい方で、こどもたちに高級チョコレートを買ってくれたりしました。
許可なしに外出することは原則禁止されていたので、ご一緒できたのは2度ほどでしたが、北朝鮮に帰国する時にはお寿司屋さんで送別会も開いてくれました。2度目に英国勤務になったときにはすでに引っ越しされていて会えませんでした。今どうされているのでしょう」
■脱北してからの「沈黙」を破った理由
――これまで沈黙を保たれてきましたが、どのような思いから本を執筆しようと思われたのでしょうか。
「大学院(梨花女子大学院)で北朝鮮学を専攻しましたが、韓国の人たちは北朝鮮の人々の生活についてはよく知らないことを知りました。北朝鮮のことはよく分かっていますから、そんな現実を伝えることか私の役目ではないかと思うようになりました。ロンドン時代につけていた日記も引っ張り出してきて、3年前から書き始めましたが、忙しさについかまけて中断していたんです。
ところが、夫が国会議員になった後、夫に向けた『裏切り者』『スパイ』といった悪意のある書き込みや中傷を目にすることが増えました。それを見て、わたしたちがどれだけ苦しんで韓国に来たのか知らないから誤解されていると思いまして、これまでどう生きてきたかをまず伝えようと執筆を再開しました。
実は、ロンドンでもパンやピザを焼くことが好きだったので、韓国では、自分でパンを焼いてベーカリーを経営したり、カフェもやってみたいという夢を持っていました。
ソウルではバリスタの学校にも通って、ベーカリーのアルバイトにも応募しましたが、断られました。私にはできないのかと自信を失って萎縮もしました。夫も子供も韓国で懸命に道を切り拓いているのに、私だけ取り残されたような気持ちになって。でも、ようやく私の道を見つけました。私にできる、やりたい道を探すのが本当に大変でした」
■自分ひとりで、出版社を立ち上げた
著書を出版した「ザ・ミラクル」は、呉さんが自分自身で立ち上げた、ひとり出版社だ。韓国ではひとり出版社は珍しくないが、ほとんどが出版業界経験者による会社なので、初めて本を書いた 呉さんが創業した会社と聞いて、正直とても驚いた。しかし、同時に呉さんらしいという思いもよぎった。
呉さんに会ったのは5年前、太議員のインタビューが縁だった。お昼を一緒にしたときに警護員の姿が見えないので尋ねると、「時間に間に合わないと思って、告げないで走ってきたから、追いつけなかったかも。どこかにいますよ」と笑っていて、タフな人だなあと思ったが、その頃から、いつも自分ができることを探している印象があった。
呉さんの北朝鮮の家族の行方については、今も分からないという。本の最後の章は、北朝鮮にいる家族へ向けたメッセージが綴られている。
(菅野 朋子)
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