21世紀の世界を予見した国際的フィクサー、田中清玄。なぜ、彼はソ連崩壊とプーチンの登場を見抜けたのか
2023年02月04日 12時00分文春オンライン

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■アラブの王族から山口組組長まで張り巡らされた人脈。田中清玄とは何者か
かつて昭和の時代、田中清玄という国際的フィクサーがいた。
戦前、非合法の日本共産党の中央委員長となり、武装闘争を指揮、治安維持法違反で逮捕された。11年を獄中で過ごすが、その間、息子を改悛させようと母親が自殺、これを機に共産主義を捨てる。
終戦直後、密かに昭和天皇に単独拝謁し、命を懸けて皇室を守ることを誓った。皇居に押しかけた共産党のデモに、ヤクザや復員兵を送って殴り倒させた。
その後は中東に乗り込み、アラブの王族や欧米の石油メジャーを相手に、石油獲得交渉を行う。資源の乏しい日本にいくつも油田権益をもたらし、巨額の手数料を手にした。山口組3代目の田岡一雄組長の親友で、対立するヤクザに狙撃され、危うく一命をとりとめた。
こうした揺れ幅の大きさから、生前は毀誉褒貶も激しかった。ある者は「愛国者」「英雄」と呼び、ある者は「利権屋」「裏切り者」と罵る。
これまで筆者は、現代史の真相を調べる中で、多くの米英政府の機密解除文書を読んできた。そこでしばしば、Seigen Tanakaという名前を目にした。これらの記録や関係者の証言を基に書いたのが、「 田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児 」(文藝春秋)だ。
そして、彼を単なる右翼の黒幕とするのは間違いであること、その波乱万丈の生涯が、じつは今の世界、21世紀を生きる指針にもなるのに気づいたのだった。
過去、わが国ではフィクサー、黒幕とされる者が何人かいた。そこで田中を異色たらしめたのが、その絢爛たる海外人脈である。
■なぜ田中は名門ハプスブルク家当主と親しく付き合えたのか
石油権益で連携したアラブ首長国連邦の初代大統領ザーイドを初め、中国の鄧小平副首相、インドネシアのスハルト大統領らと個人的関係を築いた。そして30年以上に亘って親交を結んだのが、神聖ローマ皇帝の流れを汲む欧州きっての名門ハプスブルク家、その当主のオットー・フォン・ハプスブルク大公だった。
13世紀、ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に就いて以来、1918年に崩壊するまで、ハプスブルク家は多様な民族を束ねる王朝として君臨した。その領地はオーストリアからハンガリー、ルーマニア、また旧ユーゴスラビア、ウクライナ西部に広がり、首都ウィーンは欧州の主要都市として栄えた。
その最後の皇太子オットーが生まれたのは1912年。帝国の崩壊で、幼くして両親と亡命を余儀なくされた。欧州各地を転々とし、第2次大戦では、亡命オーストリア人部隊を組織してヒトラーに抵抗した。
戦後は欧州議会の議員になり、ソ連に支配された東欧諸国を支援した。また汎ヨーロッパ運動を通じて欧州統合に尽力し、まさに20世紀の歴史を体現した人物だった。
田中とは、欧州で開かれた自由主義者の団体モンペルラン協会の会合で知り合い、家族ぐるみの付き合いを続ける。田中の長男の俊太郎も、欧州に行く際、父の書簡を届けたことがあったという。
「一度、大公に、どうしてうちの父と親しく付き合うようになったのか訊いてみたんです。そうしたら、『非常に珍しい人だと思った』と。『まず、共産主義を本当によく知っている。そして中国でも、ベトナムでも、インドネシアでも、田中さんが共産党の話をすると、ほとんどその通りになっていった。東洋の島国で、政治家でも外交官でもないのに、どうしてそんなことが分かるのか、非常に不思議だった』って言うんですね」
よく考えれば、これは不思議でも何でもない。
■入江侍従長に「これは大事なので、陛下のお耳に入れて欲しい」
かつて武装共産党を率いた田中は、ストライキや破壊工作を行い、共産党の手の内に通じていた。彼らが何を目指し、どういう戦術を取るか、手に取るように分かった。餅は餅屋というが、反共活動には元党員が適任なのだ。
一方のハプスブルク家は、ポーランドやハンガリー、ルーマニア、ウクライナに大勢のシンパを持ち、それは情報収集のアンテナとなった。ソ連指導部の動向、欧州の政治家の誰がモスクワの手先か、どんな政治工作が行われているか、確度の高いインテリジェンスが手に入る。
田中は、年に数回、西ドイツやスペインにある大公の自宅や別荘を訪れ、国際情勢で意見を交した。その一部は、帰国後、旧知の入江相政侍従長を通じ、「これは大事なので、陛下のお耳に入れてほしい」と昭和天皇に届けられた。
武装共産党の元委員長が、天皇家とハプスブルク家のパイプ役を担ったのだった。
1962年3月、オットー大公は、田中の招きで、レギーナ夫人を伴って初めて来日した。この時、「国際政治研究家」として天皇に拝謁したが、滞在中のあるエピソードを田中が明かしている。
■1960年代にはベルリンの壁崩壊、冷戦終結、ソ連の崩壊が見えていた
大公夫妻を囲んで、友人で後の新日本製鐵副社長の藤井丙午、文藝春秋社長になる池島信平らと会合を持ったという。
「その時、藤井丙午や池島信平らが大公に『汎ヨーロッパ運動というが、どこからどこまでをさすのか』と質問した。『ウラルから大西洋までだ』と大公が答えられると、『しかし、その間には共産圏が含まれていますが』との重ねての質問だ。それに対して大公はこう言われた。
『それらは一時的な現象にすぎない。いずれこれらは雲散霧消するだろう。欧州には求心力と遠心力の二つの力が働いている。ある時は求心力が強く、ある時は遠心力が強い。いまは求心力に移りつつある』
どうです。それから30年たって、共産圏は本当に雲散霧消したではありませんか。この息の長さと、透徹した泂察力を日本人は持てますか」(「田中清玄自伝」)
当時は東西冷戦の真っ只中、いずれソ連はなくなると言っても一笑に付されただろう。だが、その後、「ベルリンの壁」崩壊、冷戦終結、ソ連解体と大公が予見した通りになったのは、歴史が示す。
これについて、俊太郎も、あるエピソードを覚えていた。父の書簡を携え、西ドイツのオットー大公の自宅を訪ねた時だ。れっきとした貴族の家系なのに、近所のレストランで誕生会をやるなど庶民的な暮らしぶりだったという。
「大公本人は、非常に気さくな方で、子供たちも、何か特別な教育をしているわけでもないんです。ただ、私が国際情勢を質問した時に、『とにかく、毎日、世界地図を見なさい』と。『今は異なる国でも、少し遡ると、歴史的に同じ国に属していた。同じ領土だったのに、紛争があり、無理やり分かれているところもある。そういうのが、見えてくる』と」
第2次大戦後、ソ連の支配下に取り込まれた東欧では、しばしば離脱の動きも起きた。1956年のハンガリー動乱、68年のチェコスロバキアの「プラハの春」で、いずれもソ連軍の戦車によって弾圧された。
■プーチンを警戒し始めたオットー大公と田中
この永遠に続くかもしれない欧州の分断、その間もハプスブルク家の末裔は、かつての欧州の地図を見つめ、過去から未来に思いを馳せていた。
長年の交遊を通じて、田中も、そうした思考を体得したようだ。国際情勢の大きな変化でいくつも予言を行い、適中させている。その一つが、1980年の「1990年、ソ連は破滅する」という談話だ。
その前年、ソ連はアフガニスタンに軍事侵攻し、親ソ派の傀儡政権を樹立、国際的な非難を浴びた。その結果、アフガニスタンを含め、全世界のイスラム教徒を敵に回すだろうという。
「そして、1990年にはソ連もまた、東欧諸国の解放運動の激化と、中近東諸国と国境を接する6つの自治共和国の民族的なイスラム独立運動の展開に直面して、破滅の道を歩むことになろう」(「週刊文春」1980年1月17日号)
東欧や中央アジアで民主化、自治拡大の要求が高まり、ついにソ連が崩壊したのは1991年だった。
そして、その直後からオットー大公と田中は、揃ってロシアのある人物の危険性を警告し始める。その残虐で冷酷な性格は、一旦権力を握ればとてつもない害を生むかもしれない。以来、その人となりや言動を追い始めた。
冷戦末期、東ドイツのドレスデン駐在のKGB(ソ連国家保安委員会)将校で、後に連邦保安庁長官となり、2000年にロシア大統領に就く、ウラジーミル・プーチンである。
「ヒトラーと明らかに重なっている」…30年前、田中清玄とハプスブルク家当主が危惧していたプーチンの“帝政ロシアへの強い郷愁” へ続く
(徳本 栄一郎)
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