「先生が生きててよかったって」…熊本豪雨災害で被災した夫婦が音楽の力を実感した“美しい調べ”

「先生が生きててよかったって」…熊本豪雨災害で被災した夫婦が音楽の力を実感した“美しい調べ”

2020年7月、豪雨により汚泥や木材が高野寺に一気になだれ込んだ

「自分の体の一部がもぎ取られるような心境だった」…ピアノ教室を開いていた熊本の夫婦が豪雨災害ですべてを失った日 から続く

 山野楽器の音楽教室で役目を終えた100台のピアノを全国に贈る『100台のピアノ物語』プロジェクト。ピアノを受け取った11名を取材し、短編小説のように綴ったノンフィクション『 ピアノストーリーズ 』(ぴあ)より1話を抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■「命があればあとはどうにかなる」

 雨は球磨川を氾濫させ、建物や橋を破壊した。

 山津波と形容される大水が高野寺に押しよせてきたとき、なにを差しおいても優先したのは命を守ることだった。

 1965年にも球磨川周辺では大水害が起き、甚大な被害がもたらされたため、その後は堤防をかさ上げし、堤防を引いて川幅を広くするなどの治水対策が取られてきた。だから大丈夫だという油断が、もしかしたらあったのかもしれない。

 寺の近くには逃げるのが遅れ、犠牲になった人たちが何人かいる。親しくしていた夫妻も亡くなってしまった。

 けれども、戒孝と眞理子がふたりの子どもたちとともにまず逃げることを優先できたのは、他の災害現場での経験があったからだ。

 僧侶の本分は人びとに寄り添うこと。その考えから戒孝は全国の被災地を回るようになり、2017年の九州豪雨の際には福岡、2018年の西日本豪雨では広島に出向くなどして、ボランティア活動をつづけてきた。大きなきっかけになったのは2016年の熊本地震で、このときは被災した妻の実家に家族全員で駆けつけた。

「命があれば、あとはどうにかなる。被災地に行って学んだことです」

 戒孝と眞理子は互いにうなずきあう。

 その結果、幸いにして家族には怪我人がなかった。

■2日目から支援物資が届き始めた

 発災から2日目には、交流のあるボランティア団体などから支援物資が届きはじめた。その食料や衣類や衛生品などを、戒孝は軽トラックに積み、球磨川のさらに下流域の、支援がまだ届かない球磨村などに運んだ。人吉市と球磨村のあいだを、多いときは1日に3往復した。自分たちもきついけど、それ以上にきつい人たちがいる。とにかくその一心だった。

 被災したことをどこからか知り、すぐに高野寺に駆けつけてきたのが、眞理子が熊本市でピアノ教室を開いていたころの生徒たちだ。

 教えていたのはだいぶ前のことだったので、彼女たちは見違えるように成長し、なかには母親になったという者もいた。

「その子たちが汚泥のなかを歩いて、泣きながら会いに来てくれたんです。先生が生きててよかったって」

 眞理子の安否を憂慮していた生徒たちは、その無事を確認し、涙を流して喜んだ。

 そして彼女にあらためて感謝の意を述べた。努力すればその分だけ力になることを、自分たちはピアノ教室で学んだのだと。

 それらの言葉にどれだけ励まされたかわからないと、眞理子はいまも涙ぐむ。まぶたの裏に浮かぶのは、地方予選から本選、全国大会へとコンクールに向けて懸命にがんばる生徒たちの姿だ。生徒たちががんばるから自分もがんばることができた。彼女は思う。

 福岡からは、戒孝のサラリーマン時代の同僚たちがやってきた。それに加えて学生時代の先輩や後輩たち、博多祇園山笠などで交流した祭り仲間たちもやってきて、猛暑のなか泥かき作業を手伝った。

 すべてを失ったと思ったが、決してそうではない。いまわかった。支えてくれる人たちがこんなにもたくさんいたのだ。

■そして“ある声”が日に日に大きくなっていった

 災害から少しすると、被災した生徒たちからピアノ教室の再開を求める声を聞くようになった。

 そしてその声は日ましに大きくなっていった。

「7月4日に被災して、子どもたちがピアノを弾きたいと言いだしたのは2ヵ月後からなんです。立てつづけに言ってきましたね、ピアノを弾きたいって。本当に不思議でした」戒孝が回想する。

 だが正直なところ、まだ再開できる状況ではなかった。

 境内の建物はいずれも全壊した。2階の天井まで泥水に浸かった庫裏や、植え込みの桜が倒れてきて、屋舎がゆがんだ集会所は、いまだ解体作業に入ることすらできていない。

 被災した直後の集会所をのぞくと、水浸しになった楽譜が天井に張りついていた。ピアノもそうだが、譜面など音楽に関連する図書もすべて失われた。

 心の余裕がなかったとしても仕方ない。心に空いた穴はそれだけ大きかったのだ。

 けれども、こう思った。被災したのは自分たちだけではない。子どもたちが音楽を求めるなら、その気持ちをできるだけ尊重しよう。

 そこで境内に簡易のプレハブ小屋を設置し、グランドピアノはレンタルで間にあわせ、教室の再開に踏みきった。それが9月のことだ。

 そして眞理子はほうぼうから楽譜をかき集め、被災して楽譜をなくした生徒たちや、同じように困っている他のピアノ教室に配ってまわった。戒孝は音楽に対する彼女の真摯な気持ちに、あらためて胸を打たれた。

 こうして生徒たちが再び彼女のもとに集まってきた。ピアノ教室には優しく、可憐な音色がまた響くようになった。

 いよいよ寺院の建物を再建する段になり、戒孝がまっさきに手をつけたのは本堂である。彼が考えるに、それは家族の住居となる庫裏よりも先に建てなおさなければならなかった。「お堂は地域の拠りどころだからです」

 再建を目指す彼のもとに、ある日、多額の支援金が送られてきた。見ると、先代住職と縁のある寺院からで、「先代の思いが込められた本堂をしっかり直しなさい」というメッセージが添えられていた。さまざまな人たちが寺の再興を後押しした。

■山野楽器からグランドピアノが届き、コンサートが開かれた

 ついに工事が始まった。業者が現場に入る。足場が組みあがる。養生シートが張られ、資材が運びこまれる。

 本堂は少しずつ新たな姿をあらわしていった。ひとたびは水没してしまったお堂の再建は、復興に向けて歩みだす被災地の光明でもあった。

 工事が完了したのは12月中旬。発災から半年にも満たないあいだのできごとだった。

 本堂の再建が終わると、高野寺は音楽を響かせる寺となった。

 年が明けた2月には、二度のグラミー賞受賞を誇るクラリネット界の巨匠リチャード・ストルツマンと、国際的に活躍するマリンバ奏者のミカ・ストルツマン夫妻が、新しい本堂でボランティアコンサートを開いた。これは熊本県出身のミカが、眞理子の音楽大学時代の恩師だったことから実現したものだ。

 そして2022年になり、3月に入ってすぐ、山野楽器からグランドピアノが届くのにともない、境内で復興イベントが開催された。各地の災害支援団体が協力したこのイベントでは、炊き出しや餅などが地域の人たちに提供され、ピアノを中心としたコンサートが行われた。

 ピアノは再建を終えた集会所に運びこまれた。集会所の前には幼児から高齢者まで多くの人たちが集まり、音楽をとおして復興支援を行うグループ「芸術の都 ACTくま100」らの演奏に耳を澄ませた。

 演奏が終わると、やってきたピアノを教室の生徒たちが囲み、次々と鍵盤に指を置いた。その表情に一気に笑みが広がった。

 ショパン国際ピアノコンクールに出場し、現在はポーランドを拠点に活動する人吉市出身のピアニスト有島京がコンサートを行なったのは8月の終わりのことだ。彼女は演奏を終えると、このピアノはあたたかいと感想を語った。

「ここに来る以前にもたくさんの人が弾いてきたピアノなので、その気を感じて、有島さんはおっしゃったんだと思います。他の方も言いますよ、あたたかいねって。やはり生きてますから、ピアノは」

 ピアノには時が刻まれている。そして弾くことにより、命が吹きこまれる。「弾いてあげると、生き生きするんです」と眞理子は言う。

■被災して初めて実感した音楽のちから

 人吉市の気候は寒暖差が大きく、湿気が多いので、馴染むのには時間がかかったが、ピアノは高野寺で新たな日々を生きはじめた。教室のかたわらには目を輝かして練習する生徒たちがいる。そして中一のころから弾きつづけてきたピアノは、運よく廃棄されなかった屋根の部分を生かして、テーブルとなりそこに置かれている。愛用のピアノはいまも一緒だ。

 彼女は音楽の力について考える。なぜピアノを習ってきたのか。なぜ音楽大学に進学したのか。これまでの自分をたどり直すうち、ふと思いあたった。

 大学を卒業したあと、老人ホームに毎年通い、友人と慰問演奏をしていた時期がある。その施設の入居者のなかに、普段は口数の少ない、いつも怒っているおばあさんがいた。

 ところが唱歌などの昔懐かしい曲を演奏すると、そのおばあさんは表情を変え、楽しそうな顔つきで歌った。施設の他の人たちも演奏を聴いているあいだ、ずっと幸せそうな様子だった。

 それから年月を経て、水害に遭い、当時とは反対の立場になった。現在では自分たちのもとを、多くの人たちが演奏のために訪れる。その演奏を聴くときの気持ちは、あのときのおばあさんと同じなのかもしれない。彼女は実感する。音楽は心の奥に伝わり、人を癒すのだと。

 コロナ禍のピアノ教室では、大勢の生徒たちが一堂に集まる発表会を開くことが難しかった。だからその家族だけが教室に来て、生徒の演奏を聴く時間を設けたところ、とくに生徒のおじいちゃんやおばあちゃんたちが感極まる様子を見せた。

「孫がこんなに弾けるのかという驚きもあるでしょうし、こんなに成長したのかという喜びもあるでしょう。みなさん涙を流しながら聴かれます。そしてニコニコして出ていかれます。それを見るのが私たちも楽しみです」

 被災するまでは、音楽の力をあまり感じとれなかった。けれどもいまは、人びとを心から元気にする音楽がかけがえのないものだと、戒孝にはわかる。

 こんなときだからこそ、音楽は必要なのだ。

 あれから2年を経ても庫裏の再建は進まない。いまなお仮設住宅での暮らしはつづく。寺までは約10キロの距離を車で通わなければならない。

■「実は東京から日帰り圏内です。球磨川は穴場かもしれません」

 けれども支えてくれる人たちがいるから、乗り越えることができる。支えてくれる音楽があったから、潜りぬけることができた。

 季節は大地を巡っていく。

 水没した境内の梅は被災後もいつもどおり芽吹き、花開いた。少し遅れて、桜も。 

 そして紫陽花や向日葵が庭先に咲き、目をやれば、門前の蓮池には紅白の花が浮かぶ。

 九州山地の深い山々に囲まれた、人吉球磨と呼ばれるこの一帯には焼酎所が多い。盆地に特有の寒暖差の激しい気候は、この地を豊かな米どころとし、米を主原料とした球磨焼酎を生みだした。

「私は下戸なんです。でも球磨焼酎は不思議と酔いません。それからいい温泉が多いですね、人吉球磨には。おいしいうなぎ屋さんもあります。とても有名で、東京から日帰りで来る方がいるくらいです。鹿児島空港からのアクセスがよく、50分ほどで来られるので、十分に日帰り圏内ですから。実は穴場だと思いますよ」

 戒孝と眞理子は人吉球磨の魅力を次々と挙げる。

 鮎釣りが解禁されるのは毎年6月からだ。この地域では体長が一尺(約30センチ)を超える尺鮎がときおり取れるため、シーズンになると全国の釣り好きがそれを目当てに訪ねてくる。またゴムボートに乗り急流を下るラフティングはこのあたりの観光の目玉だ。

 それらはすべて球磨川の恩恵を受けて振興した。「だから被災後も球磨川を悪く言う人はだれもいません」と戒孝は語る。

「もともと球磨川は暴れ川というんです。それは戒めでもあるんでしょう、人間は自然の怖さを忘れたらいけないって。そのうえでどれだけ自然と寄り添えるのか、私たちは問われているんだと思います。球磨川は恵みを運んでくださる川です。水がいいから米がいい、温泉もいい。おいしいものもある。とても大切な川ですね。人吉球磨は球磨川があってこそなんです。だから私も球磨川を悪いとは思いません。なんなんでしょうね、あんなに暴れた川なのに」

■与謝野晶子ら文人たちに愛された土地で奏でられる音色

 球磨川は古くからここを訪れた多くの文人たちを魅了した。そのひとりである歌人の与謝野晶子は、昭和初期に夫の鉄幹と人吉市を訪ね、川下りを楽しみ、歌を詠んだ。

 大ぞらの山の際より初まると同じ幅ある球磨の川かな

 見あげる空と同じ広大さで、晶子の目の前を悠然と流れた球磨川は、あの日いきなり猛威を振るった。「それでも」と戒孝は思う。

「やはりここが自分たちの居場所なんですよね。これからもずっとここに生きていく覚悟です、もちろん」

 球磨川がもっとも絵になるのは夕暮れどきだという。

 夕陽が川面に深く差し、隅々まで陰影を濃くするこの時間の風景は、光の絵筆をふるったような美しさを一面にたたえる。

 日暮れが近づくと、ヘルメットを被った、制服姿や体操着姿の子どもたちが、自転車で大橋を渡り家路へ急ぐ。

「じゃあね」「また明日」

 人吉球磨の人たちの生活はこの川とともにある。それは明日も変わらない。

 川波に光をはねながら、球磨川は静かに流れている。

 高野寺からはピアノの弾む音色が聴こえてくる。

(門間 雄介/Webオリジナル(外部転載))

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