「クジラを獲り尽くした戦後とは違う」商業捕鯨船上で乗組員が打ち明けた真実《33年ぶり再開》

「クジラを獲り尽くした戦後とは違う」商業捕鯨船上で乗組員が打ち明けた真実《33年ぶり再開》

16メートル、最大級のイワシクジラ(筆者撮影)

ノンフィクションライターの山川徹氏による 「クジラを獲る男たち」 を一部転載します。(月刊「文藝春秋」2023年4月号より)

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■2カ月におよぶ乗船取材で見た“現場”

 群青の海面に、エメラルドグリーンに発光する影が浮かび上がった。影は、うねりが残る海原を悠々と滑るように進んでいく。1頭のニタリクジラを、第三勇新丸が追走していた。ニタリクジラは、12メートルから13メートルほどに成長する大型のクジラである。

 クジラを獲る。その目的をともにする17人の乗組員の緊張と興奮をともなう一体感が船内にいるだけで伝わってきた。第三勇新丸は、クジラを探し、追い、仕留めるためのキャッチャーボートである。シャープな船体のやや前方に設置されたブリッジから、高いマストが突き出る。乗組員たちは、空が白みはじめるやいなや、高さ18メートルのトップマストに上り、クジラを探し求める。第三勇新丸をキャッチャーボートたらしめるのが、船首に設置された捕鯨砲だ。口径75ミリの大砲から重さ45キロの銛(もり)を撃ち込んで、クジラを捕獲するのである。

 エメラルドグリーンの影を乗組員は“イロ”と呼ぶ。“イロ”が船首の左前方に見えた。波の音もエンジン音も気にならない。唯一、耳に届くのはトップマストでクジラを見張るボースン(甲板長)の声だけだ。

「スコスロー!(少しゆっくり)」

「ポール、30!(左30度)」

 “イロ”までの距離が縮まった。100メートル、いや数十メートルほどか。近い。私にとって14年ぶりとなる、その瞬間を見逃さぬように身を乗り出して目をこらした。

■調査捕鯨と何が違うのか

 私が仙台港に停泊中の捕鯨船団に乗り込んだのは、2022年9月中旬のことである。第三勇新丸と、世界で唯一の捕鯨母船である日新丸からなる船団は、6月から11月まで操業を行う。最後の2カ月におよぶ航海に同行するためである。11月中旬に下関に帰港するまで陸には戻れない。見送りにきた十数人の関係者にデッキから大きく手を振った。ふと既視感を覚え、苦笑いした。

 2007年と2008年の夏に、北西太平洋で実施された調査捕鯨に同行取材した経験がある。2年でトータル145日も第三勇新丸や日新丸などの捕鯨船団で過ごした。前回も前々回も、高揚感とともに出港したものの、しばらくするとホームシックに苛まれ、陸での日常に焦がれた苦い記憶がよみがえったのである。

 三たび捕鯨の現場に立ちたいと考えたきっかけが、その3年前の2019年夏。日本は、32年も続けた調査捕鯨を打ち切り、200海里内での商業捕鯨再開に踏み切った。

 私が日新丸から第三勇新丸に移乗したのは10月8日のことである。第三勇新丸の船長である大越親正は、日焼けした童顔をほころばせて目尻に皺をつくって迎えてくれた。

 調査と商業とはなにが違うのか。

 その疑問に捕鯨者らしい見解を示してくれたのが、大越である。

「2019年に調査捕鯨から商業捕鯨に変わりましたが、捕鯨の本質は変わりません。調査であろうが、商業であろうが、捕鯨は漁業です。資源量を把握し、可能な数のクジラを獲る。その点では、絶滅が危ぶまれるほどクジラを獲り尽くした戦後の商業捕鯨とはまったく違います」

 1969年生まれの大越は下関の水産大学校卒業後の1993年に第三勇新丸を運行する共同船舶に入社した。捕鯨をめぐる怒濤に翻弄されつつも、30年近くもクジラを追ってきた矜恃が、端々に垣間見える。

「入社当初から日本の捕鯨に対して国際世論は厳しかったし、グリーンピースやシーシェパードの妨害を受けてきました。でもだからこそ、私は、捕鯨の現場に最後まで立っていたかった。クジラを獲るという仕事が私に合っていたんだと思います」

 戦後の商業捕鯨から、平成の調査捕鯨を経て、令和の商業捕鯨へ。大越たち“捕鯨者”にとっては自明の歴史ではあるのだが、日本の捕鯨が残した航跡は複雑で理解しにくい。

 振り返れば、戦後の食料難時代、クジラ肉はタンパク源として日本の食卓を支えた。1960年代になると世界各国がクジラを獲りすぎた反動で、捕鯨への批判が強まる。絶滅の危機に瀕したクジラを守ろうという主張が国際的なスタンダードになる。ただ一口にクジラと言っても、八十数種類もいる。絶滅の危機にあるクジラもいれば、増加した種もいる。日本は、数が増えたクジラを対象にして捕鯨継続を訴えた。

 だが、日本の意見は一顧だにされず、南極海での商業捕鯨は停止に追い込まれる。捕鯨をあきらめない日本は、1987年から南極海での調査捕鯨をはじめた。クジラの種類ごとの生息数や生態、食性、生態系の仕組みを解明し、生息数を減らさないように利用する新たな捕鯨のスタイルを確立しようとしたのだ。しかし理解はえられない。2000年代になると調査船団に対する妨害活動が行われるまでに抗議は激化する。

 状況が一変したのは、2018年12月のことだった。日本は、調査結果を認めないIWC(国際捕鯨委員会)を脱退する決断をする。しかし代償は大きかった。IWCに認められた調査でない限り、南極海での捕鯨はできない。日本はIWC脱退と引き換えに、30年以上も続けてきた調査捕鯨を手放して、日本近海での商業捕鯨再開を選択する。大越は、その決断に驚きを隠せなかった。

「もちろん商業捕鯨再開を目指して我々は調査を続けてきました。ただ正直に言えば、生かさず殺さずというか、のらりくらりというか。このまま調査を続けて行くのではないかと。細々とでも現状を維持していくのではないかと考えていたんです」

■“おいしさ”で鯨を選別する

 午前6時、第三勇新丸は大越の軽やかな声を合図に動き出す。

「今日もよろしくお願いします」

 第三勇新丸が探して獲ったクジラを日新丸に運び、調査に必要な部位を採取し、食肉に加工する。捕鯨の手順は、調査時代から変わらない。だが、意識は変化したと大越は言う。

「いま重視されるのは、消費者の方々に喜んでいただけるおいしいクジラをいかに獲るか。肉質や生産量を上げるために、より大きく成熟したクジラを探すようになりました」

 調査捕鯨時代は、計画に従って定められたコースに沿って船を走らせた。調査の公平性を担保するために、発見したクジラは大きさにかかわらず捕獲した。また調査捕鯨を主導したのは、水産庁の委託を受けた日本鯨類研究所である。第三勇新丸や日新丸を運行する共同船舶には、日本鯨類研究所から、人件費などの用船料が支払われる仕組みだった。

 しかし商業捕鯨になってから、共同船舶は、クジラ肉の売り上げなどで企業として自立する必要に迫られた。調査時代に“副産物”としてあつかわれたクジラ肉が、事業の柱となったのである。いまは天候や水温、過去のデータなどから捕獲するクジラが数多く生息するであろうエリアを予測し、操業海域を決定する。そして発見したクジラのなかから、太って脂がのったクジラを選びに選んで捕獲する。もちろん商業だからといって、無制限にクジラを獲っていいわけがない。生息数などから割り出した捕獲枠が決められている。2022年の捕獲枠はニタリクジラ187頭、イワシクジラ25頭。

 決まった数で、いかに多くの利益をもたらすか。それは乗組員たちの技術や経験に左右される。だが、生産性を上げるにしても、まずはクジラを見つけなければならない。

 海原にクジラを探す。その作業は“探鯨”と呼ばれる。14年前、キャッチャーボートの甲板員は「オレたちがクジラを発見しなければ仕事がはじまらない。誰よりも早く、たくさんのクジラを見つけたい」と口を揃えた。夜が明けると彼らは、それぞれの持ち場につき“メガネ”と呼ばれる取っ手付きの双眼鏡で、船の付近から約12キロ先の水平線まで、360度広がる海原を見つめる。潮流がぶつかって泡立ったり、水色が変わったりする潮目や、海鳥が集まる鳥山があれば、周辺を重点的に探す。鳥や魚のエサとなるプランクトンや小魚をクジラも探している可能性が高いからだ。“イロ”以外にも、クジラの噴気である“ブロー”や尾びれをかいた瞬間に海面に浮かぶ円形の波紋である“リング”などクジラはいくつもの手がかりを残す。

ノンフィクションライターの山川徹氏による 「クジラを獲る男たち」 の全文は、月刊「文藝春秋」2023年4月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

 

(山川 徹/文藝春秋 2023年4月号)

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