又吉直樹はなぜ小説を書くのか、小説は世界を変えられるのか?

又吉直樹はなぜ小説を書くのか、小説は世界を変えられるのか?

又吉直樹さん ©文藝春秋

 毎日新聞夕刊で小説「人間」を連載しているピースの又吉直樹。『火花』で芥川賞を受賞し、2作目『劇場』で恋愛を描いた又吉は、小説で何を表現しようとしているのだろうか――。時代、表現、そして自分について語るロングインタビュー。(又吉直樹インタビュー #1 より続く)

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■僕が感じている「今の時代」

――表現者の中には、時代というものを意識して表現される方もいれば、時代とは関係なく表現される方がいると思います。そこに優劣はないと思いますが、又吉さんは前者だと思うんです。又吉さんは今、時代ということについてどんなことを感じてますか?

又吉 「時代を表現によって予見しよう」ということは考えてないし、「トレンドを乗りこなそう」って気持ちも全然ないんです。ただ、自分がここで生きている限り、自分自身のことを描こうとすれば、今の時代を描くことになってしまうと思います。そこで僕が感じているのは、いろんなものがグチャグチャになって、次にどういうふうになるかわからない時代だなということで。それは僕たちが関わっている仕事もそうですけど、会社に終身雇用される暮らしというのも破綻してきてますよね。4年制の大学を卒業して、一流企業の会社に就職して、結婚して車とマイホームを買って、ローンを払いながら定年を迎えて、あとは年金で暮らしていく。誰かがデザインした「日本人の幸福」みたいなものがかつては存在していて、ドラマでも映画でもそういう幸せが描かれてきたけど、それはもう破綻しつつある。

 芸人というのも、僕が子供の頃に見ていたお笑い芸人の仕事とは内容がだいぶ変わってきてますよね。同世代の中で頭角をあらわしてきたやつがトップを獲り、冠番組やコント番組をやって、いわゆる「売れた」という状態になる。そういうイメージでしたけど、誰かが突出して天下を獲るとかではなくて、皆がメシを食えていて。昔はテレビに出ている芸人さんなんてそんなにたくさんいなかったですけど、今は「何組おんの?」という状態で、そうなると今までと同じやりかたを続けてても無理ですよね。それは僕たちの世界に限らず、今は不確かな時代だから、自分で考えていくしかないですよね。

――そんな時代を生きているんだという感覚と、表現をすることは、又吉さんの中でどんなふうに繋がってますか?

又吉 優れた小説というのは、個人のことを描いていても、なんとなく社会全体のことが見えてくると思うんです。それか、大きいことを論じているように見えるけど、そこに暮らす人たちの生活が見えてくる。でかい視点だけで書かれたものは、「最近の若者は」と語るのと同じような曖昧さがあって、信憑性がないですよね。反対に、個人の気持ちだけが綴られていても、そんなふうに感じることになった社会的な背景がいまいち見えてこなくて、それもまた嘘くささが残る。そう考えると、良いものには両方の視点が含まれてると思うんですよね。どんな暮らしも時代の中に存在することやし、どんな過酷な状況下でも生きてきた人間がいる。そうやって言葉にすると、「あるものがある」というだけのことかもしれないけど、そこで嘘を書くと、そこにあるはずのものがなかったことになるんだと思います。 

「火花」も「劇場」も2010年で物語が終わっている理由

――又吉さんが執筆された長編小説「火花」と「劇場」は、どちらも2010年で物語が終わっています。これは意図的にそうされたんですか?

又吉 そうですね。すごく迷ったんですけど、どっちも2010年で物語を終わらせたんです。理由はいくつかあって、一番大きな理由は「震災をまたがない」ということですね。あの二つの小説を書くときは、個人が各々抱えているものにスポットを当てたかったんです。僕自身、ずっといろんなことを考えてきたけど、震災があったときに「そんなことどうでもええわ」と思ってもうた瞬間があって。でも、それまで抱えていたものが震災で消えたわけじゃなくて、種火のように残り続けて、そこからまた段々盛り上がってきた部分はあるんですけど、とにかく震災のときはそう思ってしまったんですよね。でも、小説を書くときに、震災前に自分が抱えていたものの痛みをなかったことにしたくないなと思ったんです。それを描こうとすると、震災をまたげないなと。震災のことをどう言葉にしてええかわからんし、そこには複雑な問題があるし、当然ながら言葉も選ぶし、文学であってもそれを書いていいのか――いや、文学だからこそ書くべきだとか、そういう迷いもありますよね。震災があったとき、「こんなときだからこそお笑いをやるべきだ」って考えもありえたと思うんです。だけど、少なくとも僕自身としては、「今このタイミングでお笑いをやるとしたら、それはお客さんに対してではなく、自分に対してじゃないか?」と思ってしまったんです。「それは、『こんなときでもお笑いをやるんだ』というスタンスをとることで、お前が楽になりたいだけなんじゃないか?」と。

――「こんなときでも、己のスタイルを貫く自分でありたいだけじゃないか?」と。

又吉 そうやって己のスタイルを貫いたところで、世界に何も関係もないんですよね。自分に対して厳しい見方をすると、今までもそれをやってきたんじゃないかと思ってしまう。「どんなときでもふざける」と思って生きてきたから、そのスタイルを貫くことはできるかもしれないけど、それをやるべきではないなと。あの1年は、もう何も考えられなくなったんです。誰もが「何で自分が死なへんかったんやろ」と思ったやろうし、誰もが生きている理由を考え直したやろうと思うんです。でも、そこに答えなんか見つからへんし、生きている価値を保証してくれる気づきもなくて、ほっぽり出されてただ生きているような感覚が強くて。その感覚を「火花」や「劇場」に混ぜるというのは、試みとしては面白かったかもしれないけど、そこで書き尽くすことはできないし、そこで書いて終わりにしたくないという気持ちがあって。だから一作目と二作目では震災をまたげなかったんです。

■「人間失格」を読み返して感じたこと

――又吉さんが敬愛する作家に、太宰治がいます。「火花」と「劇場」を書いたあと、太宰の「人間失格」を読み返したそうですね。

又吉 そうですね。自分が長編小説を書いたあとで「人間失格」を読み返したときに、「そういえばこの小説で戦争ってどういう時間軸にあるんかな」と思ったんです。読み返してみると、主人公である葉蔵の手記には戦争は出てこなくて、最後のあとがきに「空襲で焼け出されたお互いの経験を問われもせぬのに、いかにも自慢らしく語り合い」という一節があるだけなんです。「人間失格」は葉蔵の苦悩と憂鬱が延々と書かれていて、そこに共感はするんですけど、戦争と対比したときに多くの人は「コイツ、何言うてんねん」と感じると思うんです。でも、僕からすると「コイツ、何言うてんねん」ではないんですよ。何か大きな出来事があったとき、それを無視することはできないとは思うんですけど、そこで個人の抱えている何かがなかったことになるのを太宰は避けたかったのかなという気がして。

「いかにも自慢らしく」という書き方は、戦争そのものを揶揄するというより、それを乗り切った人たちの中にあるものを感覚的に捉えていたのかなと。戦争ってそもそもおかしな状態ですけど、そこに突入していく大義名分みたいなものがあって、それと同じように戦争が終わることにも理屈がつけられるじゃないですか。僕は戦争を体験したことがないけど、戦争に負けたときに残るわだかまりみたいなものが、自分のほうに向かってくるんじゃないかと思うんです。それが「いかにも自慢らしく」という言葉に繋がっている気がするし、他の短編を読んでいても、「戦争って何やったん?」という違和感が描かれている。その違和感は太宰自身が感じていたものだと思うし、それを劇的なものとして書きたくなかったんだなと思います。

■「やっぱりスタイルじゃ駄目なんですよ」

――社会と個人を対比すると、個人の抱えている違和感というのはちっぽけなものだとされてしまいがちですよね。だからこそ、それをどう表現されるかが問われると思うんですけど、その「どう表現するか」ということについて、又吉さんはどんなふうに考えていますか?

又吉 人間の生活って、国によって違うし、時代によっても違いますよね。もしかしたら今の日本に身分制度が残っていた可能性もあるけど、現状はそうではなくて。じゃあ身分制度があった時代に比べてマシになったかというと、今の時代にも貧困はあるし、格差もあるし、全然うまく行ってないなと思うんです。世界を見ても、このシステムは全然うまく行ってなくて、「全員がヘタ打ってるやん」と。こんだけ賢い人が一杯おるのに、うまいこと行かへんもんなんやなと。

 じゃあどうするかと考えたときに、選挙権を与えられている大人やから、選挙に行って自分の意思表明はしますけど、僕は政治家ではないわけですよね。世の中で起こっている出来事すべてに対して、自分なりの立場や感情はあるし、僕がものを作るときには感情がすごく重要なので、自分の身のまわりの出来事やニュースで見た出来事に動かされることは多々あって。僕は社会に対する特定のメッセージを伝えるために表現しているわけではないんですけど、僕の身体の中から出てきた表現なんで、僕が普段感じていることの影響を完全に消すことのほうが難しいんですよね。だから僕が社会で起こっていることに対して抱いている感情が含まれているのは間違いないんですけど、そこにはいろんなタイプがあっていいと思うんですよ。シンプルに「戦争は駄目だ」と言う人がおってもいいとは思うんですけど、でも、それって大きく何かを変える可能性は低いよなと思うんです。少なくとも「僕がそれを言ったところで」って気持ちがあるんですよ。僕が社会に対して何かしらの主張をするにしても、やっぱりスタイルじゃ駄目なんですよ。僕がスタイルを貫くかどうかなんてどうでもよくて、僕が欲しいのは結果なんですよね。

■「ピース」という言葉の意味

――以前、又吉さんはジョン・レノンに扮したコントをされていたこともありますけど、ジョン・レノンというアイコン的存在がこれ以上ないシンプルなメッセージで戦争反対を訴えても、世界から戦争をなくすことができなかったわけですよね。そう考えると、じゃあどうやって表現で世界を変えるのか、すごく難しい時代になっている気もします。

又吉 言葉というのは、たとえ慣用句であったとしても、時代や受け取る側の状況によって、響きが変わると思うんですよね。僕らは「ピース」ってコンビ名でやってますけど、僕らがコンビを組んだ頃に「ピース」って言葉から連想するものと、2019年に「ピース」と聞いて連想するものも違っているはずだと思うんです。ピースというコンビ名は、「平和」(peace)とも「欠片」(piece)とも言ってなくて、あくまでカタカナ表記の「ピース」なんですけど、「ピース」という言葉から連想されるものって、やっぱり戦争やと思うんです。平和というのは、戦争と戦争のあいだにある状態を指す言葉じゃないですか。それは戦争があることを前提とした言葉で、その世界における「ピース」って、めちゃくちゃ幻想的な言葉やと思うんです。そのコンビ名をつけたとき、自分でも屈折してるなと思ったんですけど、僕は「ピース」って言葉が好きじゃなかったんですよ。それは平和が嫌いだということではなくて、「ピース」という言葉の鈍くささや曖昧さが嫌だったんです。でも、言葉というのは、同じ言葉でも鑑賞する側次第で響きが変わってしまう。僕がこの時代に「戦争反対」と言ったとしても、誰かにとっては何も言ってないに等しいことかもしれなくて、じゃあどうするのかってことですよね。それは小説を書くことと似てるなと思います。

――似てるというと?

又吉 これは「火花」で書きましたけど、居酒屋のトイレに「諦めるな」みたいなメッセージが貼ってあるじゃないですか。ああいう貼り紙を見ると、余計に諦めたくなるわけですよ。どこもかしこもそんな言葉で溢れていたら、「今の時代、諦めることが当然やから、こんな言葉が溢れてるんだ」と思ってしまう人たちがいた場合、その人たちが諦めずに済む表現は何かってことですよね。「諦めるな」みたいなことばかり言われて嫌気がさしている奴らの内面に変化を起こさせる言葉というのは、やっぱり誰かが書くべきやと思うんです。どの言葉をどう組み立ててどう配置すれば響くのかを考えるというのは、小説を書くことと似ているような気がします。

■「表現」をしていない親より、僕は幸せだろうか

――言葉をどう響かせるかと考えていくと、どういう言葉を選ぶかということももちろん重要ですけど、どこに届けるかも重要ですよね。たとえば「戦争反対」という言葉を届けるにしても、もうすでに戦争はよくないことだと思っている人に届けたところでただの確認にしかならないから、世界は変わらないわけですよね。

又吉 そうですね。それで言うと、一作目、二作目は出口を探して葛藤している誰かを書いて、僕自身もそんなことばかり考えてきたんですけど、そんなこと全然考えてない人もいるわけですよね。いろんなことを思い悩んで表現してきたけど、僕の価値が自分の両親より優れているなんて、ほんまに思えないんですよ。「小説を読んで感想を言え」と言われれば僕のほうがうまいこと言えると思うし、僕が勝てることだってあるけど、幸せという観点からすると、いろんな価値基準に晒されてない親が無敵に見える瞬間があって、僕が仕事で一喜一憂してるのがアホらしく思えるときがあるんです。それをどう捉えるか。それが今連載している「人間」の最終的なテーマやと思います。

 僕のほうが狂っているのはわかってるんですけど、僕からすると「なんであの人たちは気が狂わへんねやろ?」と思ってしまうんです。僕の両親は何かを表現するわけでもないから、「表現を残す」という価値基準からすると、何もできなかったようにも見えてしまう。もちろん実際にはきちんと勤め上げて、子供を育ててくれて、僕なんかより遥かに何かを成し遂げたとも言える。そう考えると、ここでもやっぱり揺らぐんですよ。

 うちの親父と話してると、亡くなってしまった人が身のまわりにたくさんいて。「あの人、最近どうしてるの?」と聞くと、「ああ、2年前に車に轢かれて死んだよ」と言われたことがあって。すごく淡々とした口調でそう言われたんですけど、僕より死との距離が近いというか、一番身近な人間であるはずなのに、一番遠く感じるんですよね。

■最近考えてるのは、なぜ人間は絵を描くのかってことで

――親世代を見ていると、不思議に思うことがありますね。田舎町を歩いていると、お年寄りが軒先に椅子を出してただ風景を眺めている姿を目にすることがあって、あれは一体どういう境地なんだろうと思うんです。数年前、北欧のテレビ局が燃えている暖炉を映しただけの番組を放送したら、かなりの高視聴率だったらしいんです。それを見るというのは、「何か面白い表現はないか」と思って見るということとはまったく別の時間ですよね。

又吉 奄美大島に行くと、夕暮れ時になると皆が椅子を出してきて、なんとなく夕日を眺めてるんです。それってすごく自然なことやと思うんですよ。最近考えてるのは、なぜ人間は絵を描くのかってことで。表現というものがこの世界にあるものを切り取る作業なのだとすれば、下手な絵を見るより自然を眺めていたほうがいいわけですよね。その暖炉の番組も、ようは「皆で暖炉を囲んで、ぼーっとしながら過ごす」という時間の総合得点が高いってことですよね。そうやって暖炉を眺めて過ごす時間に、「何か面白いものを作り出してやろう」という意識が介在したものが太刀打ちできていない。やっぱり、ほんまに優れた芸術でなければ、自然には勝てないと思うんです。自然をそのまま描くのであれば、「自然を見ていればいい」ということになってしまう。でも、「なんか、闘えてんなあ」と思える表現もあるじゃないですか。こんなことを言うと「お前の鑑賞方法は邪道だ」と言われるかもしれませんけど、美術館でいろんな人が描いた絵を見ると、自分の感覚に溜まっていたゴミが取れて、その絵を描いた作家たちのすごくクリアな視点に触れられる感じがするんです。「うまく描いてやろう」という作為に満ちた何かではなく――もちろんそういう作為だってあるのかもしれないですけど――「自分には世界がこう見えている」という視点を純粋にぶつけられたように感じるんですよ。だから自然に太刀打ちできるんだと思うんですけど、そんな絵画を見ていくと、普段の自分と全然違う自分になれる。そうやって美術館を出て、いつのまにか夜になっている空や街を見たときに、「こんな美しいものがあるか」と毎回思うんです。「この美しさに誰も勝ててへんぞ」と。でも、普段からその美しさを意識できているわけではなくて、その美しい風景を見せてくれたのは作家たちの目なんですよね。文学の面白さもそれに近くて、「感覚の確認と発見ができることだ」といつも言っているんです。今連載している「人間」も、いろんな価値観の中で生きている人間を出したいなと思ってるんですけど、そう考えると、自分で書いているのに「この小説、終わるんかな?」という気持ちになりますね。

写真=文藝春秋

INFORMATION

<本公演>
タイトル:「さよなら、絶景雑技団2019 本公演」
作・演出:又吉直樹
出演:又吉直樹、グランジ五明、しずる、ライス、サルゴリラ、囲碁将棋根建、ゆったり感中村、井下好井好井、パンサー向井、スパイク小川
日程:3/22(金)19:00開演
   3/23(土)19:00開演
   3/24(日)18:30開演
会場:日本橋・三越劇場

<派生ライブ>
タイトル:さよなら、絶景雑技団主宰「日本の表現者」
作・演出:又吉直樹
出演:又吉直樹、竹内健人、フルポン村上、サルゴリラ児玉、ライス関町
日程:3/23(土)15:00開演
   3/24(日)14:30開演
会場:日本橋・三越劇場

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(橋本 倫史/文學界)

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