「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」住民たちが連続殺人犯を匿っていた理由とは

「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」住民たちが連続殺人犯を匿っていた理由とは

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【「熊次郎出た!」猟奇的犯行が「鬼熊事件」として日本中の注目を集めるまで】から続く

 2人を殺害、4人に重傷を負わせて放火した岩淵熊次郎(35)は、いつしか新聞報道で「鬼熊」と呼ばれるようになった。事件発生から22日後の9月11日、立ち回り先で警察官に見つかった熊次郎は、大型の鎌で追いすがる巡査を殺害。鬼熊はそのまま姿をくらまし、報道合戦はさらに過熱する一方だった―――。

■「熊さんなら旦那にしたい」

「東京・柳橋の芸者から『熊さんなら旦那に持ちたい』という投書が届いた」と報じた新聞もあった。国内だけでなく、世界最古の日刊紙であるイギリスの「タイムズ」もニュースに取り上げたという。

 鬼熊の行動を表す「神出鬼没」が流行語になり、「鬼熊の足跡を追ふて」という記録映画が製作されて逮捕・死亡前日に公開されたほか、「悪夢」という題名の映画も地元での撮影を経て製作されたという記事も。街を流して歌っていた演歌師が「鬼熊狂恋の歌」を作って流行させた。

「ああ執念の呪わしや 恋には妻も子も捨てて やむ由もなき復讐の 名もおそろしや鬼熊と……」

■“特需”で「懐中電灯屋が大繁盛」

 事件はさまざまなところに影響を及ぼした。新聞の見出しで見ても、「此處へも彼處へも 『熊』が出た騒ぎ」、「大包囲網も功を奏さず」、「警官は極度の疲労」。そのうち「熊未逮捕の責任何れにあるか」などと、警察の責任を追及する論調が強まった。

 村内の養蚕が盛んな地区では、鬼熊が徘徊しているため、農家がエサの桑の葉を摘み取りに行けなくなった。それが8月31日、「関係地方民は仕事も手につかず」「秋蚕飼育大打撃」という記事に。

 逆に、取材陣の殺到で“特需”も発生。9月17日に「熊公事件で繁盛する旅館と自動車屋」の記事が載った。いまのメディアの動きにも重なるが、面白いのは「暗夜の捜査に従事するため懐中電灯屋が大繁盛」だったこと。

■中央政界の政党対立も影を落とした

 さらに興味深い話題も。久賀村と隣村の境にあり、前年の国勢調査で“発見”された戸数27戸の地区が、「殺人鬼・熊次郎を出した村の村民にはなりたくない」と、代表が隣村への編入を県に請願したという(9月21日の記事)。ほかにも、柔道5段の「猛者」らが山狩りに参加した話、僧侶が「鬼熊を自首させる」と名乗り出た話などもニュースに。

 事件には中央政界の政党対立も影を落とした。鬼熊の元雇い主である五木田は憲政会系の地元有力者。鬼熊も選挙などの時に働いた。そうしたことから「鬼熊事件と政争」という記事も登場。

「(鬼熊は)嘗て憲政会の為に運動したることありたりと云ふ訳にて政友会方面に於ては彼を捕縛するが為かくの如く時日を遷延する所以のものは県の警察部長始め当局者が彼等を保護するが為なりと称しつつあり」という見方を紹介した(9月17日、房総日日新聞)。

 五木田と対立関係にあったとされる政友会議員の護衛などのため、政友会院外団の大物が現地に駆け付けたともいう。静かな村は上を下への大騒ぎ。一部の新聞は、殉職した河野巡査への義援金募集のキャンペーンを繰り広げた。

■事件発生から42日目、事件は衝撃的な結末を迎える

 山狩りと検索が続く中で、鬼熊は9月18日、出沼の2軒の農家から米と鶏1羽を盗んだうえ、翌19日には別の農家に押し掛け、鶏飯を作らせて食べた。しかし、24日以降、消息は途絶えた。9月28日、警察はそれまでの捜査方針を変更。応援警察官の人員を減らし、狙われていた寅松や忠治らを遠隔地に移動させた。新聞は、忠治が住んでいた四角山という地名にちなんで「四角山退却の忠治 女房と思入れよろしく」の見出しを立てた。

 そして、事件発生から42日目の9月30日、事件は衝撃的な結末を迎える。消防組員が「午前4時ごろ、出沼の岩淵家の墓近くで鬼熊を発見した」と届け出た。警察官が駆け付けると、鬼熊は瀕死の状態で倒れており、兄清次郎の家に運ばれたが、正午前、死亡が確認された。頸部をカミソリで切っていたが、ナスの漬け物など、食べた物を吐き出しており、服毒死が疑われた。

■「『俺は熊だッ』と叫んで仁王の如く踏張つた」

 10月1日付夕刊(当時の夕刊は前日の日付だった)各紙は「熊公遂に捕まる」、「天下を騒がした熊 檜山で遂に就縛さる」などと報じたが、唯一、東京日日新聞(現・毎日新聞)は「深夜、うす月の下に 本社記者『熊』と語る」の見出しで、佐原通信部の坂本斉一記者(のち佐原市長)ら2人による鬼熊の独占インタビュー記事を掲載した。その中で鬼熊は「猛烈な気勢を示し『俺は熊だッ』と叫んで仁王の如く踏張つた」とされ、「おれは自分で始末をする」と話したという。

 警察が現場にいた清次郎や消防組員を取り調べた結果、事実が判明した。

 9月25日夕、鬼熊をよく知る消防組の部長・山倉長次郎が、自宅の外に鬼熊がいるのを見つけた。鬼熊は、狙う「敵」が手の届かない所に行ったことから「俺はもうダメだ。自殺する」と言い出した。五木田とは別に、鬼熊が恩顧をこうむった有力者・多田幾四郎も加わって自首するように説得したが、「自首は嫌だ。自殺する」の一点張り。多田らも認めざるを得なかった。

■原稿用紙に「ザンネン 岩淵熊次郎」

 坂本記者の手記によると、鬼熊とは面識があり、前から知っていた多田に「鬼熊が来たら会わせてほしい」と頼んでいた。26日夕、多田から連絡があり、翌日、山の中で鬼熊と会った。鬼熊は「世の中を騒がせて申し訳ない。どうせ死刑だし、無期でも監獄に打ち込まれるのはコリゴリだ」と言った。寅松、忠治、向後巡査の名前を挙げ、「早く遠くへ逃げて、2、3カ月過ぎてから彼らの油断を見てやっつければよかった」と話し、坂本が渡した原稿用紙に「ザンネン 岩淵熊次郎」と書いた。

 すぐ自殺すると言ったが、差し入れの焼酎を飲んで泥酔し、熟睡してしまったため延期。翌28日夜、坂本記者が再び会いに行くと、鬼熊はカミソリで首を切って大量の出血をしたものの、傷が浅くて死にきれなかった。首を吊ろうとしてもうまくいかず、決行は再度翌日に。坂本は多田や清次郎と相談。鬼熊の姉婿が自宅から持ち出した毒物ストリキニーネを最中に入れ、持って行って鬼熊に食べさせたという。その後、消防組員も加わって鬼熊を岩淵家の墓前に運び、自殺に見せかけようとしたことも分かった。

■追跡捜査で実施された山狩りは計24回

 清次郎や姉婿、多田、山倉、坂本記者、複数の消防組員が犯人蔵匿、自殺幇助の疑いで取り調べを受けた。当時の刑法では、親族の犯人蔵匿罪は「不可罰」とされていた。結局、千葉地裁八日市場支部は1927(大正2)年2月、自殺幇助罪は問わず、犯人蔵匿罪のみで多田、山倉、坂本の3人を最高懲役6月の執行猶予付き有罪とし、他は無罪とする判決を下した。坂本の手記は最後の部分に不可解な点があり、事件の全容が解明されたとはいえないようだ。

 追跡捜査で実施された山狩りは計24回、小屋・洞窟・空き家などの検索は計25回に上った。従事した警察官延べ6899人、経費は3万3428円で、当時の県警察部年間予算の約半分に達した。現在の金額で約5400万円。警察の人員不足と不手際がその後、県議会でも追及された。

■逮捕が遅れた6つの理由

 事件解決から間もなく、警察は逮捕が遅れた理由をまとめている。

(1)現地が原野、密林、開墾地で、包囲区域がおそろしく広大だった。
(2)犯人が辺りの地理に精通しているのに、応援警察官は地理に通じていなかった。
(3)ちょうどその季節は農作物の繁茂期で、身を隠すのにも野宿生活をするにも便利だった。
(4)同地方は政党関係の軋轢が激しく、その前に貴族院議員選挙違反事件を検挙したことがあり、本件についても各種の流言が多く、ややもすると、この機に警察を利用せんとする傾向があった。
(5)新聞通信の特派員50余名も同地に入り込み、ややもすると捜査の敏活を妨げたり、捜査方針の秘密を保つに困難だった。
(6)捜査区域内の「下流民」は一般に犯人に同情を寄せる者が多く、また中流以上の者は後難を恐れて積極的に捜査に便宜を与えるようなことをしないで、犯人立ち回り先の申告も常に遅れがちだった――。

■「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」

 これだけ長期にわたる逃走は、誰かの助けがなければできないのでは? そうした声は事件発生間もないころから出ていた。9月2日の東京日日新聞千葉版は、捜索隊から出た疑問として「食を与へる庇護者があるか」の見出しを付けた記事を掲載。翌3日にも「殺人鬼の背後に或る種の影がある」「食を与へる者が多数ゐる見込み」と書いた。

 消防組員や住民が食料を与え、実質的にかくまうなどして逃亡を助けたことも判明。「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」という住民の声が新聞でも紹介された。

 鬼熊自身、独占インタビューで「おらが戸をたたくと、たいていのウチでは内密で泊めてくれたり、飯を食わせてくれたよ」と話している。

 捜査資料も認めている。「食事を与へたり、品物を恵んだりした人々は彼に同情をしてか、夫れ共後難を恐れてか、捜査官憲へ届けてくるのは、何れも熊次郎が立ち去つて十数時間も、甚だしいのになると、一昼夜以上も経過した後であつた」。立ち回り見込み先の名簿を作ってみると、2町12村の158軒に達したという。

■「喧嘩を見ては必ずまかり出て弱い方に肩をもつ」

 中年男による、痴情のもつれからの単純な凶悪事件でありながら、鬼熊が「名は次第に天下に鳴り渡り、『千葉の鬼熊』と云へば児童走卒も之を口にして一代の人気男となつてしまつた」(捜査資料)のには理由があった。「幼少の頃から牛馬に馴れて居た為に、新馬を調練するのには特別の技能があり、附近の農民に依頼されて新馬を仕込んで遣つたりするので調法がられて居た」(同)。

 馬の売買もしており、馬車引きや馬喰(ばくろう)の間では兄貴分的存在。事件発生から間もない時期の新聞も「警察も遂に兜をぬいだ 殺人鬼『熊』の正体」の見出しでこう書いている。

「喧嘩を見ては必ずまかり出て弱い方に肩をもつ。同業の新顔があると、四日でも五日でも手弁当で馬馴らしをしてやる。恩義を受けた人のためには水火も辞せない心意気で、馬車挽仲間でも顔役であった」

■時には「ヒーロー」のように懐かしんだ

 村人に頼まれれば二つ返事で荷物を運んでやったとも言い伝えられる。どこか「無法松」を思わせる人物像ではないか。

 いまも地元では「鬼熊は悪い人間ではなかった」「他人への思いやりがあった」と言う人が多い。人々に親しまれていた上、殺傷したのは恨みを持っていた相手と警察官、消防組員だけ。無関係の人に危害を与えなかったことも大きかった。警察に対する住民の反感が根強かったことも否定できない。それらがその後も人々が「鬼熊」という名前を忘れず、時には「ヒーロー」のように懐かしんだ理由だろう。

 不思議に思えることがある。それだけ世間を騒がせた凶悪事件にもかかわらず、鬼熊と被害者の遺族や子孫は、ほぼ全員村を出ず、いまも地域で生活している。言葉を変えればそれは、地元ではいまも暗黙のうちに触れたがらない過去の出来事であることを意味しているのか――。

■一種の爽快感を感じさせたのではないか

 当時の日本は、3年前の関東大震災からの復興途上にあり、昭和恐慌を先取りした不況が進行。農村では小作争議が頻発していた。

 鬼熊事件直後、小作争議を戒めた檄文が千葉県長生郡の各所に張り出された。そこには「小作争議は地主と小作人の共倒れを招く」として「マルクス主義は鬼熊より怖い」と書かれていた(10月6日、東京日日新聞千葉版)。前年の1925年、普通選挙法と抱き合わせで治安維持法公布。事件直前の1926年7月には、小学校卒業者に軍事訓練を課す青年訓練所が設置され、軍国化の足音も近づいていた。

 この年、世間を騒がせたのは大阪・松島遊郭をめぐる贈収賄事件と、大逆罪に問われた朴烈と金子文子夫妻の怪写真事件。二大政党化の掛け声の裏で、政友会と憲政会などは2つの事件を利用して政権をめぐる権謀術数を繰り返し、国会は混迷の極に。

 政治、経済、社会のいずれも分かりづらくすっきりしない状況で、国民の間に閉塞感が広がっていた。現在と類似しているともいわれる。そんな、時代が大きくカーブを切ろうとする中で鬼熊事件は起きた。

「たった1人で大捜査陣を相手に逃げ回り、翻弄した揚げ句、最後は潔く」。そんな経緯が当時の人々に一種の疾走感や爽快感を感じさせたのではないか。それが「鬼熊」の名をいまに残した理由だろう。

【参考文献】
▽「警察協会雑誌」第315号、1926年
▽内務省警保局「警察研究資料第十四輯 捜査実例集」1927年
▽千葉県警察史編さん委員会「千葉県警察史第1巻」1981年
▽坂本齊一「世紀の鬼熊遂に自殺す」(文藝春秋臨時増刊「昭和の35大事件」)1955年
▽千葉縣香取郡役所「千葉縣香取郡志」1921年
▽多古町「多古町史」1985年
▽新聞各紙

※当時の資料からの引用については、読みやすいように一部の正字を新字に改めた。

(小池 新)

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