「日本に捨てられ、韓国に救われた」就職氷河期世代の私――ある団塊ジュニアの見た平成

「日本に捨てられ、韓国に救われた」就職氷河期世代の私――ある団塊ジュニアの見た平成

©iStock.com

 文春オンラインでは、「 あなたが書きたい『平成の名言』と『平成の事件』は? 」と題して、広く原稿を募集しました。今回は、その中から佳作に入選した作品を掲載します。

◆ ◆ ◆

 私たち団塊ジュニア世代にとって、平成という時代は決して「よい時代」とは言えなかった。私は今43歳で、平成15年、26歳の時、社会への絶望感とともに日本を出て以来、ずっと外国で暮らしている。もちろん自分の意思で出たわけだが、その背景には「日本から押し出されてしまった」という感じがある。大卒の同年代で外国で暮らすことを選択した人々は皆、多かれ少なかれ感じていることではないかと思う。

■「100社応募して、返事がきたのは3社のみ……」

 私が大学を卒業したのは1998年。いわゆる就職氷河期の真っ只中だった上に、二流大学の文学部卒で女性という「ハンディキャップ」があったため、まともな会社への就職は極めて困難な状況だった。私は就職活動もそこそこに、進路を誤魔化すように大学院へ進学した。家が裕福で親が甘い女子学生たちは、卒業後「家事手伝い」になった。

 そんな中、真面目に就職活動をしていた同級生たちに話を聞くと「100社近くに応募したが、返事が返ってきたのは僻地にある3社のみだった」などという話題ばかり。運良く就職できても、残業が多く薄給であるとか、今で言うパワハラがあるとか、明るい話は一切聞くことができなかった。自殺したらしい、と噂になった人も少なくなく、心を病んで引きこもってしまった人も実に多かった。

 氷河期世代だけでなく、「ロスト・ジェネレーション」「貧乏くじ世代」などと呼ばれる私たちだが、大学卒業から20年以上を経た現在、皆一体どんな暮らしをしているのだろうか。まず、幸運にも就職や転職がうまくいき、安定した暮らしをしている人。それから、結婚して主婦になっている女性や自営業を営んでいる人、アルバイトや派遣でなんとか食いつないでいる人、私のように外国への移住を選び、今もそこで暮らしている人。そして「引きこもり」の人がいる。

■ひきこもりだった私が韓国で職を見つけるまで

 内閣府が3月29日に公表した、40〜64歳の「ひきこもり中高年者」。その数は推計約61万3000人に上るという。厚生労働大臣が「新しい社会的問題だ」と発言したというが、私は、どの辺りが新しいのか分からなかった。要するに、厚生労働省など政府の中央機関に勤める人々のほとんどは一流大学を出たエリートな上、組織を統べる役職にいる人々は、大体バブル期以前に大学を出ている。彼らはスムーズにレールの上を滑り歩いてきたため、ひきこもり中高年者という、一見弱者とは分かりにくい人々に目を向けるのが遅くなったのではないだろうか。

 私は、大学院在学中に就職が見つからなかったので、修士課程を終えてから職安に行ってみたものの、初っ端から職員に「残念な大学を出ているし、女性で年齢も既に24歳。アルバイトを見つけるのすら難しい」という屈辱的な言葉を投げかけられてしまった。この一言がきっかけで落ち込んでいた気持ちに拍車がかかり、本格的なうつ病になってしまった。そして約2年間、たまに精神科へ行って薬をもらう以外は自宅から一歩も出ない引きこもりの生活を送った。

 その期間の記憶は曖昧で、何をしていたのかよく覚えていない。親きょうだいには冷たい目で見られ、友達とも縁が切れ、ほとんど眠っていたような気がする。身長162センチで、体重は30キロ台に激減した。就職できない。家では邪魔者。恋人も友人もいない。自死を考えたが、命が絶たれるまでに味わうであろう苦しみに恐怖を感じ、それには至らなかった。引きこもってから2年後、一旦自殺を諦めることにしたら、鬱が突然躁へと変わった。そして、なんとか金を掻き集め、電光石火の速さで韓国のソウルへ飛んで、日本語教師の職を見つけ、移住を決めたのだった。

 タレントの北野武が何かの本で「外国に移住して1から始めるのは、自殺と同じようなものだ」という趣旨のことを言っていたが、当時の私はまさにその状況だった。自殺はできなさそうだし、そのエネルギーがあるなら外国へ行こう。もしそこで失敗したら、潔く死のう。では、どの外国がいいか。日本に近い国といえば韓国だ。ソウルなら外国語学校も多いし、その当時は日韓関係も悪くない時期だったため、日本語教師の職が見つかるかもしれない。そう思ったのだった。国民総学歴マニアで、先進国が大好きな韓国は、日本の大学の修士号と中・高の教員免許を持っている私をあっさりと受け入れてくれた。

■「死ぬよりはまし」で加速し始めた運

 日本人を始め、外国人が住むのは難しいと言われる韓国だが、私は意外とすんなり馴染むことができた。日本語と文法や単語が似ている韓国語も数ヶ月でマスターし、地元の人々との交流なども楽しむことができた。「死ぬよりはまし」という気持ちで日本を出てきたため、とにかく目の前にあることは、どんなことでもあるがままに受け入れていたことが功を奏したのだろう。そんな心構えになっていることに気づいてから、私の運は追い風に煽られるように加速し始めた。

 韓国に住んで4年目の秋、休暇でハワイに滞在した。オアフ島在住の知人と食事をした際、同席していた知人の友人の不動産会社の社長が私を気に入り、ちょうど日本人の顧客のメールの翻訳業務をやっていた人が辞めたので、その仕事をする気はないかと聞いてきた。場所はマウイ島で、就労ビザも出すという。私はハワイでの転職を決め、韓国に戻り、ソウルのアメリカ大使館でビザを申請した。その後のことをざっくりと説明すると、マウイ島に移住して不動産会社に就職し、4年後に退職、オアフ島に引っ越して書店に就職した後、本土出身のアメリカ人と結婚して永住権を取得した。それから書店を辞め、在住日本人向けの新聞にフリーランス契約で雇ってもらい、ライターになって現在に至る。

 就職氷河期に敗者の方へ回ってしまった団塊ジュニア世代の人たちが、精神を病み、20年以上も家に引きこもり、70代の親に心労をかけながら社会の底の闇の中で蠢いている。彼らがおかれている境遇について、今はメディアの情報から推察するしかないが、20年前の私がもう少しで陥ったかもしれない情況を投影していることは間違いない。それを思うとやりきれない。令和という新時代が、彼らにも光明を見せてくれることを祈って止まない。

(花胡椒)

関連記事(外部サイト)