「おかあさん、ありがとう」が公に言えなくなる日

「おかあさん、ありがとう」が公に言えなくなる日

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 先日、母の日がありました。日ごろお世話してくれるお袋や家内にも感謝を伝える大事な儀式を行うことで家庭円満、心穏やかに暮らすことができるようになるという人類の叡智を感じさせる仕組みがそこにあります。

 私も、母の日は家族でそろってご飯を食べながら酒が進み思わず大暴れをしてしまうのが例年のことですが、お袋や家内には感謝しかありません。なんかこう、酔っ払わないと「ありがとう」と素直に口から出てこないもんなんですよねえ。ヒップホップで程度の低い連中が「親に感謝」とか歌ってて馬鹿なんじゃないかと思ってましたけど、まさかこの歳になって自分がそのような内容を申し上げる人生が待っていようとは思ってもみませんでした。申し訳ございませんでした。

■こんなお祝いムードの日にいったい何なんですかねえ

 人生は大海原を往く航海だとするならば、家庭は確固とした母港であって、プライベートががっちりと固まっていればたとえ時化に遭って船が傷もうとも多少のことならやっていける、というのが真理だと思います。船が沈んじゃったらどうしようもねえけど。

 そんなこんなで今年も母の日がやってきたので元気に家族でお祝い事をしようと張り切って準備していたわけですけれども、子どもを習い事に連れて行ったら顔見知りのママ友が顔真っ赤にして怒っていたり、先生が困惑したような表情で所在なげにしていたりします。

 こんなお祝いムードの日にいったい何なんですかねえ、と思ったら「お母さんが夜まで働いていて母の日どころではない家庭」や「そもそも父子家庭で暮らしている子ども」はどういう扱いにするつもりなのか、と文句を言っているのが聞こえてくるわけです。え、そんなことすらもクレームになるような時代になってしまったの。少なくとも、我が子の手を引いて施設に入った私には「面倒くさい親が『母の日』のイベントをやろうとしていた施設の善意にクレームを入れている」図式に見えてしまいます。

■やっぱり現代社会はこうでなければならない

 もうね、この時点で耳ダンボですよ。象さんなわけですね。気づくと、耳を大きくした同好の士が皆さん程よい距離を取って顛末を聞き逃すまいと鈴なりになっておられます。わかる。何この微妙な連帯感。施設の玄関口で「働いている私はどうしたらいいんですか」と金切り声を挙げている若いママさんを遠巻きにするように、それでいて横目でしっかりと視界に入れ、そこで起きる思わぬ事態を脳裏に刻み込もうと絶妙な位置取りをキープするわれわれ。

 そこへさらに、同じく母の日を祝えない何らかの事情を持つ他の子どもの父親やさらに別の子の祖父らしき人も参戦、あまりに騒がしいので隣のマンションから馴染みのジジイや町内副会長まで出てきて騒ぎは拡大していきます。

 これだ。やっぱり現代社会はこうでなければならない。すでに集まっている習い事の子どもたちが、部屋の奥のほうで惨事から逃れるように小さくなってこちらを見ています。母の日がこんな修羅場になるなんて思いもよりませんでした。

 まあ、母の日を強要するのは良くないですね。お母さんがいない人だっているんですから。

 でも、お母さんがいないからといって、お母さんがいる子どもたちがお母さんに感謝する日をセレモニーで祝うことを止める権利はないんですよね。

■建設反対を叫ぶ地元の変わったおばさんが……

 似たようなことはいくらでもあって、天皇誕生日だかに施設が日の丸を掲げていたら施設で子どもを習わせているアジア系の子どもの親たちが、クレームとまではいわないけど「あれは何故掲げているのか」と詰め寄り気味だったり、私の職場でもフェミをこじらせた感じの女性社員がバレンタインデーの義理チョコ配りを女子社員の共同出資でやることに文句をつけていやーーな気分になったりと、なかなか世の中むつかしいわけです。しょうがないだろ、そういう慣習なんだから、としか言いようのないことってけっこうたくさんあるんです。

 事件にはならず、報道も起きませんでしたが、以前通っていた施設では建設反対を叫ぶ地元の変わったおばさんが建設予定地に発煙筒か何かを投げ込んで騒ぎを起こしていました。

 立場が違えば同じ事柄でも見え方が変わることの典型ってそういうことだと思うんですよ。正直、その一件を耳にしたときはかなり本気でババア何してんだよと思いました。言われてみれば、近所の公園でまだ小さい長男と次男を含む近所の子どもたちを遊ばせているときに、そのおばさんたちが「うるさい」と文句を言ってきたので、その数倍の声を張り上げて「お前らがうるせえ。昼間の公園で子どもが騒がないでどこで騒ぐんだ馬鹿野郎」と物腰柔らかく穏やかに申し上げたことがありました。まだあのババアどもはくたばりもせずに人様の育児の邪魔ばかりするのか。

 もっとも、そのおばさんは悲しい経歴の持ち主で、昔から地元で交流のあった人が教えてくれたのですが、事情があって子どもが欲しくてもできなかったこのおばさんにとっては、目の前を子どもが通るのも気分的につらいところに『住んでるところの隣ブロックに保育園ができる』となると落ち着いてはいられないという気持ちも分かります。気持ちは分かるけどこちらにも立場があるので、そのおばさんの家の前を通るときは普段の数倍の大きさの声を上げながら通過するように子どもたちには強く指導しています。

■子どもが勉強していたっていいじゃないか

 また、私の住むマンションにはファミリーも多くいるわけですけど、以前はマンションロビーの複数あるソファやテーブルでは午後によその子どもたちが群がって宿題をやったり談笑したりする光景がよく見られました。

 地元の学校には通っていないうちの子たちはそこには混ざらないのですが、賑やかに子どもたちが勉強している姿を見て、私は「おっ、今日もいいねえ」と思っていたわけです。楽しくやるのが一番だし、親御さんからしてもマンションの中で勉強しているなら安心だし、良いことずくめだろう、と。ところが、先日誰かがクレームを入れたのか、突然「ロビーでは子どもは遊ばないようにしましょう」とかいう無粋な看板が立つようになり、みんな気兼ねして、いつしか子どもの姿を見ることはなくなってしまいました。

 なんてことだ。たいして使ってないロビーのソファーなんだから、子どもが勉強していたっていいじゃないか。ロビーは老人たちだけのものでもないだろうに、何で子どもが落ち着いて居られる場を根こそぎ刈り取るようなことをしてしまうのでしょう。また、そういう子どもたちの気持ちや活動を代弁する人が管理組合にいなかったのかと思うと、暗澹たる気持ちになります。

■「自分はこれが不快だ」という権利主張

 思い返せば、現代社会でいろんな人たちが思うことをどんどん言えるようになったからこそ、自分はこれが不快だ、こうしてほしくない、やめてくれ、という権利主張をできるようになり、それまで社会的に「当然だ」と思われていた慣習に対して文句を言えるようになった、ということでもあります。それはそれで素晴らしい。我慢していてもいいことなんてひとつもないからね。思うことがあったら、みんなワーワー言えばいいんですよ。

 そこへ、インターネットのような誰もが自由に発信できる仕組みができたので、たとえ頓珍漢な主張と第三者的に思えることでも、その人にとって実現されるべき正義だと思うことがあればどんどん発信して地域や行政や社会にアピールすることができるようになった、と。

 確かに私も淫乱な独身者が満載する下心を発散させるクリスマスイブなど神への冒涜であり単なるコカ・コーラのマーケティングの成れの果てに過ぎないのだから爆散させるべきと思ってきましたし、閾値を下回る醜い男女がごっそり対象から外されるバレンタインデーのような行事もまた殺戮事件が起きるなどして中止にならないかなと毎年願ってきました。「自分は無関係だけど、みんな楽しそうだな」と思えるようなことはなるだけ見ないようにするしか方法はなかったのです。

 しかしながら、母の日ひとつとっても「お母さんがいない子」や「祝える状況にない子」が鬱々とした気持ちで学校やイベントや施設にきて、我慢して時間が過ぎることをただ待っているというのは切ない。一方で、そういう家庭があるからと言って母の日も満足に祝えないような社会にしていいのかと言いたい気持ちもわかる。

 結果として、集団全体の最大公約数を取ろうとして「来年からは参加したい希望家族と子どもたちだけで『放課後に』『時間外で』母の日をお祝いするイベントをやりましょう」という話になり、そうなると「そこまでしてみんなで集まって母の日を祝いたいか? それなら早く帰って家族でご飯食べたほうが幸せなのではないか」という流れとなって、自然と次からはこの施設では母の日を祝うイベントをやらないようにしよう、という結論に達します。

■新人が一人もいない新人歓迎会がしめやかに執り行われる

 ある事柄を集団でやろうとすると、その集団の中でその事柄にたいして都合の悪い人が出る、その事情を考えるとある集団全体がその事柄を取りやめるべきだ、と安パイの方向にいくのは、果たして衰退なのでしょうか。

 言われてみればごく最近、投資先に新卒で入社した子たちを集めて新人歓迎会をやろうとしたら、それは業務時間内であり給料が出るのかと質問した新卒がいたため、会社の福利厚生費で予算を捻出した総務担当の幹部がキレて「そんなことを言う新卒なら歓迎しなくていい」となり、30人いるはずの新卒が全員欠席して新人が一人もいない新人歓迎会がしめやかに執り行われる、という事案が勃発しました。それ単にお前ら幹部以下社員が酒飲んでゴロゴロしてるだけじゃねーか。

 その後も、社員旅行が中止になったり上場10周年記念会場ではビールではなくオレンジジュースとコーラだけが出るという潤いのないイベントをやっていましたが、新人も幹部も幸せそうに好調な業績を祝っていましたので、時代が下れば組織と人の関わり方にも大きな変遷が起きることになるのかもしれません。

■「儀式」をやめても不都合はまったくなかったことに気づく

 そう考えると、私たちはいままで大事だと思っていた儀式やしきたり、慣行、慣習といったものを続けるのに、みんなちょっとずつ我慢してきたのだなあと感じます。

 もっと楽な方向でいこうよ、と組織に参加する人たちのコンセンサスができたとき、世の中で執り行われているイベントや儀式その他の大半は無駄であり、一部の人にとっては拭い去れない不快なものであり、実施したところでたいした価値を生んできたわけではないことが分かってしまいます。なぜなら、それをやめても、やりたい奴以外誰も困らないから。ならば、そういう儀式などをやる主催者が苦労をし、付き合わされる大多数が時間と費用を無駄にするだけで、やめても不都合はまったくなかったことに気づいたとき、現代社会はやめた数だけ便利で過ごしやすくなるものなのでしょうか。

 そうであるならば、母の日はお袋や家内に感謝をする私たち一人ひとりが母の日とは関係なく日々の生活の中で「ありがとう」とか「愛してるよ」などと言葉をかけながら幸せに暮らすしかないのか、と思ったりもします。むしろ、いままでの母の日ってのはそういう優しい言葉を女性にかける機会のないおっさんや子どもたちが、母の日という一年に一回ある慣習にひっかけて恥ずかしい思いをせずに感謝を伝えられる仕組みだと思うんですよ。ほっといたら、あまり「母ちゃん、いつもありがとう」なんて言わないでしょ。

■大多数が「まあいいんじゃね」と思っているところへ……

 バレンタインデーにしても、生物学的にオスとメスが求愛の行動をとるために期限を切って「このタイミングで活動すると一定の成果が得られますよ」「みながいっせいに求愛する日程になっているので恥ずかしくありませんよ」という社会的合意があるので成立し、受け入れられてきたものだと思うのです。

 そういう大多数が「まあいいんじゃね」と思っているところへ、ブサイクが大声で名乗り出てきてクリスマス粉砕を叫んであまりの可哀想な雰囲気にみんないたたまれなくなったり、お酒離れの進んだ若者からそっぽを向かれてノミニケーションを豪語していた古株の管理職がぼっちになったり、世の中なかなか辛いものです。

 それでも、拙宅山本家では長男が小遣いをもって出かけて何をするかと思ったら小さなカーネーション買って帰って来たのをみたとき、確かに母親のいない誰かに配慮するのは人として大事だけど、自分は自分の意見をもって母親に感謝の気持ちをしっかり伝えるのはいいことだよ、と思うわけです。

 私も今後は酒を飲んで暴れることのないように致します。

(山本 一郎)

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