自衛隊はこうして“抑止力”から“実際に武器を使用する時代”へと移行した

自衛隊はこうして“抑止力”から“実際に武器を使用する時代”へと移行した

韓国海軍の艦艇からレーダー照射を受けたとされるP1哨戒機の同型機(出典:海上自衛隊ホームページ)

 去年末、海上自衛隊の公式ツイッターのフォロワーがわずか一晩で7000人増えるという出来事が起きた。投稿の内容は以下のものだった。

「2018年も間もなく終わりですね。

 今年も一年間、海上自衛隊にご理解を頂きありがとうございました。

 海上自衛隊は日夜、日本周辺海域の警戒監視を実施していますので、安心して新年をお迎えください」

 多くのツイッターユーザーを惹きつけたのは、そこに添えられていた1枚の写真だった。この直前に、韓国軍によるレーダー照射を受けたとされるP1哨戒機。日韓の対立が深まる中でのこの投稿に、肯定的なコメント、というには過激ともいえるコメントが殺到した。

「これは強烈なメッセージですね」

「ガンガンやっちゃってください!」

「強気で嬉しい!」

 この投稿を行った海上自衛隊広報室の担当者は、こう強調した。

「いわゆる、バズったという状態になりましたが、決して政治的な意図はありません」

 なぜ、P1哨戒機の写真なのか。「年末の挨拶には飛行機の写真を、年始の挨拶には艦船の写真を添えよう、と以前から決めていたものです」と説明する。

 担当者はツイッターやフェイスブックといったSNSというツールを使って、国民とより直接つながることを重視し、そこから聞こえてくる声に耳を澄ませているということもあわせて強調した。

「私たちの投稿に対して、国民の皆様から頂く言葉というのは、基本的に、激励の言葉がほとんどです。現場の隊員にとってそれは、とても励みになっています」

■自衛隊と国民の関係が大きく変化した平成の30年

 戦争放棄を掲げる憲法の下で発足した自衛隊。その歴史は、国民にいかに受けいれられるか、模索を続けた歴史だったとも言える。先の大戦の反省から旧軍と一線を画す形で発足した自衛隊は、農村での田植えの手伝いや、地域の祭への参加などを繰り返し、国民のひろい支持を得ようと努めてきた。そして、“本来業務”の防衛の面においては、長くソ連を念頭においた“訓練”を続けてきた。

 ところが、平成元年に冷戦が終結すると自衛隊を取り巻く状況も大きく変化していく。“ソ連の脅威”が消滅すると同時に、活発化した北朝鮮の軍事的挑発に直面。イラク戦争の直後には、事実上の“戦地”にまで活動の幅を広げることとなった。変化し続ける安全保障環境に脅威を感じる国民も増えている。

 自衛隊にとって平成とは、“抑止力として存在していれば良かった時代”から“実際に武器を使用する時代”へと移行していく30年となった。そして、それにともなって、自衛隊と国民の関係もまた大きく変化していくことになる。

 今回、私たちが「平成史スクープドキュメント」で取材をし、考察したことのひとつはこの「国民と自衛隊」の関係の変化とその意味だった。これまで脈々と取材を続けてきたNHK社会部の防衛担当チームとともに、平成の時代に自衛隊を率いた幹部たちに、とにかく話を聞いて回るという地道な取材を開始した。

■初の武器使用で"国民の声"を強く意識した自衛隊

“実際に武器を使用する時代”の嚆矢となったのが、能登半島沖不審船事件だ。

 1999年3月、能登半島沖の領海内に2隻の不審船が発見される。船には、ロケットランチャーなどで武装した工作員が乗っていることが疑われていた。本来対応に当たるはずの海上保安庁の船は猛スピードで逃げる不審船から引き離されたため、海上自衛隊の船が対応にあたることになる。政府は自衛隊に対して武器使用を含む「海上警備行動」を発令。不審船を停船させ、日本の法令に従わせることが命じられた。

 当時六本木にあった防衛庁の長官室で事件の対応に当たっていた海上幕僚長・山本安正が、取材に応じた。山本は、当時の詳細な記録を残していた。

〈どの程度射撃をしたら国民が納得するのか、シビル(防衛官僚)に聞く。『12〜3回の射撃で良いのではないか』とのこと〉

 そこに記されていたのは、国民の視線を強く意識しながら、抑制的に対応しようとする自衛隊の姿だった。

「武力をもった組織の宿命ですね。極端に走った歴史が過去にいろいろあるじゃないですか。そういうのが頭の中にあるんですよね、常に」

 ところが、不審船はこの警告射撃では止まらなかった。

■不審船事件で露呈した国民の声の変化

 一歩対応を誤れば、国と国との軍事的な衝突に発展しかねない事態。この時想定していた最も強い措置は「砲による船体に向けた実弾射撃」だった。しかし山本は、これを最後まで実施しなかった。そしてその結果、不審船は逃亡した。

 歴史を踏まえ、国民の視線を意識して抑制的に対応した山本だったが、事件の後、直面したのは一部の国民の厳しい声だった。

「なぜ逃がした」

「税金泥棒」

 防衛庁・自衛隊宛に、大量にメールが届いたのだ。「税金泥棒」という罵声は、かつても自衛隊は浴びたことはあった。それは「自衛隊の存在自体が憲法違反だ」と指摘する声に付随することが殆どだった。しかし、不審船事件を経て、その「罵声」の意味するところは大きく変わっていた。

「『これだけ予算を付けて装備を与えているのに、何も出来ないのか』ということではないでしょうか。自衛隊の武力行使には大きな法的制約があるという、法体系などを理解している方ばかりじゃないですからね」

 そして、そのこと以上に山本が強調したのは、新聞やテレビなどを介さずに直接「世論」が届くようになったことに対する驚きと、おそれだった。

「もしかしたら、一夜で一変する世論かもしれない。だから怖い。時勢、時局に惑わされないということが、一番ですね、特に、力を持っている組織は」

 事態をエスカレートさせないために、自衛隊にはどのような役割を担わせるのか。90年代の末に起きた不審船事件があらわにしたのは、自衛隊に対する国民の要求に一部で変化が起き始めているということだった。

日米同盟の深化がもたらした専守防衛の“揺らぎ”

 日本は、国防の原則として「専守防衛」を掲げている。それは今も一貫しており、自衛隊はその下で必要最小限度の実力組織として国土の防衛に徹してきた。しかし2000年代に入ると、その原則に“揺らぎ”が見え始める。

 大きな契機となったのが、2001年のアメリカ同時多発テロだった。日本政府は直ちにアメリカへの支持と支援を表明。テロの10日後には、早くも横須賀を緊急出港したアメリカ軍の空母キティホークの前後を、自衛隊の2隻の艦艇で東京湾沖まで「護衛」するかのように随伴した。

 もしもこのときキティホークに攻撃が行われて自衛隊が対処すれば、日本が直接攻撃を受けていないにもかかわらず武力を行使することとなり、集団的自衛権の行使にあたる可能性があるとの批判の声も多くあがった。しかし政府はあくまで「警戒・監視」であり「護衛ではない」と説明した。

 実は、この動きには歴史的な伏線がある。この10年前に起こった湾岸戦争の際、日本は部隊派遣を見送ったことで、アメリカから激しい非難を浴び“トラウマ”化していた。

 そして、日本に対して“直接的”な支援を強く求めるアメリカに応えるべく生まれたのが、不審船事件の直後に成立した「周辺事態法」だった。日本が、直接攻撃されていない場合でも、「後方」であれば自衛隊はアメリカ軍の作戦に協力することが可能となったのだ。そして、同時多発テロが起こる。ある防衛庁(当時)の幹部は、当時の心境を次のように語っている。

「日本の安全はアメリカといっしょにやらないと確保できない、それはもう骨にしみて、骨の髄までそういう考え方は浸透していました」。

■同時多発テロで「日本人を“撃つ”可能性があった」

 キティホークの出港時、テロ攻撃はなかった。しかしあのとき、もしも攻撃を受けていたら、何が起きていたのか。

 今回私たちはこの件についても自衛隊、そして当時の防衛庁の幹部たちへの取材を重ねた。その結果、“護衛”なのか“警戒・監視”なのかという議論を越えて、私たち自身も想定外だった証言にたどりつく。キティホークに随伴していた自衛隊の護衛艦は「日本人を“撃つ”可能性があった」というのだ。

「ハイジャックされて飛行機が突っ込んでくるとなると、自衛隊としてはその飛行機を“撃墜するかしないか”ということしかないわけです。その場合、飛行機の乗客のほとんどは日本人だと想像されていました。一方キティホークには3000人強の米海軍の乗組員。突入されたら、浦賀水道で沈没する可能性がある。彼らの命を守るために撃墜するのか、しないのか……」

 こう証言したのは“護衛”の行動を中心になって計画した海上自衛隊の当時の防衛部長、香田洋二。香田は、現役を引退した今も安全保障や自衛隊の専門家としてメディアに繰り返し登場し、その経験も含めて多くを語っている。もちろん、NHKの歴代防衛担当記者たちも、長く取材を続けてきた人物だ。その香田が、これまで胸に秘めてきたことだった。

「難しいのは、撃墜しなかったからといって、乗客の命は救えないわけですね。しかし撃墜した場合は、日本人例えば200人の命と引き換えに、アメリカ人3500人を救うことが出来る。それは、政治的に、もしくは命の数だけで考えたら理論的に正しいのかもしれない。しかし、日本の国民感情として、許されるかどうかについては、おそらく誰も答えられないんです。

 撃墜するのかしないのか、事前に決心ができるほど私は強くありませんでした……。本当に、ここで時間が止まってくれたらとか、この世の中から自分がいなくなれば楽かなということは考えました」

 日米同盟を堅持するために、旅客機を撃墜して自ら国民の命を奪うのか――。

 自衛隊は、アメリカ軍を守るために武器を使用するケースがある。そしてその矛先が結果として国民に向く可能性もあり得る。その時に、「日米同盟という大義のためであれば仕方がない」と、私たちは受け入れることができるのだろうか。

■“非戦闘地域” の実態は――自衛隊の活動範囲広げたイラク派遣

 平成の30年を通じて深まり続けた日米同盟は、自衛隊の活動領域を事実上の“戦地”にまで広げることになった。きっかけは2004年の陸上自衛隊のイラク派遣だった。

 ドイツやフランスなどが反対する中、イラクが大量破壊兵器を所有しているとして戦争に踏み切ったアメリカに対して、日本は再び率先して支持を表明する。開戦から4ヶ月後には特別に法律がつくられ、復興支援のためにイラクへの派遣が決まった。このとき、官房長官として、派遣決定に深く関わっていた福田康夫は、私たちの取材に対して「皮肉なことに」と語り始めた。

「日本がイラク派遣のための法律を作った後に、テロが活発化してしまったんです。しかも大規模になった。それでもいずれは沈静化するんだというように思っていたんだけれども、止まるどころかむしろ酷くなる。しかし法律もつくったし、アメリカは日本に対して復興支援をぜひやってほしいと言ってくる。ほかの国々があまり協力的ではなかったこともあって、アメリカの日本に対する期待が非常に高まって、より応えなければならないという状況になっていた。いまから見れば、『非戦闘地域』という表現は、かなり苦しい、国会で法律を議論するにはふさわしいものではなかったと思います」

 2年半にわたった陸上自衛隊の活動で派遣された隊員の数は5600人にのぼった。自衛隊は自ら危険を察知し、密かに“戦死”への備えを進めていたことも明らかになっているが、幸運にもひとりの犠牲者も出さずに活動は終わった。

■「国のやりたいことを具現化する装置」となった自衛隊

 しかし今回、この結果だけを見て「ただの成功体験としてはいけない」と警鐘を鳴らす人物に出会った。2004年7月からイラクで部隊を率いた田浦正人。現役の陸将だ。陸上自衛隊は活動期間中、迫撃砲などによる14回の攻撃を受けていた。田浦が派遣されていた半年間にそのうち7回が集中、最も厳しい時期に当たった。ともに活動していたオランダ軍兵士が、銃撃戦で死亡するなど、ぎりぎりの日々が続いていた。

 こうした中で、隊員の命を預っていた田浦の重圧は並大抵のものではなかった。「ひとりの犠牲者も出さない」――。それは、当然「隊員たちを家族のもとに返す」という大目標のためだった。しかしそれに加えて、別の必要性もあったと明かした。田浦は、政治の決定に従って任務を行う組織である以上、「現地は非戦闘地域である」という政府説明と矛盾しない結果が求められると強く感じていたのだ。

「もし何かあったら、自衛隊、それから日本国に与える影響、政府に与える影響も当然大きなものがあるだろうとは思っていました。私どもは“国のやりたいことを具現化する装置”だと思っていますので、そこはなりきってやるしかない」

 自衛隊が、戦闘の続くイラクの地で具現化しようとした「国のやりたいこと」とは何だったのか。現地での出来事をつづった私的なメモには、PKO=国連の平和維持活動との違いに戸惑う中で、田浦が認識した答えの一つがあった。

〈これは、日米同盟の支援なのだ〉(田浦のメモ)

■日本の防衛政策を支えるのは"国民の政治参加"

 新元号「令和」が発表されたその日に退任した自衛隊の前のトップ・河野克俊前統合幕僚長は、国民と自衛隊の関係について次のように語った。

「防衛政策においても自衛隊においても、政治責任を負えるのは内閣総理大臣か各大臣であって、われわれは政治責任を負いたくても負えません。ミッションを与えられたらやりますが、それは厳密なシビリアンコントロールのもと、政治の判断に従ってやるんです。そこは絶対に踏み外してはいけない。それは、その政治の裏にいるのが国民だからです。国民が国会議員を選び、政府を選ぶわけですから。したがって、国民が政治参加することこそがシビリアンコントロールを機能させる大きな要因になると思っています」

■「自衛隊に何を担わせるのか」を決定していく国民の責務

 安全保障環境の変化に合わせて、その実態も変化させてきた自衛隊。それはすなわち、日本の掲げる“専守防衛”の実態が変化してきたことに他ならない。しかしその変化を、私たちはどれほど把握し、理解してきたのだろうか。

 イラク戦争の後に派遣された南スーダンPKOでは、宿営地近くで大規模な武力衝突が発生、遺書をしたためた隊員もいたほどに苛烈な任務を体験している。しかし政府は、「法的な意味での戦闘行為はなかった」と説明した。さらに、現地の実態を記録した日報が隠蔽され、国民は意図的にその内実から遠ざけられた。河野の言う通り、シビリアンコントロールを機能させるために「政治参加」するには、情報が十分には提供されていないのが現状だ。

 それでも私たちには、自衛隊に何を担わせるのか判断し、意思を示していく責務がある。

 安全保障環境の変化に合わせて、その実態がこれまでと大きく変わる可能性のあることは平成の30年が実証した。これから「専守防衛」の組織として、この国のひとつの形を現してきた自衛隊が担うべきことは何か。変わった後に「知らなかった」としないためにも、国民ひとりひとりの声の重みは、ますます増していると感じる。

(片山 厚志)

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