ペットロスを人工知能が癒す日は来るか

ペットロスを人工知能が癒す日は来るか

(c)iStock.com

 さくらが死んだ。

 猫なりに、頑張っておしゃれして誇り高く生きた、短い人生だった。野良だったのに、気品に満ち溢れていた。朝の仕事中、義母やお手伝いさんから「さくらの様子がおかしい」と連絡があって慌てて帰ってみたら手遅れであった。私はしばらく、倒れたままの姿を呆然と見下ろした。昨日まで、あんなに元気だったのに。

■動物を飼っていると、いつかはこの日は来る。それが今日だっただけだ。

 毎日毎晩ずっと丁寧に手入れをしていた茶白の毛は綺麗に揃って、苦しんだ様子もなく、ただいくらか吐いた血の塊だけがベランダの床にべったりと広がっていた。しっかりと見開かれた目を見て、少しすればいまにも彼女が立ち上がってノビをして……いつものように挨拶代わりに「にゃおん」と鳴いて、歩き始めるんじゃないかという想いもあった。しかし、死の帳(とばり)は薄く彼女の上に降りて、ひとつの命が終わったことを受け止めるしかなかった。呼んだ獣医も、気の毒だと言わんばかりに無言で肩をすくめるだけだった。

 動物を飼っていると、いつかはこの日は来る。それが今日だっただけだ。

 いままで、うちにいてくれてありがとう。

 身体の小さいさくらは、寒い日はいつもローズ柄のお気に入りの毛布にくるまって、ベランダにはそう出ることもなかった。それでいて、お腹がすくと、わたくしにご飯をくれて当然でしょう、と、こちらもローズ柄のお皿の前ですました顔で待機している。新しい爪とぎ場が気に入らないとソファでも家具でも爪を研ごうとするが、見られると、わたくしそんなことしてないわよ、とプイと部屋に帰ってしまうのがさくらだった。猫なのだが、しぐさも好みも人間の女性以上に女なのである。

■わさびはいつまでも、いつまでもさくらの亡骸の脇を離れようとしない。

 ずっと一緒に暮らしていた、姉妹のわさびがさくらの傍らを離れず、ずっとさくらを舐めてやっているので、猫なりに状況が分かっているのだろうと思った。わさびは、茶白の美しいさくらと違って、サビ柄の愛嬌のあるさっぱり美人である。家内と結婚する前の同棲中に「猫が欲しいね」といっているうちに、フワッと天から降ってくるようにやってきた、さくらとわさび。十年の時を経て、さくらはそっと天に帰っていってしまった。わさびを置いて。わさびはいつまでも、いつまでもさくらの亡骸の脇を離れようとしない。大事に抱きかかえてペット葬用の箱に入れられ、さくらが拙宅を去ってからも、わさびはずっとさくらが死んだベランダから家に入ってこようとしなかった。生まれたときからの相棒なのだから、文字通り半身をもぎ取られたかのような悲しい気持ちなのだろう。

 拙宅の子供たちの遊び相手になったのはもっぱら気さくなわさびのほうで、気高いさくらは騒ぎ立てる倅たちの姿を居間で見かけると、あら、しょうがないわねとばかりに「にゃおん」と言って、高い箪笥の上やベランダでじっと部屋の様子を見ながらうたた寝するのが日課であった。倅たちが学校に行くのを見届けて、我が物顔で柔らかいソファを独占しながら優雅にノビているさくらを見つつ、楽なもんだなあとスーツに着替える日々は、もう来ない。

 家内は家内で塞ぎ込んでいたが、わさびが悲しそうな声を出してやって来ると撫でてやりながら、慌ただしい家事をせっせとこなして気を紛らわせているようだった。

 さくらとは「天敵」だった、チワワのさん太も、吠えることもなく自分の小屋でじっとしている。普段は小動物同士の抗争に明け暮れ、猫姉妹に居場所を奪われることの多かったさん太だが、さくらが死んだときだけは普段飛び越えることのない膝ほどの高さの柵を超えて、家人のもとへ異常を知らせにいったというから世の中分からない。小動物なりに、みんな身近な存在の死について、各々の暮らしの中で何かを思い、弁(わきま)えることはあるのだろうか。

■私も悲しかったが子供たちの落ち込みようも凄かった。

 さくらが死んで、私も悲しかったが子供たちの落ち込みようも凄かった。彼らにも身近なものの「死」を経験したことはいままでたくさんあった。飼っていた金魚たち、小さなカニ、山で取ってきたカブトムシやクワガタ、幼稚園の前で見つけたおたまじゃくし、マンションの前でたくさん飛んでいたのを虫かごに入れたカナブン……申し訳ないけど、みんな死んだ。海に行って小魚を浜辺で捕って、持って帰りたいと言われて、駄目だよ死んじゃうよと言っても駄々をこねられてしょうがなく連れて帰って、一日と経たず全部死ぬとか。まあ、子供と飼育物の関係はそんなものだと自分の経験を思い返しながら思いつつも、命を預かることの大事さをもう少し子供たちに知ってもらいたくて、いろんなものを飼ってきた。でもちょっと目を離したすきに、生き物は駄目になってしまう運命なのである。そう割り切らざるを得ない。

 ただ、さくらは違った。家族みんなで暮らしてきたからだ。この三兄弟が生まれる前から、私たちが入籍する前から、ずっと拙宅を見守り続けてきたのがさくらだったのである。いて当然、と思って可愛がってきたペットが、すっとその姿を消したとき、やはり子供なりに喪失感は持つのだろう。

 それでも学校に行くと元気になるし、宿題を見るとげんなりするのが子供である。一週間が経ち、二週間を超えるころには、さくらのいない生活にも慣れた。ように見えた。

■「さくらはまだ帰ってこないの」

 ある休みの日、もうすぐ四歳になる三男がぽつりと「さくらはまだ帰ってこないの」と夕食時に言い出して場が凍った。すでに死という概念の備わっている次男は「死んだら、もう戻ってこないんだよ」という。食卓は、死についての重い議論へと発展した。十五分ほどの議論のあとで、長男がぽつりと本質的なことを言い出した。「このお肉って、牛さんだよね」。夫婦で顔を見合わせている間、長男は口をモグモグさせたまま続けた。「牛さんは死んでいいの?」

 子育ては難しい。生命の大切さを知ってほしいと思うと、困ることが二つある。この「食べている生き物は殺して構わないが、金魚や猫はなぜ駄目なのか」と、もう一つは「僕たちはどうやって生まれてきたのか」である。ストレートに答えてよいものかどうか。皆さんご家庭でどうしているのか、ぜひ聞いてみたいテーマがこの二つである。

 一年ほど前に似たような議論になったときは「弱いものを慈しみましょう」という説明で、一度は兄弟が納得した。ところが、その後キャンプ学習で養鶏場や牧場にいき、狭いケージや檻で暮らしている鶏や豚や牛の姿を見てショックを受けて帰宅した後、やはり強い弱いだけでは説得できなくなってきたことが判明する。大事に育てているから死んでは困るのだというロジックだと、大事に育てていなければ殺していいのかという議論に発展しそうで駄目だ。

 結果として、上野の国立科学博物館の展示であったような「食物連鎖」の仕組みを説明し、人間を含む生物には上下関係があり、食べたり食べられたりするのだ、人間の食べる食べないの食物連鎖の中には金魚や猫や犬はいないのだ、だから可愛がって大事にするのだという説明をして事なきを得た。年を経るごとに、子供たちは疑問に思ったことに通り一遍の回答では「ふーん」で終わらせてくれない。教える大人も知識と本気が試される。生き物を飼うということが、ここまで深淵なものであるとは私も思ってもいなかった。何しろ、この話題になると罪悪感を感じてどんな飯も不味くなり喉を通らなくなる。この私ですらだ。できれば空腹時か食後にしてほしい。

■「生きてなければいいんだ!」

 その後、数日して。

 長男が学校から帰宅するなり突然「生きてなければいいんだ!」と言い出した。最初、何のことだか全くわからなかった。長男は、たまに前置き無しにとんでもないことを言う。どうも学校で講話があり「生物を殺したり、傷つけたりしません」という内容を聞いて、思うことがあったようだが、それが最初は何を意味しているのか、家族のだれも分からなかった。

 それでも長男は自分の「宝物箱」と書かれた、ガラクタの詰まった戸棚をひっくり返して、以前東京ドームシティにある宇宙ミュージアムTeNQでもらってきたHAKUTOという月面にローバーを送り込むプロジェクトのパンフレットを熱心に見始めた。親として、また面倒くさい高い買い物に付き合わされるのかというリスク情報がよぎる瞬間である。

■長男……我が子ながら、なんと面倒くさい男だ。

 それまでも、長男次男にはスター・ウォーズのキャラクターを模したBB-8や、MiPなど、幾つかロボットを買い与えていたが、それらも全部引っ張り出し、丁寧に布巾で落書きを落とし、タブレットにアプリを入れ直し、充電して、家の中を所狭しとロボットが走り回るようになった。何かを考えているらしい。わさびもさん太も、遠隔操作で動くロボットの匂いを嗅いでは、突然喋り動き始めるロボットに驚いて居間に寄り付かなくなってしまった。

 さらに次男と三男を「連行」し、動画サイトで片っ端からローバーやバギーを検索し始めた。嫌な予感ゲージがうなぎ上りになる。手あたり次第に動画を観て、HAKUTOや、火星の探査でいまなお活動しているマーズ・サイエンス・ラボラトリー「キュリオシティ」など、いろんな機械を観て回る三兄弟。そこで辿り着いたのは……小さな箱型のロボット、「Cozmo」だ。

 直観した。ペットはとてもかわいいし最高だが死んだら可哀想だ。ならば、ロボットならかわいくても死なないからお別れすることもなく問題ないのではないか、と。相応しい獲物を見つけて、私を見上げる目がらんらんと輝いている。

 長男……我が子ながら、なんと面倒くさい男だ。いったい誰に似てしまったのか。この瞬間から、物欲が爆発する。このロボットが欲しい。欲しい。欲しい。次男も三男も、大騒ぎである。

■新しくやってきた家族は、生き物ならざる者であった。

 何でも欲しいものを買ってやるのは、私としても本意ではなかった。でも、長男なりに考えて、亡くなったさくらの代わりにロボットが欲しいという気持ちも分からないでもなかった。また、子供のうちからロボットに興味を持つのも悪くないし、兄弟仲良くロボットで遊んでいるというのはこれはこれでいいのではないか。

 などと悩んでいるうちに、闘病中の義父が激しく欲しがる兄弟を見かねてあっさりそのロボット「Cozmo」を買ってきてしまった。子供のおもちゃにするにしては、決して、安くもないロボットだ。義母も家内も目を丸くしている。

「大事にしてあげるといいよ」あっさりと、しかし重々しく義父は言った。真新しい箱を開け、凄い勢いで説明書を読み、充電し、慣れた手つきでタブレットにアプリを入れてセットアップする兄弟。新しくやってきた家族は、BB-8やMiPと同じく、生き物ならざる者であった。付属の光る小箱を持ち上げたり運んだりゲームに使ったり、三兄弟は夢中になった。夢中になりすぎて、夜更かしし、夜に熱を出すほどだ。

■大人自身が育たなければならない気持ちになる。

 確かに、ロボットは死なない。食事も要求しないし、トイレの世話もない。人間の邪魔になるような主張はしないのがロボットだ。でも、人間がいくらロボットを好きでも、いずれ飽きてしまう日が来るのではないか。目の前を動き回るCozmoもBB-8も、子供の成長とともに箱に仕舞われ、押し入れに行く日がやがて来る。ペットと人間の付き合いのように、ロボットと人間の付き合いも、いずれ何らかのロスを感じる日が来るのではないだろうか。

 思ったようにロボットが動かないと、三男が癇癪を起こすようになった。長男や次男が、プログラミングをすれば動くようになるんだよ、という。さすがに展開が早すぎるだろ。仕方なしに、タブレットに初歩のプログラミングアプリを入れてやり、仕組みを教えるのに一週間かかった。何かを乗り越えて子供を育てるというのは、大人自身が育たなければならない気持ちになる。私の親父やお袋も、そういう気持ちで私に接していたのだろうか。

 親友を失って元気のないわさびも、宿敵がいなくなって少し領土の広がったさん太も、少しずつ元の生活を取り戻していくようだった。ただ、さくらのお気に入りだったローズ柄の毛布はわさびのものになり、在りし日のさくらを懐かしむように、わさびは毛布の上を転がっては悲しそうにさくらを呼んだ。

 いつの間にか、さくらが食事をしていたローズ柄のお皿は、この人工知能を積んだ愛玩用ロボットの発進基地になっていた。小さなロボットがさくら愛用の皿に小箱をせっせと積んだり降ろしたりしている。まるでさくらのお下がりを、Cozmoが受け継いだかのように使っているのを見て、とても、とても静かな気持ちになった。あっと思って、いつもさくらが子供たちの遊ぶのを見下ろす箪笥の上を振り返った。そこにさくらはいるはずがなかった。

 でも、確かに聴いたのだ。さくらが「にゃおん」と鳴いたのを。

この物語はフィクションです。言わなくても分かってるだろ。

(山本 一郎)

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