「囲碁に男女差はない」92歳の現役棋士・杉内壽子を鍛えたスパルタ父の思い

「囲碁に男女差はない」92歳の現役棋士・杉内壽子を鍛えたスパルタ父の思い

『日本の天井』石井妙子 著

 各界で「第一号」となった女性たちは、どんな思いで「天井」を打ち破り、そして後進へとつながる道を作ってきたのか。これまで数々の「女の歴史」を描いてきたノンフィクション作家・石井妙子さんが、偏見と迷信を破り続けた女性たちへのインタビューをもとに紡いだ 『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』 (KADOKAWA)。

 その第2章「破ったのは、女性への迷信」に登場するのが囲碁棋士・杉内壽子さん。杉内さんは女性の囲碁棋士として初の高段者(五段以上)となり、のちには棋士会会長も務めた。92歳となった現在も現役の棋士として活躍している。

『日本の天井』から、杉内さんの幼少期の思い出を紹介する。

◆ ◆ ◆

■父の壮大な実験

 杉内壽子と囲碁との出会いは、幼い頃にさかのぼる。

「5歳ぐらいの時ですね。小学校へ上がる少し前だったと思います。退役軍人の父から、手ほどきを受けました」

 杉内の旧姓は本田である。

 父、本田栄三は栃木県の養蚕業を営む旧家の出で、明治23(1890)年、七人きょうだいの三番目に生まれた。長じて、広島県の江田島にあった海軍兵学校に入学。栃木県からの合格者は1名だけで、地元新聞が大きく報じた。

 栄三の父、つまり壽子の祖父も囲碁好きで、海軍兵学校の寄宿舎から息子が帰省した際には父子で碁盤を囲むのが常であったという。

 その後、海軍兵学校を卒業した栄三は軍艦に乗り外国に赴任。だが、残念なことに内臓を患い、海軍大尉の身で一線から身を引かざるを得なくなった。無念であったろう。

 その後、伊豆で温泉療養をしていた際に、弟の病気治療に付き添っていた女性、松本たまに出会い、結婚。昭和2(1927)年に、長女を授かった。それが壽子である。

 壽子が3歳になる頃、気候が穏やかで養生するのにも適した静岡県伊東町に引っ越すと、父は「囲碁教授」の看板を掲げた。土地の旦那衆や温泉客を相手にした碁会所のようなものを始めたのである。軍人の道が断たれて身体に負担のかからない仕事をと考え、思いついたことだったのだろう。当時も今も、囲碁を教えるのはプロ棋士だけの特権ではなく、一般の人にも許されており、アマチュアながら優れた指導力のある人が経営する碁会所は全国に少なくない。

■女性の可能性を追求してみたい、と考えた

 そんな彼はまた、娘の誕生をきっかけに、ある夢を抱くようになる。この娘を棋士に育ててみたい、それも高段位の棋士に、と考えたのだ。そこには父・栄三の深遠な思いがあった。壽子が振り返る。

「父が私に囲碁を教えたのは、女性の可能性を追求してみたい、と考えたからだそうなんです。プロの世界では四段以下を低段者、五段以上を高段者としており、四段以下は少し低く見られる。当時も女性のプロはいましたが、全員が低段者で高段者はひとりもいなかった。父の周りにいた囲碁仲間の方たちは、よく集まっては、『女はプロになっても、せいぜいが四段どまりで、五段以上には絶対になれない』と断言するように語っていたそうです。でも、父はそういった会話を耳にしながら、疑問に思ったそうなんです。『本当にそうなんだろうか』と。それは少しおかしいんじゃないか。女だから五段以上にはなれない、という理屈はないのではないか。囲碁に体力は関係ない。一種の頭脳競技なんだから、男女差などないはずだ、と。そこで父は、『よし、ここは、ひとつ娘にやらせて試してみよう』と思い立ったんだそうです。つまり父にとって、私に囲碁を教えることは、ひとつの実験だったんです。女性の限界や可能性を知るための壮大な実験だったんですね」

■強くなれば、結果に出ますから

 思い立つと栄三は、さっそく自分で編み出した英才教育を壽子に施した。それは生活全般にわたる、非常に厳しいものであった。

「朝起きますと、まず冷たいタオルが置いてありまして、それで冷水摩擦を致します。それから庭に出てラジオ体操。それから、ひとり碁盤に向かって歴史上の名人が打った碁を並べて、囲碁の勉強を致しました。それが済みましてから、ようやく朝ご飯です。

 朝、囲碁の勉強にもたついていると、友達が迎えに来てくれても一緒に学校に行けません。母が、『壽子はまだ囲碁の勉強をしているから、あなた方、先に行ってくださいね』と説明している声が玄関のほうから聞こえてくると、なんとも言えない気持ちになりました。そういう時は辛かったですね。小学校から帰ってきますと、今度は父が待ち構えていまして、父と対局致します。ですから父とは何千局と打っていると思います」

 これが毎日の日課であった。同級生たちと遊ぶ時間は、ほとんど持てなかった。肉体鍛錬と修業の日々。当時、不満はなかったのかと尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「そういうふうに、囲碁の勉強を仕込まれて、最初は辛かったと思うんですけれども、子どもっていうのは、習い性になって慣れるんですよね。それに囲碁を理解するに従い、だんだんと面白くなっていったんだと思います。強くなれば、結果に出ますから。

 だから、私は父に対して反発しなかったんだと思います。今でも、私が強くなれた一番の理由は、父が決めてくれた『習慣』にあったと思っています。毎日、同じことを繰りかえす。それが良かったんだと思うんです」

■よそで打ってきた碁を父の前で「並べ直す」

 父・栄三は自分の頭で考え、今風にいえば娘のために「カリキュラム」を作ったのだった。どうやったら娘を強くすることができるのか。すべて自分で考え、娘の進歩を見ながら、それに合わせて方針を立てていったのだろう。しばらくすると、父以外の人とも打つようになった。

「父に言われまして、近所に暮らす囲碁の強い方のお宅に伺って、教えて頂くようになりました。自宅に戻りますと、父の前で、よそのお宅で打ってきた碁を再現して見せなくてはなりません。囲碁用語で『並べ直す』と言うのですが、これはある程度、棋力がないとできません。碁盤に一手目から並べていくのですが、自分の打った手やお相手の打った手が、どうしても思い出せないことがある。

 そうしますと父が、『教えてもらって来なさい』と言うんです。もう夕食時で、母が食事の支度を整えている。でも、父は『食事は後にして、まず聞いていらっしゃい』と私に言う。しかたなく、私は外に出て、また歩いて先ほど辞去したお宅に行き、『手順を忘れてしまって思い出せないので、教えて下さいますか』と説明し、手順を教えて頂く。

 ある冬の寒い日のことでした。ご先方が、そんな私のことを可哀そうだと思って下さったんでしょうね。手順を聞きに来た私を送って下さって、帰り路で手袋を買って下さった。それを、私の手にはめながら、『壽子ちゃん、しっかり勉強して強くなりなさいね』っておっしゃった……。今も心に残っています」

■男尊女卑的な戦前の日本の風潮に疑問を持っていた

 父の教育は愛情から出ているとはいえ、厳しいものだった。だが、その思いに壽子は反発することなく、むしろ順応し、才能を着々と伸ばしていった。

 明治生まれの海軍軍人と聞くと、ひたすら厳格な人物をイメージしてしまいがちだ。だが、むしろ父・栄三は男尊女卑的な戦前の日本の風潮に疑問を持っていた人物であり、だからこそ、世間の誤った女性観を正したいという思いを抱いて、娘に向き合っていたと見るべきであろう。

「父は海軍時代に、世界を回っておりますから、いろんな先進国の実情を自分の目で見ていました。ですから、進歩的な人ではあったんです。父は、『これからの女性は男性に追従するだけではいけない。女性でも自立して生きるべきだ。そのためには、何か身に付けさせなければいけない。何がいいかな』と、私が生まれた時、すぐに私の母に言ったそうです。父の叔母が女医でしたから、最初は女医がいいと思ったらしいんですが、『女医になるには金がかかるから無理だな』と(笑)。その後、女流棋士がいいと思いついたようです。

 私には妹がふたり、弟がひとりいましたが、父は弟に対しては、初めから囲碁を教えて棋士にしようという考えは持っていなかった。弟だけは棋士にしようとしなかったんです。父の興味はあくまでも、女性の可能性の探求にあったから、弟は対象外だったんでしょうね(笑)。妹ふたりも私に続いて棋士になりましたが、妹は私がダメだった場合の控えというか、そういう感じで(笑)。ですから妹よりも、やはり私に対して厳しかったんですね」

■本因坊秀哉名人と打つ

 栄三には、囲碁なら自分がある程度まで教えることができるという自負もあったのだろう。海軍軍人としての夢は果たせなくなり、その分、情熱を何かに注ぎたいという思いがあった。それが「娘を棋士に」という目標につながった部分もあったのだと察する。

 また、女流棋士という職業に対する、憧れの気持ちも栄三にはあったのだろう。それも娘を棋士にしようと考えた動機のひとつとなっていたようだ。壽子が振り返る。

「沼津で父たちが中心になって囲碁大会を催すことになり、本因坊秀哉名人と女流棋士の伊藤友恵二段のお二人をお招きしたことがあったそうなんです。

 父は仲間と沼津駅まで、お迎えに行ったのですが、同じ汽車で秀哉名人と伊藤先生がお着きになると聞いていたので、プラットホームで二手に分かれてお待ちしていたそうなんです。秀哉名人は二等車から、伊藤先生は三等車から降りて来られるのだろうと思い込んでいたからです。そうしましたら、伊藤先生も秀哉名人とご一緒に二等車から降りて来られた。それを見て父は、『ほう』と思ったらしいのです。囲碁界ではそれだけ女流棋士の地位が高く、大事にされていると理解したのでしょう。

 大会では伊藤先生が指導碁を打って下さったのですが、地方の強豪や腕自慢たちが次々とかかっていっても、皆、簡単に負かされる。まったく歯がたたなくて、男の人たちが皆、女性の伊藤先生の前で首を垂れている。父はそれを見てますます、『女流棋士というのは大したものだ』と思ったそうです。それもまた、私を女流棋士にしたいと思った理由であると聞かされました。

 とはいえ、父は少し変わっていたんだとは思いますよ。やはり、当時、囲碁は大人の男性がやるものとされていましたからね。女性、それも小さな女の子に棋士を目指させる、というのは一般的なことではなかったですから。だいたい、子どもで囲碁を打つというのも、あんまり例がなかったです。特に地方では。ですから、私は子ども心に、何か自分は特別なことをやらされているんだ、何かに挑戦しなくちゃいけないんだ、と思っていました」

■本因坊秀哉名人と打つ

 親の期待に応えたいという意識がすでに壽子には芽生えていたのだろう。ちょうど壽子が小学4年生になる頃、一家は伊東から熱海へと移り住んだ。そして、この転居が思いがけず壽子の人生に大きく影響することになる。

「熱海には小菅剣之助さんという財閥の方の別荘がありました。この小菅さんは囲碁や将棋が大変にお好きだったんです」

 小菅は将棋の棋士として活躍し、関根金次郎と名人位を争うほどの腕前であったが、その後、将棋界を去って実業家となり一代で財をなしたという人物である。囲碁、将棋を好み、熱海の別荘では、棋士を招いて、度々碁会を開いていた。

「ある時、その小菅さんが、お屋敷に本因坊秀哉名人をお呼びになり碁会を開かれた。その頃には『熱海に囲碁を打つ女の子がいるらしい』と噂が立っていたようで、私にも来るようにと声がかかりました。父は呼ばれず、私だけでお屋敷に伺ったんですが、父は私を送り届けながら『落ち着いて打つんだよ』と一生懸命、言い聞かせてくれました。

 広間に通され皆さんが見守る中で、秀哉名人に六子(の置き碁。六子の石をあらかじめ碁盤上に置き、ハンデをもらい打つ、ということ)で打って頂いたんですが、それが自分で言うのもヘンですが、大変によく打てたんです。秀哉名人は私には何もおっしゃらなかったけれど、後で小菅さんに向かって、ずいぶんと私の碁を褒めて下さったそうです」

■これが運命の一局となる

 本因坊秀哉は、本名を田村保寿という。江戸時代から続く本因坊家の最後の家元であり、本因坊秀哉と名乗っていた。秀哉は自分の代で家元制を廃止することを表明し、以後、「本因坊」は大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社)が主催する本因坊戦というタイトル戦を勝ち上がった棋士が名乗ることのできる称号となる。前近代的な家元制度に自ら幕を引いた秀哉は、昭和12(1937)年1月1日には、自身の引退を発表。壽子が熱海の小菅家で本因坊秀哉との対局に臨んだのは、その直後で、同月の23日のことだった。

 この時、壽子は、まだ9歳。だが、これが運命の一局となる。

「この秀哉名人との対局が東京で評判になったそうなんです。私という存在を中央の囲碁界の方々に知って頂く、ひとつのきっかけになった。その後、3月6日に、東京で大きな囲碁の催しがあるから参加してみてはどうか、と声をかけて頂き、私は父と一緒に上京しました」

(石井 妙子)

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