昭和天皇の不興を買い「切腹自殺」の田中義一総理とは――記者が語る「死」のお詫び

昭和天皇の不興を買い「切腹自殺」の田中義一総理とは――記者が語る「死」のお詫び

戦後の東京裁判では「田中上奏文」も取り上げられた

■解説:資料なく自殺説は分が悪いが……

 現在の安倍晋三首相は「長州(山口県)出身で8人目」とされる。初代首相の伊藤博文、安倍首相の祖父の岸信介、弟の佐藤栄作は簡単に名前が上がるが、後の4人は? 山県有朋、桂太郎、寺内正毅、そして田中義一が正解。共通点は陸軍軍人だったことだ。田中の名前が海外で知られるのは「田中上奏文」(「田中メモランダム」)を作ったとされるためだ。

「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざるべからず……」に始まり、「日本帝国主義による世界侵略」の謀略の青写真とされる文書。1927年に田中首相が昭和天皇に極秘上奏した内容として海外で流布された。何者かが作った偽書であることはほぼ間違いないが、海外では「その後の日本はその通りになった」として、本物と信じる人が多い。

 陸軍機密費、松島遊郭、朴烈怪写真。田中内閣を揺るがした3事件はいずれもうやむやに終わった。田中首相は、最後は張作霖爆殺の処理で昭和天皇の不興を買って辞任。それから3カ月足らずのうえ、「側室」がいる「別宅」での急死だったため、「腹上死」など、さまざまなうわさが出た。しかし自殺という見方は、中島氏以外では、作家・松本清張氏が「昭和史発掘」の「満洲某重大事件」で、「同じことをある政治家の夫人から聞いたことがある」と書いているぐらい。「田中義一伝記」では主治医が心臓病と断言。「自殺説が巷間流布されたのは遺憾」として、原因は死亡直後、口が開かないように白い布であごを縛ったためのようだと説明している。前首相から前夜、「あす健康診断に来てほしい」と電話があったとも証言。自殺説は資料もなく分が悪い。さらに、見出しの「切腹」は「詰め腹を切らされた」意味としか受け取れない。

「昭和天皇実録」によれば、死去の知らせを受けた天皇は、「危篤に対し病気御尋」として侍医を派遣。翌々日には勅使として侍従を弔問に向かわせた。葬儀の日は午前中、「御沙汰書」を伝えて供花などを渡すため、別の侍従が訪問。午後は葬儀に侍従を参列させている。手厚い配慮には、辞任に追い込んだ自分の態度を「若気の至りであると今は考えている」(「昭和天皇独白録」)後悔があったのか。

小池新(ジャーナリスト)

◆◆◆

 政争苛烈の中で刀折れ矢尽きて謎の死を遂げた田中総理の秘密を当時の司法省詰記者が初めて公開する。

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「田中義一大将の切腹」

■政権争奪戦が苛烈だった最中の「不正暴露」

 大正末期から昭和初頭にかけて、憲政会と政友会が政権争奪に躍起になっていた頃が一番政争が苛烈で激甚であった。倒閣運動には手段を選ばなかったし、反対党のスキャンダルを暴き立てることなど平気であった。大正15年3月4日憲政会の中野正剛氏は第五十一議会で政友会総裁田中義一氏を総裁に擁立した政友会の小川平吉、小泉策太郎、秋山清氏等を査問すべしとの動議を提出し、かつ田中総裁に対する不正事実なるものを暴露して痛烈に攻撃した。

 田中総裁は大正9年から11年に亘るシベリヤ出兵の経費8億円のうちに含まれる機密費4000万円の中から約2000万円を陸軍次官山梨半造、高級副官松木直亮氏等と横領着服、3、4の銀行に個人名義で預金し、これを逐次公債に換えている。また政友会総裁就任の土産金300万円はこの公債を担保に神戸の金融王乾新兵衛氏から借出したものであり、山梨半造氏が政友本党(床次竹二郎派)の議員を誘惑した金もこの横領金の一部である。このほかシベリヤ出兵軍が露軍から分捕った金塊1000万ルーブルも行衛不明でこれも不正に処分された疑惑があると糾弾した。かりにも一党の総裁が国会の壇上から犯罪人呼ばわりされた例はない。政友会は顔色を失い、世論は沸立った。

■「生命の危険に遭遇するかも知れない」

 これに呼応して翌3月5日東京地方検事局に小山検事総長宛の告発状が提出された。告発者は元陸軍省大臣官房附陸軍主計三瓶俊治氏で、陸軍大将男爵田中義一、陸軍大将山梨半造両氏を背任横領の容疑で調べて貰いたいと云うのである。告発人は陸軍部内の廓清のために一身を犠牲にして敢えて告発すると云うのであった。

 検察首脳部は告発状の内容を検討した結果これを受理することに決し、主任検事に東京地方検事局次席検事石田基氏が任命された。石田次席は検察が政争の道具に使われることを虞れて極秘のうちに取調べを進める方針を立て、信頼している中島石雄部長検事と大河原重信検事の2人を補助に起用した。捜査に当っては秘密を厳守すること、『この事件は生命の危険に遭遇するかも知れないから慎重にことを運んで貰いたい』と注意した。こんな事情から部内でさえ中島、大河原両検事がこの告発事件に関与していることを知らなかった。

◆◆

 告発書の内容(要旨)

 (一)大臣官房主計の定員は二名で陸軍一等主計正遠藤豊三郎、二等主計三瓶俊治の両名が担任していた。大正九年告発人が主計に就任した当時主計室の金庫に八百万円以上の定期預金証書があって預金名義は田中義一、菅野尚一(軍務局長)、山梨半造、松木直亮、預金銀行は田中興業銀行(後に住友銀行と合併)、日本興業銀行、加嶋銀行、三菱銀行、安田銀行、三井銀行。

 (二)右定期預金は逐次公債に換えたが何れも遠藤豊三郎の個人名義で内密に日本銀行、紅葉屋株式会社、神田銀行から買入れた。其任に当ったのは遠藤と三瓶の両名である。

 (三)直接告発人が買入れたのは大正十年十月遠藤主計正病気欠勤の際、松木高級副官から田中興業銀行から現金を引出して日本銀行で公債を買って来て呉れと命ぜられた。官服では困る、私服に着替えて行くように注意されたので、陸軍省自動車にて自宅に戻り私服に着替え、銀行から引出した現金卅八万円(全部百円札)を持って日本銀行から一万円の無記名公債卅八枚を買入れ、松木副官に手交したことがある。

 (四)告発人が田中、山梨等の不正を看破した事情は長州閥以外の者には絶封に知らせなかったことにある。山梨陸軍大臣の下に次官として赴任して来た尾野実信大将には預金公債の有無は一切秘密にしていた。公債利子など遠藤、三瓶両名で整理したが、費途は全然不明である。遠藤主計正と茶飲話に我々がこの公債と現金を持逃げしたら彼等は処置に困るだろうと笑ったこともある。

 三瓶覚書の内容

 (一)シベリア出兵当時第十四師団附陸軍露語通訳官松井の言によれば、第十四師団が分捕した砂金は大部分露軍兵営内にあったもので、自分は其輸送に当ったが、第一回は八百万ルーブル第二回は二百万ルーブルであった。現地でこの砂金を通貨と交換するのは非常に困難で、支那人の富豪に頼んでも一日五十万ルーブル以上は不可能であった。金塊はこの砂金を熔かしたものだが、大部分は砂金のまゝ麻袋に入れ、袋の口を鉛で封じて長サ二尺幅一尺高サ八寸の木箱に五万ルーブル宛詰めて送った。

 (二)第十四師団は帰還の際、金塊の一部を梱包にして持帰り、宇都宮駅前菊地運送店倉庫に保管し兵隊に監視させていたが、金塊があると云う評判が高くなったので倉庫に放火、混雑中に他に運び出そうと計ったが成功せず、宇都宮怪火の一つになっている。その金塊は東京方面に移送されたと言われているが不明である。

 (三)大正十四年五月頃、某陸軍予備将官が三菱合資会社の重役を訪れ、三百万円相当の砂金を買取って呉れぬかと交渉した事実がある。その将官は陸軍の特別倉庫には、それ以上の砂金と金塊が貯蔵してあるとほのめかした。

 (四)シベリヤ出兵軍憲兵司令官吉弘少将の言によれば日本軍が押収した金塊の一部約百万円の金塊は、最初朝鮮銀行に保管させていたが、内地に移送する為整理委員とし山田軍太郎少将、五味為吉少将、直家主計監督が挙げられたが、当時陸軍大臣山梨半造は官用に托して門司に出張し来り自ら指揮して何処かに移送して如何に処分されたか不明である。

◆◆

■一身を賭した告発 緻密に進められた捜査の裏側

 如上の告発状を検事局に提出するとそのまま三瓶は行衛を晦した。三瓶の家では母親が病床に臥している上に妻は男子を生んだばかりで未だ産褥についていて、謂わば家に2人の病人がいると同じだった。家のことも気がかりだが軍首脳部と一党の総裁を告発したからには一身の危険から当分身をかくす外はなかった。三瓶は変装して中央線の大月駅で下り駅前の富士見旅館に変名して潜んでいた。検事局との連絡係は元大隈侯の秘書で雑誌「大観」の編集長相馬由也氏が当り、一身の保護には元参謀本部員小山秋作大佐(有名な日本海々戦の画家小山正太郎氏実弟)が引受けた。三瓶の身辺には政友会の院外団がつけ狙っていて一刻の油断も出来ない情況にあった。

 この事件は政友、憲政両党の政争と陸軍部内の長州閥、反長州閥の派閥闘争とが絡み合って表面化した産物でもある。検事局としても非常にやりにくい性質のものである。従って一身を賭してことに当る覚悟が必要でもあった。石田次席検事はこれを余人に任せず自ら陣頭に立って事件と取組んだのには、深く心に決するところがあったに違いない。と云うのは東京地方検事局では次席検事自身が率先して取調べの衝に当ることは前例がなかったからだ。

 三瓶は3月16日相馬氏に伴われて上京、中野駅からコッソリ検事局に出頭した。18日午後7時20分まで3日間構内に缶詰にして石田次席検事自身、告発するまでの事情と告発状の内容、それに三瓶覚書にある金塊問題など取調べは緻密に進められたようである。

■「30万ビタ一文欠けてもいやだ」三瓶告発の前に消えた”告発”

 検事局の活動に気をよくした告発者側では更に追打をかけるように8月11日三瓶俊治の竹馬の友、陸軍予備飛行中尉川上親孝が田中、山梨両大将のほか陸軍大将軍事参議官菅野尚一陸軍少将、松木直亮四氏を機密費横領で吉益検事正に告発状を提出した。

 内容は告発人が陸軍官房室に三瓶を訪問した際、金庫内の現金1300万円と公債500円を目撃したこと、遠藤三瓶両主計が公債の利札整理している現場を数回目撃したと云うことのほか、公債買入れの日と取引銀行とを詳細に記述し金塊事件では第十四師団参謀長生沼昭次大佐が田中、山梨両大将と共謀して横領したものであると、三瓶告発状を補足した程度のものである。

 ところが川上は三瓶告発の前年大正14年5月頃この一件の材料を政友会に売込んでいるのである。久原房之助氏は2、3万円なら出そうと云い、内田信也氏等は15万円まで出そうと言ったが、30万円ビタ一文欠けてもいやだと不調に終った因縁づきの男である。従って三瓶告発が政友会を刺戟したことは大きいのである。

■必死の内閣倒壊運動と焦る政友会

 そうこうするうち涼風が立つ頃になると中央政界の雲行は急に険悪になって来た。大阪地方検事局が手をつけた松島遊廓移転問題の汚職事件に連座した憲政会の長老箕浦勝人氏は、角南予審判事の証人尋問に際し箕浦氏に不利な証言をしたと云うので総理大臣若槻礼次郎内務大臣川崎卓吉両氏を偽証罪で告訴したことと、大逆犯人朴烈、金子文子両名に係る立松予審判事の怪写真問題とを取上げて、必死の内閣倒壊運動を展開して内閣の土台骨を揺すぶり始めた。

 これと同時に田中政友会総裁は床次政友本党総裁に対し両党の提携を申込んだ。政友本党は先ず朴烈問題のみに対し政府攻撃に協力を約したので、朴烈、ふみ子の怪写真問題は油を注いだように急に燃え上った。両党の非難は大逆犯人を予審検事室で写真撮影するさえ不穏当のところへ両名に対し恩赦を奏請するとは何事だと云う主張である。

 ここに至って政府側は如何に野党の気勢を挫くかの対策として、政権に飢えている政友本党に対しては政権盥廻しを匂わせ政友会に対しては告発事件の追及で鉾先を鈍らせようとした。時の司法大臣は憲政会でも策士を以て任じていた江木翼氏であった。

 この三党の鍔ぜり合いの中で一番重大な危機に直面していたのは政友会である。金蔓を土産物に総裁の椅子に坐って貰った田中総裁に機密費問題で万が一傷がつけばふらふら腰でいまにも倒れそうな憲政会内閣の政権は政友会を素通りして政友本党に行く公算は大である。しかも司法権は厳として行手に立塞がっている恰好である。政友会の焦燥は目も当てられぬ惨憺たる様相を呈していた。

 ところが10月30日の朝突如、石田検事が蒲田の田んぼの中で変死体となってあらわれた。当局は極力過失死を強調したに拘らず2、3日すると報知新聞は他殺らしいと報道した。吉益検事正は記者会見の際、他殺説を持出す者があると恐ろしい形相で『当局が百方手をつくして過失だと結論しているものを君達はどんな根拠があってそんなことを言うか』と噛みつくような見幕で叱りつけた。こうして新聞記者の耳を塞いで了った。かくて他殺説は全く表面から消え去ってしまった。(本号石田検事怪死事件参照)

 この突発的事件の為、金塊事件は、取調べに困難を来し、遂に、最近の造船汚職の指揮権発動の如く取止めと同様のものとなった。

■田中大将の死

 田中内閣の末路ほど見苦しいものはなかった。張作霖が爆死したのは日本軍の仕業であることが明るみに出て、田中首相は責任者の処罰を元老西園寺公に約束し、陛下にも奏上した。然し処罰問題も関東軍の強硬な反対で実現出来ず進退両難に苦しんだ。陛下からは田中の顔は見たくないとまで言われて、遂に詰腹を切らせられた。昭和4年7月である。更に内閣明渡しの後には疑獄で追打をかけられた。五私鉄疑獄では小川平吉氏が収監され勲章疑獄には天岡直嘉氏が続いて収監された。叙勲の御沙汰には総理大臣にも奏上の責任がある。弱り目に祟り目、人間落ち目になるとトコトンまで追詰められるものである。陛下の御信任を失ったら政治的生命を絶たれたも同然だしこの上疑獄で疑いをかけられることは人として堪えられないに違いない。

 昭和4年9月29日の朝、東京地方検事局の宿直室に麹町警察署から田中大将が変死したのに対し検事の立会を求めて来た。従来検死に立会を求めることはなかったのであるが、総理大臣の前歴者と云うので慎重を期して連絡して来たものらしい。その電話を受けたのが奇しくも機密費事件を担当した大河原検事であった。直ちに塩野検事正に報告して指揮を仰いだところ『検事は立会う必要はない、警視庁に任して置くがよかろう』と云う命令であった。

 ところが家族は大将が狭心症で死去したと発表した。この病名から今だに将軍腹上の死と云う芳しからぬ風評が流布されている。狭心症の発作が妙な時妙な場所で多く起るので、田中大将もそれだったのかと同病の経験者が連想して言い出したものであらう。

 所が事実は軍人らしく立派に自刃しているのである。筆者の知己であるI氏は特に田中大将と親しい間柄であった。大将が死んだと云う報せを受けた時には床屋にいて髯を片側剃り終ったところであった。驚いて半ペラの髯を残したままの顔で駈けつけて、遺骸をきれいにしたと云うことをI氏夫人から聞いたことがある。またその後に駈けつけた人は身体から首へかけて繃帯してあったが、狭心症と云うのはそう云うものかと首を捻っていた。これもほんとの話である。

 I氏も既に死去され、自殺を確認する資料とてない。大将の子息田中竜夫氏もこれをはっきり否定されているのだが、私はI氏の洩らしたこの事実を信じ、田中大将にまつわる不名誉な風評を雪ぎたいと思うものである。大将は天皇陛下の御不興に死をもってお詫びしたのではないだろうか。

(中島 亀次郎,小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

関連記事(外部サイト)