「父に愛されていたのは、私なんです」拳銃強奪事件・その他に見る、偉大すぎる親を持つ子の苦悩

「父に愛されていたのは、私なんです」拳銃強奪事件・その他に見る、偉大すぎる親を持つ子の苦悩

©iStock.com

 誇れるほどの父親をもつと、親離れしにくいものなのだろうか。先ごろ大阪で起きた、交番の警官を襲い拳銃を奪った事件の犯人は、Facebookのカバー画像に、父親がかつて役員をつとめたBS局の番組ロゴが入ったメモ用紙の写真を用いていた。偉大な父親とのつながりを示すモニュメントであるかのようだ。

 それは成功者であっても同様である。「父に愛されていたのは、私なんです」、かつてセゾングループを率いた堤清二は、85歳にもなってこんなことを話している。大実業家であった父の葬儀は豊島園の特設会場で行われ、5万人が訪れた。そのとき、葬儀委員長は異母兄弟の義明(西武グループの首領)がつとめ、あたかも正統な後継者は彼であると示されたかのようであった(注1)。そのことに堤清二は生涯を通じて抗おうとしたかのようである。

 一生、親がついてまわる人生。そんなことをおもってしまう。

■川崎事件の影響が取り沙汰された元農水事務次官事件

「元国のトップ」と父親のことを称した44歳の「引きこもり」が、農水省事務次官であった父親に殺されたのは6月1日のことであった。

 殺害された男性は生前、「私の本名や家族を知ったら驚きますよ」とオンラインゲームで知り合った女性にダイレクトメッセージを送っている。国民的スターや大物政治家ならいざ知らず、農水省の元事務次官くらいでは、たいして驚きはしないのではないかと思うところだが、そうまで言ってしまうほど、父親を仰ぎ見て、またその威光を背景にして生きていたようだ。

 この事件の4日前に、川崎市で「引きこもり」の男が通学中の小学生ら20人を殺傷する事件が起きたこともあって、SNSでは発生直後からその影響を詮索するむきがあった。

 そうした邪推に応えるかのように、「運動会の音がうるせえ。子供らをぶっ殺すぞ!」と言う息子の姿に川崎での事件の殺人者が重なり、父親は犯行を決意したと報じられる。

 するとネットでは未然に大量殺人を食い止めるべく行ったとして、親のつとめを果たしたなどと褒めたたえる声があがる。殺人者の実妹も、「兄は武士ですよ。追い詰められて、誰かに危害を加えてはいけないから最後は親の責任で(長男の殺害を)決めたのでしょう。それは親にしかできないことです」と兄を擁護する。

 しかしながら警察の取り調べでは「長男を刺さなければ、自分が殺されていた」とも供述したり、息子が激しく暴れた後に「今度暴力を受けた時は危害を加える」とほのめかしていたりと、たんに家庭内暴力に耐えきれずに起きた殺人ともとれる。

■マスコミは世相と絡めた動機を探すが……

 思い返せばこれまた元事務次官がらみの事件だが、08年に厚労省元次官が相次いで殺傷された際には、「消えた年金」が問題になっていたりしていたことから、「年金テロ」と深読みされた。しかし犯人を逮捕して取り調べてみると、40年前に保健所に愛犬「チロ」を殺されたことへの報復であったと判明する。あるいは秋葉原通り魔事件も「派遣切り」などの社会問題と絡められた動機を推測されたが、後の公判でそうでもないことがわかる。

 犯罪は世相のうつし鏡のようでいて、当事者からすれば、往々にして殺人はいたって個人的なものであるようだ。くだんの事件が家族同士の葛藤のすえに起きたように。

■偉大な親を持って苦労した人たち

「親が偉大」でいえば、それこそ長嶋一茂は「ミスタープロ野球」とまで呼ばれた長嶋茂雄を父にもつ。いい大人になっても自宅の壁に「バカ息子」と落書きされてしまう長嶋一茂であったが、高校時代、「長嶋の息子のくせに、下手だな」と野次られたという。

 しかしそれは無理もない話である。長嶋一茂は9歳のとき、野球を止める決意をし、高校になってあらためて始めたのだから。少年野球をはじめるなり、「長嶋の息子」というだけの理由で、監督からは父親とおなじ「三番・サード」を担わされ、苦痛だったという。おまけに報道陣にまで囲まれる。

「マスコミの輪に囲まれたとたん、すっと友達がいなくなってしまう。これはきっと囲まれた人間じゃなきゃわからない、本当に寂しい経験なのだ」。9歳にしてそんな思いをし、「自分さえ野球をやめれば、このすべては終わる」ということでやめてしまう(注2)。そこで父親や自分の境遇を恨んだり、グレたりしても不思議ではない。

 ところが、野球をやるのが宿命であるかのようにふたたびグラウンドに戻り、プロにまでなってしまうのだからたいしたものだが、それでも「親の七光り」と思われがちなのだから、気の毒な話である。

 これまた野球選手親子の話だが、野村克也の息子・野村克則は現役時代、結果が出なければ、「監督にひいきをされて試合に出ている」とマスコミに叩かれ、逆に活躍すると「カツノリの活躍が、チーム内に不協和音を生む」と叩かれる。「いったいオレはどうすればいいんだ」、そう思ったこともあるという(注3)。

■両親に暴力をふるいながら、「おれの人生はなんだったんだ」

 なにをやっても親がついてまわる人生がある。親は親、子は子とわかっていながら、周囲は身勝手にも、子供が親のようになるものだと期待し、それがプレッシャーとなって、ときに人生を歪ませてしまう。親は親で、子が弱みや悩みになりもする。

「どんな家にも問題はある」とは、森健による小倉昌男の評伝『小倉昌男 祈りと経営』にある有名な一節だ。成功した起業家であっても、いくらカネがあっても、どんな家庭にも問題はある。

 それは老境をむかえた元エリート官僚の家も例外ではなかった。

「おれの人生はなんだったんだ」。農水省元事務次官のニュース記事の見出しでこの言葉をみたとき、てっきり事務次官にまでなりながら殺人者に堕ちた父親の発言かとおもってしまったのだが、実際は息子のものであった。そう叫びながら両親に暴力をふるったという。息子のみならず、父も母親も、それぞれの心うちにこの言葉があったろう。こうまでひとを苦しめる親子とはいったいなんなのかと、おもってしまう。家族とは「業」であるかのようだ。

?

(参考)週刊文春2019年6月13日号・20日号・27日号
(注1)児玉博『堤清二 罪と業』文藝春秋・2016年
(注2)長嶋一茂『三流』幻冬舎・2001年
(注3)野村克則『プロ失格』日本文芸社・2011年

(urbansea)

関連記事(外部サイト)