待ってるだけじゃ「哲学」はやって来ない――哲学者・國分功一郎インタビュー #1

待ってるだけじゃ「哲学」はやって来ない――哲学者・國分功一郎インタビュー #1

©榎本麻美/文藝春秋

哲学――その難解なイメージとは裏腹に、多くの人が哲学に興味を抱く「哲学ブーム」が過去から現在まで繰り返されてきた。今また、哲学が必要とされている時代になっているのではないか、その背景には何があるのか――。哲学者インタビューシリーズ第1回にお話を聞くのは、『スピノザの方法』で鮮烈なデビューをし、『暇と退屈の倫理学』では人文書として異例の話題を呼んだ気鋭の哲学者・國分功一郎さん。最新刊『中動態の世界 意志と責任の考古学』で“失われた文法・中動態”から新しい哲学を論じた國分さんは、いかにして哲学を志したのか、いま何を哲学しようとしているのか?

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■“哲学”ひとつに“安住しない”研究姿勢

――今日はなぜ國分さんが哲学者になったかをお伺いしようと思いまして。

國分 いや、哲学者になろうなんて思っていなかったんですけどね(笑)。

――大学は政治学科をご卒業されていますが、哲学よりも先に政治に興味を持たれたのですか。

國分 大学の学部に関しては何か強いモチベーションがあったというわけではないんですよ。僕は早稲田の付属校出身なんですが、成績は良かったので学部はどこにでも行けたんです。文学部も良いなと思ったりもしましたが、叔父に「迷っているなら偏差値が一番高いところに行けばいい」と言われて(笑)。政治に関心はあったので、政治学科に進みました。具体的にどう関心を持っていたかは覚えていないんですが、ごく普通の、なんか世の中に対して苛立っている青年でした。だから自然と、世の中で起きていることや政治には関心がありましたね。あと幼い頃から教員になりたいとは思っていたんです。高校の社会科の教員免許も持っています。

――学部時代の政治の勉強はいかがでしたか。

國分 残念ながらあまり関心を持てませんでしたね。政治学を勉強しても政治のことが分かるとは思えなかった。ポリティカル・サイエンスという意味での政治学は20世紀に発達した新しい学問なので、そのせいもあったかもしれません。

――それで興味がグッと哲学の方へ?

國分 政治思想、政治哲学に関心を持ちました。政治学は新しい学問だけれども、政治哲学は古代からあるので本当に深くて、面白い。でも、日本の大学で哲学科に行ったことはないんです。日本の大学では政治、フランスの大学で哲学、そして今は経済学部で教えています。そんな風にひとつの領域に安住しないやり方は、僕にとって居心地が良いですし、心がけていることでもあります。哲学の話をするにも、経済の話や言語学と絡めながら考えるというのが僕のスタイルですね。常に他分野との緊張関係は持っていなければと思っています。

――他分野というと、新刊『中動態の世界』はもともと医学系の雑誌に連載されていたそうですが、なぜ医学系の媒体に?

國分 『精神看護』という雑誌で連載しました。医学系の出版社から本を出すのは初めてでしたが、きっかけは『暇と退屈の倫理学』という本を出した時に、とある講演会で小児科医で研究者の熊谷晋一郎さんや、この本の担当編集者の白石正明さんにお会いしたことなんです。熊谷さんはアルコールや薬物などの依存症に関心を抱いていらして、『暇と退屈の倫理学』が依存症を考える上で役に立つと仰ってくださった。そこから依存症に興味を持ちました。あとがきに詳しく書きましたけれども、ぼんやりと考えてきた中動態の問題が依存症を考える上で決定的に重要だとその時に気付いたんです。その後、白石さんから正式にオファーを受けて始めたという感じです。

■「中動態」と「依存症」との出会い

――「依存症」と「中動態」にどのような関係が?

國分 アルコール依存や薬物依存について考える際、多くの場合、依存に陥った「責任」は本人にあると考えられますよね。依存から復帰しない人のことを「意志が弱い」と非難したりします。しかし、人がアルコールや薬物に頼らねばならなくなってしまうのは、それに頼らないとどうにもできない苦しさを抱えているからです。つまり、自分の意志で能動的に依存し始めるのではないんです。にもかかわらず、それを自分の意志で能動的に止めろといわれる。自分の意志で能動的に始めたわけでないものを、自分の意志で能動的に止められるわけがない。ところが、僕らは「能動性」とか「意志」といったものを強く信じている。ほとんど信仰に近いと思います。ではそこまで僕らが強く能動性や意志を信じてしまっているのはなぜか? 僕はそこに言葉の問題から迫ろうとしたんです。

 僕らは英文法などで能動態と受動態について学びます。この能動と受動という区別は非常に強い支配力を持っていて、僕らは行為を必ずそのどちらかに分類してしまう。その理由の一つに、僕らが用いている言葉そのものが、能動と受動の区別に依拠していることがあるのではないかと考えたわけです。そのように考えるきっかけをくれたのが、中動態という態の存在です。かつては能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別というものがあった。その言語の中では、行為は今とは全く別の仕方で分類されていました。そしてその分類を見ていくと、意志というものがその言語の中では問題にならないことが分かる。能動と受動の対立は、自分で自発的にやったのかそれとも強制されたのかという対立と並行しています。能動と受動の対立が現れるのと並行して、意志の概念が強く信じられるようになったのではないかと本の中では論じました。

――「中動態」という概念には、大学生の頃に興味を持たれたそうで。

國分 はい。中動態のことを初めて知った時には非常に興奮しました。これこそ自分が論じるべきものだと思った。それからずっと中動態を気にはしてきたんですが、なかなか手をつけられなかった。でも中動態のことは、やらずには死んでも死にきれないという思いはずっとありましたね。依存症との出会いがそこで一押ししてくれたという感じです。今こそ中動態について論じなければならないと思った。でも、書き始めるにあたっては、担当編集者の白石さんとの出会いが非常に大きかったです。彼が応援してくれたおかげで最後までやり遂げられた。ものすごい達成感があります。今死んでも悔いはないというか(笑)。

■最近は医学に興味があるんですよ

――ハハハ。ひとやま越えられた感じだったんですね。この本をお書きになってより一層、医学の分野に興味が広がったのではないですか。

國分 そうですね、最近は一般医学の方に興味があるんですよ。

――一般医学というのはつまり……。

國分 疲労とかストレス、風邪なんかもそうですが、ごくありきたりの日常の中にあるものを考えたり扱ったりする医療や医学ですね。哲学と医学というとずっと精神分析が大きな力をもっていました。というか、20世紀の哲学は精神分析の知識を抜きにしては絶対に理解できません。僕もそういう勉強をしてきたわけですが、精神分析と哲学が接近した際に論じられてきたのは非常に極限的な病のことでした。具体的には統合失調症です。70年代ぐらいから、あるいはもっと前からも、この極限としての統合失調症にこそ人間の真理があるという考えが支配的でした。それにはもちろん一定の意義がありましたし、その考えのもとで素晴らしい達成がいくつもなされました。今でもこの考えは重要です。けれども、僕はそれだけじゃなくて、もっと日常に近いもの、一般医療とかそういうものにも関心がありますし、もっと哲学がこれを論じなければならないと思っているんです。退屈というありふれた現象をとことん論じた僕の『暇と退屈の倫理学』の根底にあるのもそういう関心ですね。

■自分の体との対話というのはどこか中動態的ですね

――そういった一般医学に対して具体的にどう興味があるのですか。

國分 たとえば、アスペルガー症候群当事者である綾屋紗月さんは、「おなかがすいた」という感覚をうまく抱けないと書いています(『発達障害当事者研究』医学書院)。「胃のあたりがへこむ」とか「胸がわさわさする」とか「なんとなく気持ち悪い」とか「イライラする」とかそういう諸々の感覚を総合することで「おなかがすいた」という感覚が成立するのだとしたら、その総合がうまくできない、あるいは総合に時間がかかるということです。これ、僕もよく分かるんです。なんかイライラして家族に当たったりしていると、家族から「おなかすいてるんでしょ?」とか言われて、「ああ、そうか」と気づく。それに似ているんですが、疲れもよく分からないんです。最近は減ったんですが、僕、たまに倒れるんですよ、突然。

――それは疲労が溜まっていることに気づかずに、休まず生活し続けるからなんですか。

國分 そうですね。風邪をひいたり「疲れたな」と感じるというのは、体から「休みなさい」というサインが出てるってことですね。でもそれをうまく受け取れない。それをうまく受け取れていれば突然倒れたりしないですむんですが。自分の体との対話というのはどこか中動態的ですね。能動でも受動でもない。

■「君はドゥルーズをフランス語で読めるのか!」って驚かれて驚いた(笑)

――本当に色々なことが中動態で説明できそうですね。

國分 中動態のイメージを手にすると、いろいろな物事の見方が変わってくると思います。ただ、僕が本を書くときには、まずはイメージを排して厳密にやるということを徹底しました。というのも、中動態をろくに定義もしないでイメージだけで論じている研究者はたくさんいたんです。それではダメです。一度厳密に定義した上ではじめてイメージとしても使えるようになる。とすると、まずは中動態があった言語を勉強しなければならないわけで、僕も『中動態の世界』を書くために、アテネ・フランセに毎週通ってギリシア語を勉強したんです。

――えっ、わざわざアテネ・フランセへ。やはり哲学を研究されるにあたって語学は必須なんですね。

國分 実際のところ、英語圏だと原典を読まないといけないという気持ちはあまり強くないように感じます。僕の研究対象の1人はフランスの哲学者のジル・ドゥルーズですが、あるとき、「君はドゥルーズをフランス語で読めるのか!」って驚かれて驚いたことがあります(笑)。でも、そこは学者の倫理として譲れませんね。フランス語が読めなければドゥルーズは分からないとは全く思わないけれども、フランス語で読めた方がいいですよね。フランス語訳でしか谷崎潤一郎を読んだことのない専門家がいたら「ちょっとなぁ」とは思うわけです。今は英語での発信が強く求められていて、それは必要だと思う一方、英語さえできればいいという風潮には反対の気持ちです。

――では英語も勉強されて。

國分 ここ3、4年くらいは割と英語を一生懸命勉強してますね。2年前には1年間ロンドンで生活しましたし、海外の学会発表もなるべくたくさんやるようにしています。人文系だと僕より下の世代があまり海外に出ないという感じがしていて、僕がなんとか先陣を切って、彼らがもっと海外に出て行きやすい雰囲気や環境作りをしたいという気持ちもあります。

■僕の本は推理小説みたいだと言われる

――哲学の学会ってどんな感じなんですか。想像がつかないんですが……

國分 僕が行くものだと、100人から200人ぐらいがあちこちから集まって、毎日、朝から晩まで、いくつかの部屋に分かれて発表をしているという感じです。またたくさん集まりますので、面白いものもあれば面白くないものもある。僕は内容だけじゃなくて、伝え方も工夫しています。聞いている側にハッとしてもらえなければ残らないんですね。単に原稿を読んでいるだけじゃ伝わらない。言葉遣いとか息継ぎのタイミングとかスピード感が大事だと思います。レクチャーとパフォーマンスは切り離せませんね。ドゥルーズも哲学の授業をするには、独自の発声法が必要だと言っていますがその通りですね。

――哲学というと1人で作業するイメージが強いですが、聞き手にうまく伝えることも大切なんですね。

國分 もちろん1人で考える作業が基本です。1人でいることができなければ哲学はできません。でも伝える作業も哲学においては大切です。本は特にそうですね。僕が本を書く場合にはストーリーを持たせるということに気を配っています。読者がそのストーリーにノって、最後まで読みたいと思えるように書いています。よく僕の本はミステリー小説とか推理小説みたいだと言われるんですけど、とてもうれしいです。

■本を書くことは“オン・ザ・ジョブトレーニング”

――本のデビューは『スピノザの方法』ですよね。

國分 これは博士論文ですけれども、最初の本はそういうカタい本にしないといけないという気持ちがすごくありましたね。2作目である『暇と退屈の倫理学』の準備はかなり進んでいたし、実際、どちらも2011年に出版しているんですが、著作の発表の順番には気を遣いました。最初にカタい本を出しておかないと、色眼鏡で見られてしまいますからね。でも、『スピノザの方法』を出した時点でとてもいい評価をいただいて、いろいろ声をかけていただけるようになった。小島慶子さんの『小島慶子キラ☆キラ』というラジオ番組に呼んでいただいたり。『キラ☆キラ』の影響力は大きかったですね。あの番組に出て以降、新聞社からも頻繁に連絡が来るようになりました。そうなった後で『暇と退屈の倫理学』という一般向けの哲学書を出版できたので、読者が広がりましたね。

――イメージには気を遣われていたんですね。

國分 本を売るからにはいろいろなことに気を遣わなければなりません。学会発表で単に原稿を読めばいいわけではないのと同じです。『暇と退屈の倫理学』を出してからは、NHKの『哲子の部屋』に出させていただいたり、色々と活動の幅が広がりました。

――ずいぶんたくさん本を出されていますが、よくこんなに……すごいなあと思うんですが。

國分 昔読んだんですが、批評家の柄谷行人も若い頃、小林秀雄のことを見て「なんでこんなにたくさん書けるのだろう」と思っていたらしいんですが、僕も柄谷行人のことを見て「なんでこんなにたくさん書けるのだろう」と思ってました(笑)。自分が本を書くようになって分かったのは、オン・ザ・ジョブトレーニングに似ていて、本を書けば書くほど書くべき問題に気がついていって、どんどん書かなければならなくなっていくというそういうサイクルがあるってことなんですね。書きながら書くべきものに更に追い立てられるというか、そういう感じで、どちらかというと「書きたい」「書かねばならない」と思っているものに追いついていないんです。どんどん新しい問題に巻き込まれるというか。

■「暇と退屈」の発想を与えてくれた岐阜県出身の山下君に感謝してます

――その問題に巻き込まれて、考えて、どこかで分かる瞬間というのがあると思いますが、それはどんな時なんですか。

國分 「分かった」と思う瞬間はいろいろありますし、いろんなパターンがありますね。『中動態の世界』ではスピノザについての章が一番苦労したんですが、半年以上、同じ章を何度も書き直していた。でも、あるとき、スピノザの動詞の使い方の特徴に気がついて、「ああ、ここに中動態があったんだ!」と分かった。それが分かって、なんとかその章を書き終えることができました。人に教えてもらえることもあります。未だに覚えているのが『暇と退屈の倫理学』を書いている時のことで、この本の内容については自分が勤務している大学で講義もしていたんですが、それに対する学生の感想文に「先生の説明で暇と退屈の違いがわかりました」とあって、「そうだ、暇と退屈の違いをはっきり定義すればいいんだ!」と気付いた。名前も覚えています。岐阜県出身の山下君の感想文でした。山下君には大変感謝しています(笑)。「分かった!」という感覚はとても大切で、その瞬間が訪れるまで待てるかどうかが、良い本を書けるかどうかの基準だと思うんですね。論文とかを読んでいても、「あ、この人、ここで折れたな、分かるのを待てなかったな」って思うことがあります。

――分かるまで待つって忍耐力の勝負というか、とても辛い時間だと思うのですが……。

國分 辛いんですよ。本を書いている最中は必ず一度は、「こんな本はもう価値がない。全然意味がない。絶対書きあがらないし、もうダメだ」って思う。今まで出した全ての本で、毎回そう思ってましたよ、もうダメだって。

――そこを乗り越えて本が完成するんですね。どうやって乗り越えるんですか、ひたすら待つ……

國分 いえ、さっきは「待つ」と言いましたが、待っているだけじゃダメです(笑)。勉強するしかない。とにかく本や論文を読むしかない。自分の中に閉じこもって1人で考え続けてもダメなので、外からの情報を入れるんです。出会いのためには準備が必要だとドゥルーズも言っていますが、本当にその通りだと思います。困ったら読む、僕はそうしています。

――これまで繰り返し読まれている本はなんですか。

國分 スピノザの『エチカ』です。よく持ち歩いています。本の中にはかなり書き込みもしていますが、これを読んでいる時は基本に立ち返る思いがしますね。

(#2に続く)

写真=榎本麻美/文藝春秋

こくぶん・こういちろう/1974年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、高崎経済大学准教授。主な著書に『スピノザの方法』、『暇と退屈の倫理学』『来るべき民主主義』などがある。今年3月には『中動態の世界 意志と責任の考古学』を出版。

(「文春オンライン」編集部)

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