79歳“在野の昭和史研究者”保阪正康 妻子持ちの32歳で大学院への道を捨てた日

79歳“在野の昭和史研究者”保阪正康 妻子持ちの32歳で大学院への道を捨てた日

保阪正康さん

 呉座勇一氏『応仁の乱』、百田尚樹氏『日本国紀』などを皮切りに、歴史本ブームは続いています。著書『 昭和の怪物 』シリーズは累計22万部、昭和史研究の第一人者である保阪正康さんは、こうしたブームやそれぞれの立場が持つ歴史観についてどう考えるのか。非アカデミズムの立場だからこそできる、歴史との向き合い方、付き合い方とは? 聞き手は近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。(全3回の1回目/ #2 、 #3 へ続く)

■はじめから昭和史ということを考えていたわけじゃない

――国会図書館のサイトで保阪さんの著作を検索しますと、単著、共著、文庫化などを含めて314件もヒットしました。単著だけで100冊以上、その多さにあらためて驚きました。しかも医療問題から会社研究まで幅広い。ジャーナリスティックな手法で、なぜとりわけ昭和史についての取材と執筆を続けてきたのか、伺えたらと思います。

保阪 それはまた単純な話なんです。昭和45(1970)年11月25日、三島由紀夫が割腹自殺をした事件がありましたね。その時に、「ともに死なう」と三島が自衛隊員に呼びかけている檄文を読みました。ともに死のう、ということです。

 それを読んで「昔、そういえば『死のう団事件』ってあったな」と思い出した。国会図書館へ行って調べたら、本が書かれていない。じゃあ僕が調べて本にしようと思ったんですね。当時の資料を丹念に調べ、生存者を探して取材した結果が最初の本になりました(『 死なう団事件 』)。だから、はじめから昭和史ということを考えていたわけじゃないんです。

――「死のう団事件」とは、1937年2月17日に「死のう、死のう」と声をあげながら、「日蓮会殉教衆青年党」メンバー5人が、国会議事堂の前や皇居前広場などで割腹自殺を図った事件ですね。

保阪 そうです。『死なう団事件』を出版した版元の社長が、「松本清張さんの推薦文をもらおうと思ってゲラをわたしている」と言う。しかし面識がないから「保阪君、知らないか?」と。結局、文藝春秋の担当編集者に依頼したわけですが、松本さんが推薦文を書いてくださった。「新進気鋭の記録者として、今後の活躍を期待できる人だ」というんですね。

 僕はそれを読んで、「よし、それなら記録作家になろう。『者』を『作家』にしてやろう」と考えました。僕は、二・二六事件を取材調査した松本さんのように実証的な仕事をやろうと思ったんです。1回だけ、松本さんのところへ挨拶に行きました。「ああ、そう」という感じで多くは語らなかったけれども、僕はその推薦文がすごく嬉しかった。

 そこからですよ。「年表の一行を一冊の本に」という構想を持って、小説じゃなくてノンフィクションで書こうと思ったんです。アカデミズムの世界にいる学者がやっていないようなこと。なるべく多くの人に会って、話を聞いて。「聞き書き」によって歴史を補完していこうと。

■最初の本が書店に並んだ当時、妻子持ちの32歳

保阪 最初の本が書店の店頭に並んだのは昭和47(1972)年1月で、当時妻子持ちの32歳。昔、短期間でしたが大学院に行ったこともありましたけど、この時に完全に大学院は捨てましたね。

――この道を進んでいこうと。

保阪 完全に物書きでやろうと。こう決断したという理由はもう一つあります。本にはその人物の行動について一行も書かなかったのですが、「死なう団」の取材を進める中で、おそらく組織に警察のスパイがいたのだろう、と気がついたんです。さらに資料を読んでいくうちに、おそらくこの人なのではないか、というところまで何となく分かってきました。東京の下町にある老人ホームまでその人物に会いに行って、雑談の時に何げなく聞いたら、「一生、心にわだかまっていたことが晴れたよ」と彼は別れ際につぶやいたんですね。

 本が出版されて半年くらい経った頃、その人は飛び降り自殺をして、亡くなったんです。僕はものすごく衝撃を受けて、自分が書いた本で人が死ぬというのはどういうことかと、自問自答しました。で、それは仕方がないと覚悟を決めたんですね。何が起ころうと、俺はやっぱり書きたいように書く。その代わり、絶対にうそは書かないと。

■僕は、歴史修正主義のことを歴史だと思っていないです

――そのように歴史や昭和史に向き合ってきた立場からすると、昨今の歴史修正主義的な言説はどうご覧になっていますか。「歴史は物語だから、自由自在に書いていい」といった態度も散見されますが。

保阪 僕は、歴史修正主義のことを歴史だと思っていないです。歴史修正主義の人は唯物史観の裏返しみたいなもので、彼らは初めから旗を立てるんですね。例えば「日本は侵略していません」という旗を立てて、旗に見合う史実を集めてくる。これは歴史じゃなくて、政治ですよね。

 一方の唯物史観は、演繹的に歴史を見るでしょう。つまり、ある種の法則、原則、摂理を作って、史実を当てはめて歴史を見ていく。「歴史は科学」だと彼らは言うんだけど、僕はそういう演繹的な方法ではなく、帰納的に物事を進めていきたいと思うんです。下からできるだけ史実を純粋に調べていって、解釈を試みたいと思ってきました。

■左翼の怠慢さが、現在の平和不信という空気をもたらした

――保阪さんは左翼陣営の歴史観に関しても「安易に『平和』という言葉を使ってきた左翼の怠慢さ、傲慢さが、現在の平和不信という空気をもたらした面は予想外に大きい」(『 ナショナリズムの正体 』)と批判的ですが、保守的な歴史修正主義についても同じようなことを思われていますか?

保阪 歴史修正主義と唯物史観の人を一緒にするとちょっとかわいそうですけどね。歴史修正主義は、心理的な……これはうまい言い方をすることが難しいですが、一つの病理だと思っています。歴史修正主義というのは、政治に歴史を持ち込んで自分たちの心理的なフラストレーションの解消に使っているだけだから、僕はあまり接触していないですね。

――新刊の『 令和を生きるための昭和史入門 』では、仏教用語の「顕教」と「密教」という表現をされています。

保阪 「オモテ」の言論と「ウラ」の言論とも言いかえられますね。昭和10年代の日本では、オモテにあたるのは「軍事主導体制」や「帝国主義」などへの賛歌でした。それを政府やメディアが「顕教」にのっとった言葉で世論を動かしていた。これが劇的に変わったのは、昭和20(1945)年の敗戦でしょう。「密教」であった「民主主義」や「反軍主義」がオモテとなり「戦後民主主義」になりました。一方、戦前・戦中で主流だった考え方はウラに転じました。

■いわゆる「右傾化」とは、権力が「密教」に近づいた結果

――「あの戦争は聖戦だった」「南京事件はなかった」と語る人たちは、昔から右翼陣営などにいました。かつては「密教」だったのかもしれませんが、今では安倍首相の周辺にそうした考え方をする人たちが集まってきて、急速に影響力を増しています。

保阪 そうですね。結局のところ、いわゆる「右傾化」というのは、「権力」が密教に近づいた結果、戦後の「顕教」であり続けた「戦後民主主義」が後退したということにほかならないと思います。そして嫌な表現だけど、「密教」的なものを求める社会全体がある病理を抱え込んでいると思う。その理由は何かといったら、唯物史観の論者があまりにも歴史を不遜に扱ってきたから。だからここでもう一度、僕らは足で調べた事実をもって、実証主義的に歴史を見ていく。こういうことが、必要なんじゃないでしょうか。

 僕はよく言うんだけど、「記憶」が父親、「記録」が母親ならば、その2人の間には「教訓」あるいは「知恵」という子供が生まれるんだと思うんです。だから、記憶と記録はどちらも大事だと言いたい。そしてそれを帰納的に突き詰めていって、多様な解釈を通して何か教訓が出てくればいい。平和とは、その最後の段階の言葉だと思っています。

■アカデミズムではなく、ジャーナリズムにいる僕らだから言えること

――今、実証という言葉が出ましたけれども、歴史修正主義への反動として、アカデミズムの実証主義的な歴史学をことさら称揚し、さらに進んで、作家やジャーナリストの歴史研究や歴史著作まで否定的に捉える向きもありますね。非アカデミズムだからこそできる、歴史との向き合い方、付き合い方はあるでしょうか?

保阪 僕らは在野でジャーナリズムの仕事をしているけど、場合によっては、アカデミズムの領域にも入っていきますし、その逆もあります。ジャーナリズムとアカデミズムが重なる部分、ここがバランスを取るためには非常に重要です。僕らがハンターのように資料を集めて、提示しますよね。もちろん、僕らも料理するのですが、理論的咀嚼という料理の仕方、つまり資料を多角的に読むことについては、アカデミズムのほうが優れていると思う。

 その代わり、農本主義者・橘孝三郎がどういう息遣いで、「先生、最終的になぜ五・一五事件に参加したのですか」「それはな、君、青年将校の目がきれいだったからだよ」と語ったのか。これはアカデミズムではなく、ジャーナリズムにいる僕らだから言えるんです。

――かつては、雑誌などが両者を引き合わせる場所になっていたと思いますが、最近はそういった場所が減り、どんどん分かれていってしまっているように見えます。例えば証言をせっかく取ってきたのに、その証言が客観的に記録されていないから、捏造したんじゃないかと言う人がいたり。そういった傾向については、いかがですか?

保阪 僕もそれは感じますよ。アカデミズムの人の中にはジャーナリズム的な手法、ジャーナリズム的な書き方にものすごく嫌悪感を持っている人がいることは、文章を読んでいてすぐに分かる。それはそれで分かる。しかし、例えば一橋大の吉田裕さんは、「保阪さんたちがいるから、我々には座って資料を読むことのできる時間がある」ということを言っていました。東大の加藤陽子さんなんかも、僕らのような存在を認めているように思う。そういう人たちと僕らは友好的なんだけど……。

■「初めて東條の実像を書いてくれた」歴史学者からの手紙

――歴史研究の専門化・細分化が進み、「小粒」になったといわれる一方で、これまでが大雑把すぎたとの批判もありますね。

保阪 確かにそういう意味でも、アカデミズムとジャーナリズムの分断はあるのかもしれません。ただ、以前に政治学者の升味準之輔氏から手紙をもらったことを思い出しますね。『 昭和天皇とその時代 』について僕が書評を書いた時のことだったんですが、「あなたの書評に私は納得するし、よく読んでくれた。うれしい」というような手紙をくださった。もし学者同士であれば、立場によって評価が変わるのかもしれないですが、僕は何の関係もないから、「一人の知識人の生きる姿が、なるほどと納得できる」と書いた。そういう率直な読み方をしてほしかったんだなと思って、驚いたことがありましたね。

 それから、『 東條英機と天皇の時代 』を出版した時は、歴史学者の家永三郎氏から長文の手紙が出版社気付で届きました。手紙には、初めて東條の実像を書いてくれた、という感想と、父親の思い出が綴られていました。父親は東條と前後するころに陸軍士官学校を卒業した軍人だったそうです。僕は家永氏の本に対してはあまり熱心な読者ではなかったから、何とも言えない気持ちにもなったんですが、しかし好き嫌いは別にして、やっぱりそこにお互いに礼節というのが通い合いますよね。「ああ、読んでくれたんだな」と。だって、あなたの場合もそうでしょう? 中には礼節を尽くす人、いるでしょう。

――はい、もちろんいます。

保阪 見えないところで礼節を尽くす人ってちゃんといるんですよね。だから、そういう人はやっぱり信頼できる。たとえ嫌いであってもね。

写真=佐藤亘/文藝春秋

ノンフィクション作家・保阪正康が語る「『昭和史』からの教訓と、平成の天皇との私的な懇談」 へ続く

(辻田 真佐憲)

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