「歴史家」保阪正康が明かす「フリー独立前、20代に電通PRセンターで見聞きしたこと」

「歴史家」保阪正康が明かす「フリー独立前、20代に電通PRセンターで見聞きしたこと」

保阪正康さん

ノンフィクション作家・保阪正康が語る「『昭和史』からの教訓と、平成の天皇との私的な懇談」 から続く

 元首相、陸海軍軍人ら約4000人を取材してきた、昭和史研究の第一人者である保阪正康さん。出版社勤務を経て、フリーのノンフィクション作家として著述業を続けている保阪さんに「歴史家」としての歩みを伺いました。聞き手は近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。(全3回の3回目/ #1 、 #2 から続く)

■短い原稿は、iPadで書きます

――保阪さんは、今でも原稿は手書きですか?

保阪 いえ、昨年の夏に書痙になってしまったので、短い原稿は、こうやって(キーボードのタッチ)書いています。

――パソコンですか?

保阪 iPadです。昔は手書きでしたよ。大体頭でコンテを考えるでしょう。そうしたら、400字5枚を1時間で書けた。2000字ですね。変な表現なんですけど、自分で目から神経が動くのが分かるくらいのスピードで書けました。今は、頑張って1時間で3枚。

――iPadではインターネットを見ることができますが、普段は利用されますか?

保阪 インターネット、僕は使い方が分からないから。娘に何回聞いても、よく分からないんですよね。

――では、ネットを調査のために使うということは?

保阪 あまり使わないです。僕がボタンを押すと遅いんですよね。なぜ娘が押すと早いのか、それが分からない(笑)。長い原稿は少しずつ手書きで書いていますけどね。

■編集者などを経て、20代後半でフリーとして独立するまで

――ものすごい量の原稿をこなされてきたわけですけれども。

保阪 今年の8月31日から11月8日まで、 北海道立文学館 というところで「ノンフィクション作家・保阪正康の仕事 『昭和史』との対話」という企画展をするそうで、学芸員の人が張り切っていて、本を全部並べると言うんですよ。僕でさえ3〜4冊、手元にないんですよね。版元の中にはつぶれているところもあるから、古本屋を当たったりして探しているらしいけど、確かに200冊以上だと言っていました。

――保阪さんは大学卒業後、編集者などを経て、20代後半でフリーとして独立されました。そのあたりを伺いたいのですが、さきほど大学院のお話がありました。ご専攻は何を?

保阪 社会学の中でもコミュニケーション論です。大学は同志社の文学部の中の社会学でしたから、もともと日本史そのものに深い関心を持っていたわけではなかったけど、大学院では幕末の各藩の情報の流れが現代の地方史に結び付いていることを研究したいと思っていたんです。ちょっと他の人がやらないテーマなので、「すごくいいテーマだから、お前は大学院に行ってやれ」と言われて。ただ大学院では英書を読んだり、そういう基礎勉強をやるじゃないですか。あなたも大学院でしょう?

――私の場合、ドイツ語でした(笑)。その後、保阪さんは大学院をやめて、電通のPRセンターに入られました。

保阪 電通PRセンターでは2年半ほど仕事をしました。給料はすごくいいんですよ。当時、平均月給が2万2000〜3000円くらいで、5万円もらっていたから。70人くらい入社するなり、仲間には見合いが殺到していたね(笑)。

■「金になる」政治とPR 広告は“虚業的”だった

保阪 だけど広告やPRは手でつかむ感じがなくて、虚業的でしょう。あるとき、日本人にチョコレートを日常的に食べさせるための戦略会議がありました。当時まだチョコレートは高く、行き渡っていなかった。そうしたら、アメリカに留学していた人が、「バレンタインというのがあって、そこでチョコレートをやり取りするんだよ」と言うので、「じゃあ、それ日本にも定着させよう」となった。

――えっ、ではバレンタインにチョコレートの習慣はそのとき……。

保阪 発端はその会議だと思う。思想信条にかかわるものはやらないといっていたけど、その後、同期生に聞くと「やるよ。政治は金になるんだよな」なんて言っていました。23、24歳でそういう社会を見ちゃった。それがものすごく嫌になってね。その後、朝日ソノラマに就職しました。給料は半分になったけどね。でも、ものを作っているほうが楽しかったです。26歳から29歳までのことです。

――これがある意味天職というか、ぴったり合っているというふうに思われた?

保阪 そうですね。僕は高校時代から、物書きになるか映画のシナリオライターになりたいと思っていて。一応進学校にいたんだけど、ほとんど勉強しないで、映画を見たり、好きなことをやっていました。

――数学や物理の授業があると、学校に行かないで映画館に行っていたとか。

保阪 毎日じゃないですけどね。親父が旧制中学からずっと、戦後は高校の数学教師をやっていたんですよ。口を開けば「数学がすべての学問の基礎だ」と言うんです。ご飯を食べている時も。僕は頭に来ちゃってね、数学だけは絶対やらないと決めて。

■北大生の唐牛、中学の先輩・西部邁との出会い

――よく文系の人に多い数学嫌いというよりは、どちらかというと親に対する反発で。

保阪 親父は、僕に「医者になれ」「先生になれ」とか言ってよくケンカしていましたけどね。僕はやっぱり物書きになりたかった。それで、高校3年のころ、僕は受験勉強もしないで、北海道シナリオ何とか会という北大生が中心のサークルへよく行っていました。そこに北大生の唐牛(健太郎)もいましたね。

 さらにさかのぼると、僕の中学の1学年上に、西部邁がいました。中学校の頃は2年間毎日、西部と朝夕2人でいろいろな話をしながら越境入学で通ったんですよ。

――具体的に、どんな会話をしていましたか。

保阪 彼は授業で聞いたことを僕に話すんです。例えば「お前、人間とサルの違いは知ってるか?」と言うから、僕が「毛が3本足りねえんじゃねえか?」と返すと、「違うよ、お前。生産手段を持ってるかどうかだよ」と言う。それから「社会というのは矛盾だらけだと言うんだけど、何が矛盾かお前分かるか?」と言うから、「いや、僕は分からない。矛盾って何?」と返すと、「それはどうも階級っていうものがあるんだよ」。そんな調子で、階級的矛盾なんて聞いたのを今でも覚えています。長じて彼と会った時はいつもその話をして、「俺はそんなこと言った覚えはねえ」と彼は言っていましたけどね。

――生産手段や階級という話題は、ある意味で時代を感じるといいますか、マルクス主義的ですね。

保阪 通っていた札幌市内の中学は北教組の強いところで、教師は共産党系が多かったと思う。「君らは革命のために生きるんだ」なんて言う先生がいたからね。昔は「天皇のために生きるんだ」と言われていたのと同じなんだと、のちに気づくけれども。

――そういった教師の共産主義的な発言については、当時どういうふうに思われていましたか?

保阪 母親は幼児教育に携わっていて、共産党員ではなかったけれど、戦後わりとすぐに「もう戦争はこりごりだ」「共産党の人は何年も牢屋にいたんだって。偉いね」とよく言っていました。一方で親父は共産主義が大嫌いで。親父がいない時に、母親は僕に対してそういう話をしていましたね。

■結論から言えば共産主義は、高校の時に大嫌いになりました

――保阪さんは5歳で終戦を迎えた世代です。思春期のころ、影響を受けた本などはありますか?

保阪 たくさんありますよ。一つ挙げるなら『 原爆の子 』という本。広島で原爆を体験した子供たちのことが書かれていて、衝撃を受けました。親父は横浜出身だったので、家では朝日新聞と北海道新聞を取っていたんですけど、1日遅れで届く朝日新聞には「ストライキ」という言葉がいっぱい出てくる。親父にストライキって何かと聞いたら……僕は野球のストライクと同じかなと思っていたんですけど。「そんなことを子供は知らなくていいんだ」と。政治的にませている子は小学校時代から結構いたし、母の話からも影響を受けて共産党はすごいと子供心に思っていましたよ。ただ、結論から言えば共産主義は、高校の時に大嫌いになりました。

――それは、どうしてでしょう。

保阪 僕らの頃は教師だけでなく、高校生の中にも共産党員がいたんですけど、例えば「今日はなぜデモをするのか、君らに説明したい」と言ってくるんですね。話を聞いていると、革命を経て社会主義になれば幸せになるという話。そういうような言い方が、僕はすごく……幸せになるとかそんなことはあんたに決めてもらう筋合いはない、と思ったんですよ。要するに見せかけの会話なんですよ。つまり、政治的なことに意識を向けていない人たちをただ「幸福になれる」と説得している傲岸な雰囲気を何となく感じた。階級がなくなれば搾取されなくなるとか、そういう会話がものすごく偽善的に思えたんです。

■学生運動が持っている“ある不純さ”に気付いた

――大学に入った時はブントに与したように、新左翼のほうにシンパシーがあったそうですが。

保阪 新左翼の連中は、何というか体育会みたいなところがあった。要するに、革命を起こすためにはもっと街頭暴力主義で行かなきゃいけないんだと言って、デモからはみ出て警官を殴ったり蹴ったりしながらデモをするという時代だったんですよね。何だか知らないけど、革命が起こるのは前提になっていたから。僕らは若いから、暴力革命をうたっていたブントが一番単純に思えた。やっぱり、暴力革命じゃないと革命なんか起きないと。デモにもよく行きましたけどね。それだけじゃなくて、僕はマージャンもやったし、芝居の演出や創作劇もやっていた。最終的に学生運動が持っている“ある不純さ”に気付くんです。

――不純といいますと?

保阪 それは、唐牛がブントの指導者として、同志社に来た時のことです。「お前なんだ、同志社に来たのか」と言われて、僕と二、三立ち話をしました。その時、「お前、深入りするなよ」と言ったんですよね。つまり、運動に深入りするなよと。その言葉は、唐牛が言ったから理解できるんですが、ブントは東大至上主義だったわけです。結局のところ官僚主義なんですね。左翼運動にも東大至上主義の面があったということですよ。

 唐牛はスラッとしていて格好よかったし、北大で引っ張られてきたんだけど、自分は東大が指導しているブントの、ピエロみたいに担ぎ上げられていることを分かっていたんですね。西部もどこかに「あいつは東大の犠牲者になったんだ」と書いているはずです。だから唐牛は僕に「お前、私立なんかでこんな運動に入っていたら、抜けられなくなった兵隊の一人にすぎないよ」と言おうとしたんだと、今になって思います。

■テロに参加した農本主義者、橘孝三郎との対話

――なるほど。今のは左翼側の話ですけれども、一方で、規模は小さいかもしれませんが三島由紀夫のような右翼側の運動というのもあったと思うんです。当時、そちら側については、どういう風に見ていましたか?

保阪 右翼といっても3グループあると僕は思っていました。暴力団右翼、それから神道系右翼。ここには神社本庁の葦津珍彦氏などがいました。それから最後に、北一輝や橘孝三郎のように理論を持っている人。

――2冊目の著書『 五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡 』を書き進めるなかで、橘に何度も話を聞かれていますね。

保阪 そうです。何のつてもなかったので、水戸に暮らしていた橘孝三郎の住所に手紙を出したら、彼から原稿用紙1枚の真ん中に「諒解」と2文字だけ書いた返事が来ました。

 僕は1年半くらい、月に2回か3回通いました。橘孝三郎とは五・一五事件のテロに参加した農本主義者というふうに世間は見ているし、実際にそうだと思うけれども、しかし、橘は大正時代に水戸に文化村というのを作って、文化度の高い活動をしながら自立していることで、雑誌にも取り上げられたことがあったんです。ところが農業恐慌に遭って、橘はだんだん右傾化していく。そしてテロに加担するんですが、そのプロセスに僕は興味を持ちました。

 これまで僕が会った何千人の中に、やっぱり7〜8人からは一生を変えるほどの影響を受けたと思いますが、一人目は橘孝三郎だったと言えるでしょう。橘孝三郎は、毎回僕の取材に4時間くらい応じます。そしてずっと聞いていて、「君の質問は、戦後の民主主義に毒されている。今度来る時はベルクソンを読んでから質問しろ」などと言うんです。仕方がないから読んでいくんですけど。

■右や左ということではなく、教養人としての発言

――ベルクソンというのはフランスの哲学者ですよね。なんでベルクソンなんでしょう。「『国体の本義』を読んでこい」とかならわかりますが。

保阪 僕としては、なぜ大正時代の理想主義者が右翼になったのかと、その変わり方に興味を持っていました。橘は天才的な人で、若い時から英語はもちろんフランス語、ギリシャ語も読めたようです。マルクスも、全部ではないけどもちろん読んでいた。それでベルクソンは、人間の心理とか考え方というのは行動に出るわけだから、その行動を見ることによってその心理を分析しなさいというようなことを書いているんですね。彼がベルクソンを持ち出してきたのは、五・一五事件の決行者の行動を理解するために、ということが言いたかったんじゃないかと思いますよ。

――つまり、右や左ということではなく、教養人としての発言だったと。

保阪 まさに教養人でしたね。それから「君、ずっと聞いていると、古事記、日本書紀なんて何の興味もない世代だな」と言ったりするんですね。「今さら読めとは言わないけど、どんなことが書いてあるか含んだうえで質問しなさい」と。僕は橘のところへ通ううちに、ものすごくそうやって教えられた。取材の時にどう振る舞うのか、ということも。

■22歳で亡くなった息子のことを、やっぱり忘れる日はない

――歴史家の人生を振り返ったとき、重要だった転機や事件を伺いたいと思います。お尋ねすることがはばかられるのですが、1993年にご子息を亡くされたあとに「それまで無感動に見つめていた写真や資料、そしてなにげなく読んでいた文学作品の意味を新たな目で理解することにもなった」と書かれています(『 愛する家族を喪うとき 』)。

保阪 息子は22歳の時に死んで、もう26年くらい経ちますが、やっぱり忘れる日はないですね。1日に1回は、必ず自分の中で出てくるんです。何かの拍子に、例えば電車に乗っていて「ああ、息子と似た顔をしている人がいるな」とか、「今生きていたら、これくらいの年齢か」とか考えるんです。涙がでることもあります。

 それがものを書くということにどういう意味があるのかということに関して言えば、ある日、息子が高校から帰ってくるなり、僕の仕事部屋へ入ってきたことがありました。「お父さん、特攻隊は偉いと思う?」と聞くんですね。「なんでそんなこと聞くの?」と尋ねると、息子が「今日学校で先生が、『あなたたちよりも4つか5つ上の若者が死んでいった』と言って泣いた」と言うんですよ。「俺だって、泣いたと思うよ」と伝えたところ、息子はさらっと「でも、泣いてどうするの?」「特攻隊だけじゃなくて、体当たり攻撃されたアメリカ軍の空母に乗って死んだ若者にだって、人生があったんじゃないの。その人たちは追悼しなくていいのか」と言う。僕は息子からこの話を聞いた時、全く新しい世代が出てきたんだなと思ったんです。つまり、僕は特攻隊として死んでいく日本人のことしか考えてこなかったけれど、それ以外の人間のことを考えるという世代が出てきたんだなということを、改めて思ったんですね。

■歴史家の一歩は、仮託することから

――つまり、ご子息を通じて、保阪さんのなかにもうひとつの視座ができたと……。ネット時代の激しい左右対立の時代に、これからの歴史家はどういう態度で仕事をしていくべきなのか、最後に伺いたいと思います。

保阪 歴史家に限らず、「俺の親父はどうやって生きたんだろう。おふくろは、おじいさんは……」と考えるのが人間の筋道だと僕は思います。それは歴史家の第一歩。先達はどう生きたんだろうと考えるのは、歴史の中に自分を位置づけていくことですよね。

 その時、絶対やってはいけないのは「ジャッジメント」です。自らが天空の一角に座ったかのごとく「これはいい」「これは悪い」とジャッジすること。そういうことをする人は政治家の中には大勢いるし、右にも左にもいます。そういう不遜な態度を反省して、きちんと事実を見るべきなんですね。

――「私達は天空の一角に鎮座して昭和史をジャッジメントする権利をもっているわけではないとの謙虚さ」と共に、「もし自分があの時代に生きていたらどのような生き方をしただろうかという想像力」(『 令和を生きるための昭和史入門 』)が必要だと書かれていますね。

保阪 そうです。仮託するということですよね。例えば自分が特攻隊員だったら、乃木希典だったら、大山巌だったら、あの時どうしていただろう……と考えることから、歴史家の一歩が始まるのだと思います。昭和史については、当然ながら当事者たちは亡くなっていくのですが、彼らが残した資料、それから彼らの息吹を伝えるような子供の世代や第三者はまだいる。僕らは戦前を同時代史的に見てきたけれども、これからの世代の人たちは、戦後を見ることによって、戦前を浮かび上がらせることができるだろうと期待しています。

写真=佐藤亘/文藝春秋

(辻田 真佐憲)

関連記事(外部サイト)