「いまのポップスは腰から下が抜け落ちている」 藤井フミヤが語った「表現の核に必要な色気」

「いまのポップスは腰から下が抜け落ちている」 藤井フミヤが語った「表現の核に必要な色気」

©深野未季/文藝春秋

「ギザギザハートの子守歌」に始まり「涙のリクエスト」その他のヒット曲で同世代の若者を熱狂させたチェッカーズ時代から、「TRUE LOVE」や「Another Orion」で大人のポップスを確立したソロシンガーとしての活動、そして現在に至るまで。

 藤井フミヤといえばまずは「歌う人」として世に知られる存在だが、くわえて彼は早くから「描く人」でもあった。1993年に初個展を開くなど、ビジュアルアーティストとしての顔も併せ持つのだ。

「描くことはずいぶん前から日課です。観るほうも欠かさない。これぞという展覧会があれば、必ず時間をとって足を運びます。一点ずつじっくり観ていくほうなので、大きい美術館なら数時間はそこで過ごすかな。

 好きなのは、著名なアーティストの回顧展。生まれてから亡くなるまでの生涯を、作品によって丸ごと追えるじゃないですか。芸術家の一生はたいてい波乱万丈で、内面はさらに激しく揺れ動いている。それを読み取っていくのがおもしろくてしかたない。会場を出るといつも、ちょうど大作映画を一本観終えたような気分になる」

 直近で大いに興味をそそられたのは、なんといっても国立新美術館で開催中の「 ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 」展だ。

■ウィーンの墓まで訪ねる、クリムト・シーレ好き

「クリムトとシーレの作品がこれほどまとまって観られるのはすごいこと。彼らのことは昔から大好きで、ウィーンへ行ったときには、クリムトのアトリエとお墓まで訪ねましたよ。

 今展は、彼らの創作の流儀がたいへんよくわかるものでよかった。まず度肝を抜かれるのは、クリムトの《旧ブルク劇場の観客席》。ものすごく精細に描かれていて、小さい人物像もすべてリアルに描き分けられている。クリムトというと大胆な色彩とかデザイン性に優れた画面構成がウリだけど、それよりもまずは圧倒的にうまいんだなと再確認させられますね。これを20代のころに描いたというんだから、もう呆れるしかない。あまりにすごいから、絵を描く身からすればちょっとやる気が削がれてしまう(笑)。

《エミーリエ・フレーゲの肖像》もいい。やっぱり画面の構成、デザインセンスが抜群なんですよ。いろんな模様が組み合わされて画面ができている。これは明らかに日本美術の影響を受けたんでしょう。

 クリムトもそうだけど、シーレはドローイングがたくさん観られます。瞬間的にもののかたちを押さえることが、きちんとできたんだとよくわかりますね。自画像なんかもあってシビれるんだけど、自分では自画像って描くのがあまり得意じゃない。やってみたことはあるんだけど、そこにおもしろさを見出せなかった。きっとよほどのナルシストじゃないと、あんなにたくさん自画像を描くことってできませんよ」

■藤井フミヤの作風の、幅広さの秘訣

 クリムトの装飾的な画面構成から即座に日本美術の影響、すなわちジャポニズムを読み取るなど、西洋美術も日本美術も分け隔てなく観る趣味の広さが窺える。そういえばご本人の作風も、コンピュータ・グラフィックスを駆使した作品から水彩画や油彩画までと、じつに幅広い。8月に開催を予定している個展では、30年近い画業の全貌が通覧できることとなりそう。

「なんでこんなに幅広くなるのか……。自分でもよくわからないけれど、好奇心がいつだって尽きないのはたしか。いろんなものからすぐ影響を受けちゃいますしね。それこそアニメや漫画からも、何かを吸収して作品に反映している」

 なんでも取り入れ、思うがまま展開させられる自由さこそ、現代アートの「肝」だとも理解している。

「20世紀のポップアートを切り拓いたひとりロイ・リキテンスタインなんて、漫画のひとコマを拡大して作品と認めさせた。その流れの延長線上に村上隆さんをはじめ日本の漫画・アニメを発想のベースに持つアーティストがいるわけですよね。『やった者勝ち』なところが、現代アートにはありますよね。

 とらわれずに、思った通りにやってみればいい。そう信じさせてくれるという点で、アートは貴重な存在です。日本にもそういう例は早くからあって、たとえば千利休は、漁村で投げ捨てられていたタコ壷を茶室で茶道具として使ったりしたでしょう? 自由すぎますよ(笑)。考えてみたら、利休はあんな昔からすでに現代アートの精神を先取りしていたんだともいえる。

 きっと、好奇心の赴くままに遊んでしまうのがアートの本質なんですよ。もちろん、自分なりのものの見方を築き上げるための勉強や修練も必要なんでしょうけれど。利休は己の茶の世界を確立させるために日々研鑽を積んだろうし、リキテンスタインだってアンディ・ウォーホルだって、あれこれ考え抜いたうえで作品をつくっているはずですよね」

■アートは、音楽に影響されている?

 では藤井フミヤご本人はどうか。日々、早朝から絵を描き続ける積み重ねが作品を生んでいるわけだが、もうひとつ音楽というベースがあり、それがほうぼうに影響を与えているのでは?

「たしかに、10代のころからやっている音楽が自分の表現の基本形なのはまちがいない。同時にアートも、誰に言われずともずっと続けてきたもので、大事な表現方法のひとつ。このふたつは、自分のなかで無理なく同居しているんですよね。

 ただし直接的な影響関係があるわけじゃなくて、音からアートを想像したり、アートから音が生まれるといったことはほとんどないかな。音楽は自分にとって生業だから、だれかに聴いてもらい楽しんでもらいたいというのが、つくる前提としていつもある。

 音楽をつくるときには、『愛』が中心テーマにないと成立しないんですよね。不思議なんだけど、音楽というのはそういう性質を持っているものなのかな。聴いている側も、愛の要素がない歌なんてイヤじゃないですか? ムンクの《叫び》みたいに不安な感情だけでできている歌があっても、きっと聴かないでしょう?

 その点アートは、自分にとってもうすこし自由な存在というか、内側から湧き出てくるものをそのままかたちにしている。だから愛だけじゃなくて、いろんな感情がそこに渦巻く。でも、あまりエグい絵は描きませんけどね。そういうのは好みじゃないので」

■いまのポップスは「腰から下が抜け落ちている」

 画家としての藤井フミヤが描く絵には、裸婦像が多く、艶っぽい表現が随所に見られる。思えばミュージシャン藤井フミヤも楽曲、歌詞、歌い方、すべてにおける色っぽさが一大特長である。「色気」が表現したいことの中心にあるのだろうか?

「それはあるかもしれませんね。音楽でいえばそこはずっと表現したいものとしてあるんだけど、いまのポップスって腰から下が抜け落ちている感じがする。男女の恋愛が描いてあっても、なんか明るくて健全過ぎるというか。前はそれこそ山口百恵さんが10代で『あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ』なんて歌っていたわけで(『ひと夏の経験』)。自分は変わらぬスタンスで歌っているから、時代との兼ね合いでよけいにちょっと目立ってしまうのかもしれない。

 恋愛感情やそこから滲み出る色気は、本当はいつの時代でも表現の核にあるものなんじゃないのかな。そう、だから『週刊文春』さんをはじめとするメディアも、恋愛沙汰を盛んに取り上げるのはいいにしても、恋愛が抑制されるような方向にはあまりしないでもらいたいな(笑)。

 恋愛から生じる感情、色気、それに愛そのもの。そういうことを表現する歓びを、僕は10代のころステージの上で初めて人に向けて歌ったとき、早くも知ってしまったんですよ。その快楽を求めていまも音楽を続けているし、ジャンルを拡張してアートをつくったりしながら、さらに味わい尽くそうとしているんだね。これからもいろんなかたちをとりながら、表現することが続いていくんだと思う。どの角度からでもいい、それに触れて共鳴してくれる人がいたらそれだけでうれしいですよ」

(山内 宏泰)

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