太平洋戦争へ続く「盧溝橋事件」の火種はなぜ燃え上がったのか――周到に“用意されたシナリオ”とは

太平洋戦争へ続く「盧溝橋事件」の火種はなぜ燃え上がったのか――周到に“用意されたシナリオ”とは

1937年7月7日東京朝日新聞夕刊

■解説:「真相発表」にも漂う謀略の名残り

 この手記にも謀略の名残りを感じる。興味深いが、1つの説と理解した方がよさそうだ。

 盧溝橋(当時は本文のように「蘆溝橋」と表記されたが、その後「盧」が正しいと判明)は、探検家マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも登場する北京郊外の月の名勝地。そこで事件が発生する前の日中関係は、1933年の塘沽停戦協定で「満州事変」が終結。外交的には和平の動きがあったものの、日本軍は華北5省を中国から切り離す「華北分離工作」を進めていた。中国側では、36年の「西安事件」を転機に、内戦を続けていた国民党軍と共産軍の間で第2次国共合作の動きが進展。盧溝橋事件を“触媒”に、2カ月余り後の9月に合作が成立する。

 策謀が渦巻き、突発事態がいつ起きてもおかしくない情勢だったといえる。発砲事件そのものは現地交渉で決着がつきそうだったが、「この際、一撃を加えるべし」という関東軍の強い意向がその後の日中全面戦争への拡大を招いた。

 端緒については当初からさまざまな見方がされた。張作霖爆殺や柳条湖事件(満洲事変)同様「日本軍の謀略では?」とする推測や、発生は偶発的との見解も。中国共産党の謀略工作という説も当時からあった。しかし、歴史家・秦郁彦氏らの研究で、中国軍が発砲し、それを奇貨とした日本軍が攻撃を拡大した、との見方が主流に。ただ裏付けはなく、歴史の真実はいまも闇の中だ。

 手記は「当時大アジア協会理事として現地に飛んだ筆者が真相を発表」という見出しだが、「大アジア(亜細亜)協会」とは、1937年12月の南京虐殺事件の責任を問われて戦後の東京裁判で死刑になった松井石根陸軍大将らが1933年に設立した団体。近衛文麿、広田弘毅、荒木貞夫らがメンバーで、「世界的な平和機構の樹立」「アジア人のためのアジア実現」「日中親善」などが活動の趣旨だった。しかし、当面の本音は「満蒙における日本の権益拡大」だったと考えられる。

 筆者の中谷武世氏は法政大教授や大亜細亜協会の前身である「汎アジア学会」の設立後、衆院議員に。戦後は岸信介元首相の外交ブレーンだったとされる。彼を呼び付けた和知鷹二陸軍中佐はその後、上海を舞台に「蘭工作」を展開。中国側との和平交渉の一角を担当した。さらに、この手記が掲載された55年は保守合同が成って「55年体制」が成立した。

 それらを考えれば、「日中全面戦争の発端は中国共産党の策謀」という歴史観が浮上する。具体的な説明はなく、「突発事件でなく実は中共の周到なる抗日運動の表れであった」とする断定も、柳条湖事件と対比した「逆の九・一八事件」という指摘も、一方からの解釈と見るべきだろう。

 盧溝橋事件が、太平洋戦争で最も愚かな作戦といわれたインパール作戦につながる、と言うと不思議に思われるかもしれない。作戦を強行した“立役者”牟田口廉也中将は、盧溝橋事件の際、現場の当該部隊の連隊長。のちに「自分が始めた戦争を、自分の手で終わらせたい」と語り、インパール作戦成功による戦局展開に異常なほどの執着を示したとされる。そうだとすれば、盧溝橋事件への個人的な思いが、悲惨極まりない戦場と餓死した兵隊の白骨街道を生んだことになる。

小池新(ジャーナリスト)

 日華事変の口火を切った蘆溝橋事件は突発事件でなく実は中共の周到なる抗日運動の表れであった。当時大アジア協会理事として現地に飛んだ筆者(中谷武世氏)が真相を発表!!

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「蘆溝橋の火蓋切らる」

■盧溝橋で放たれた火種が第二次世界大戦へ発展していく

 セルビアの青年の放った拳銃の一発から第一次世界大戦の火が燃え拡がったように、蘆溝橋で放たれた一発の砲火が口火となって、戦火は支那事変、太平洋戦争、第二次世界大戦と拡大して、遂には日本の敗戦をまで運命づけたのである。然らば1937年7月7日の蘆溝橋の一発は誰が放ったか、支那兵か日本兵か、柳条溝事件と同じく、蘆溝橋事件も、日本軍の謀略によって仕組まれた事件の一つであると巷に喧伝せられ、世人の多くも未だにそれと信じて居る。戦前戦時に於て軍部の発表した報道に虚構が多かったと同じく、終戦後の言論や報道にもあまりに虚構と誇張が多く、「真相は斯うだ」に対する「真相は斯うだ」を必要とするほどに、殊更なる日本非難と自国誹謗に満ちて居いる憾なきを得ない。

 自分も聊か参画した北支新政権樹立運動の一端に触れて、体験を通じて知り得たありのままの真相を率直に書き記し、その間おのずから、事件の真相を探求して見たいと思うのである。

■植民地国際都市・天津で見た異様な賑わい

 昭和12年の7月13日頃と記憶するが、私は友人の天津軍参謀和知鷹二中佐から、「直ぐおいで乞う」との電報を受取ったので、先ず近しい先輩の下中弥三郎氏に相談し、更に現地へ行ってからの心構えに資する必要もあって、その翌々日は、山中湖畔に松井石根大将を訪うてその意見を叩いたのである。

 雨上りの暑い太陽がかっと大地に照りつける7月22日の午後私は一人で天津飛行場に降り立った。飛行場には、天津軍参謀の鈴木京大尉と和知公館の宇山青年とが出迎えて呉れて居た。

 鈴木大尉は、此の年の5月の臨時異動で、中央から北支へ所謂トバされて来た急進派の青年将校の一人で、中央に置くと何か又ガタガタやるというので、天津軍に転出させられた訳だが、焉ぞ知らん、此の鈴木京大尉こそ、いま一人の鈴木一郎少佐と並んで天津軍参謀会議の最強硬派で、且つ厄介なことには此の2人の若い参謀が前線指導を受持って居り、東京の軟弱を憤っていつも参謀長や高級参謀にハッパをかけて居た急先鋒で、不拡大主義の中央当局からいえば、大変な者を現地にトバした次第なのである。

 来て見ると天津は案外平穏で、見たところいつもと少しも変って居ない。台風の中心圏は静穏であるというが、蘆溝橋事件突発以来、国際政局の台風の眼である此処天津も、兵馬倥偬といった感じなど少しも現われて居らず、街には男女の群が雑踏し、店々には赤や黄色の広毛の旗が翻り、物売りの呼声と人力車夫のわめき声が喧しく辻々に交錯して居る。夜も盛り場や歓楽街の賑わしさは、一向平常に劣らず、キャバレー、ハイアライ、劇場、何処も満員の盛況である。

 此の風景は――上海でもそうであったが――事変がもう少し先に進んで、彼我の戦闘行為が、その規模と凄惨さを増大して行った後でも、殆どその儘に継続せられ、三里先の戦場では悲風惨雨の死闘が展開せられて居るのに、河一つ越したこちらの租界ではキャバレーやナイトクラブの歓楽の灯が輝いて居る、という奇異な対照を示しつつあったものである。帝国主義特代の植民地国際都市が持つ異常な性格の反映とでもいうべきであろうか。

■深刻化していく情勢

 天津に着いて直ぐ和知から聴き得た事件の経過は、東京で自分が承知し且つ想像して居たところとは、あまり大きな違いはなかったが、ただ、中国共産党の手が思いの外深く二十九軍の兵士の中に伸びて居り、軍の各部隊に共産党員の督戦班が居てこれが次々と事をしかけて来る。だからどんなに日本が不拡大主義を取っても、また仮令南京が局地解決を望んでも――之も疑問だが――もうどうにもならない段階まで来て居ることを、現地で和知の口からなまに聴くに及んで予想以上に事態が深刻であることを知り得たのである。

「東京の連中は自分を拡大派の張本人のように云って出先さえ抑えれば片が附くように思って居るが、現地の事態を知らざるも甚しい、石原莞爾や片倉衷なども自分達が満洲でやった手口から、そして中央の抑制にもかかわらず却ってドンドン事態を拡大して行った体験から和知がまた同じ手口をやって居るのだろうという臆測に立って、俺を目の敵にして抑えにかかって居るが、無論大局的見地から今支那で事を起してはまずいことは自分は百も承知して居るが、だからこそ日夜苦労して居るんだが、中央の意見の不統一と方針のグラツイて居ること自身が、事態を拡大して居るので、閣議の模様や軍の内部の対立など、筒抜に支那側にわかって居るのだ。

 だから中央がもっと早期に一致して強硬方針に意見をまとめ、解決を現地に任せる、というやり方に出て呉れたならば、一応は事態を拾収する自信もあったんだが、今になると、もう何もかも手遅れだね」

 と、沈痛な面持ちで中央に対する激しい憤懣を交えながら、此の人のいつもの癖として時々自嘲の笑を浮べつつ語ったが、聞いて居る私自身、眼に見えぬ大きな重圧が頭上に押しかぶさって来るような不安と焦燥に駆り立てられずには居れなかった。

■計画的であり、偶発的でもあったと言える「盧溝橋事件」

 私は今ここで、和如参謀や当時の日本軍部の立場を弁護したり或は非難したりしようという気持ではない。また事変の原因や経過について理論的に叙述することも本稿の目的ではない。

 私はただ最初に述べたように、事変勃発直後の北支の渦中に在って自分が現実に体験したことを有りのままに記述して、そこから、事変の真相を知りたいと思うまでであるが、現地で、蘆溝橋事件に続いて連鎖反応的に継起した幾多の事件、通州の叛乱や、天津、密雲、順義等の同時襲撃等の経過に徴すると、抗日人民戦線の工作網が意外に深く二十九軍の兵士の間や保安隊の中に延びて居て、宋哲元が如何に不拡大を下命しようと、或は仮りに南京政府が如何に現地解決を北支へ厳命しようとも、もうどうにもならぬ段階にまで来てしまって居るとする観察を支持せざるを得なかったのである。

 端的に結論をいうならば、蘆溝橋事件は、共産党の工作班が仕組んだ仕事であって、日本軍が連日、宛平城附近で夜間演習をやって居ることを奇貨として、支那側からしかけて来た事件である。

 即ち一言にして云えば、柳条溝――満洲事変の場合と異り、蘆溝橋――北支事変の場合は、日本側が余りにも無準備、無計画であり、支那側正確にいえば中共側が、周到な準備の下に計画的に起した事件である。日本側から見れば、偶然的な突発事故であるが、支那側からいえば、仕組まれた計画的行動である。(近頃の呼称からいえば「中国側」と書くべきであるが、当時の気分を写す意味から、当時の呼称に従う)蘆溝橋で放たれた最初の一発は、二十九軍の兵士の中に入り込んで居た中共に属する学生の1人が発砲したのである。

 当時北支に於ける抗日、北支に於ける抗日人民戦線運動の指導に当って居たものは劉少奇であるといわれるが彼の周到な計画と指令通りに、「逆の九・一八」が、極めて巧妙に、それも日本が仕掛けたという擬装を100パーセントに成功させつつ遂行せられたのである。

■「またやったな」日本軍計画とされた盧溝橋事件の第一報

 当時日本では、蘆溝橋事件勃発の報を聞いて、「またやったな」という感を持ったひとが尠くなかった。「またやったな」とは無論日本の軍部がまたやったな、ということである。

 これは満州事変以来、日本軍部の手によって起された謀略的事件の連続から、一般にそう思い込むようになったのであって、「西園寺公と政局」という書物、所謂原田日記なるものを見ても、当時如何に原田熊雄や上層部の人達が、「またやった」と思い込んで、軍部を抑えるために駈けずりまわったかがよく現われて居る。

 重臣上層部がそう思い込んだばかりでなく、また外務省関係や海軍側がそう思い込んだばかりでなく、当の陸軍の中央部さえが、少くも事件勃発直後は、我が方の現地の仕事だと思い込んだのだから反対である。殊に、軍部の幕僚の中でも石原莞爾や、片倉衷や、会田新太郎等は、和知と共に満洲事変で事を共にした仲間である。

 手口は先刻自分達のもの、あれをまたやったな、と邪推するのは或は無理からぬ話で、当初は此の推測を前提として極力出先――然り、彼等も曽つては満洲の出先として中央を手古摺らした――を抑えようとかかったのである。

先に情報を掴んでおきながら対処できなかった日本軍

 大局的に対ソ戦略といふものを重視し、満洲国の建設に焦点を置いて一切の努力を之に集中すべしとする見地から、支那本土に事を起すことを極力回避しようとした石原等の識見は大いに買うべきであるが、当時中共の活動に対する研究不足で、蘆溝橋事件そのものをさえ出先の仕組んだ謀略なりとする誤った認識を、少しも一時的にせよ、前提として居た関係上、それが現地と中央部との意見の喰い違いのもととなり、中央部に於ても和知等の見解を支持する杉山陸相と石原の言を聴く多田参謀次長等の意見の対立となり、更に重臣上層部、海軍側一団となって陸軍と反目するなど、方針の混乱とセクト主義の増大を助長し、之がやがて事変処理の失敗と太平洋戦争の敗戦の一つの大きな原因となって後日に禍の跡を曳く結果となったのである。

 斯様な情勢を100パーセントに利用したのが中国共産党であり、事件を起したことの責を日本に稼しつつ、日本を大きな消耗戦に捲き込み、南京政権を抗日戦に駈り立て、抗日連合戦線を強化しつつ飽くまで事変を長引かせ結局中共独り漁夫の利を占めて戦後に共産政権を擁立するという周到なる革命方略を、当時の北支の事態に即して綿密に実施したのであった。これは十二分の成功を以て此の方略の実践に当って劉少奇が戦後中共政権の成立と共に副主席の要位に推されたこと蓋し偶然ではないといわねばならぬ。

 流石に日本の現地軍部も、いろんな情報や現実の諸兆候から、共産党の触手をキャッチし之を中央にも進言したのであるが、中央は上述の如く我が方の出先軍部の強硬論(?)なるものを抑えつけるに急であって、通洲事件の勃発の報に、始めて愕然として中共の工作の深刻さに気のついたときは、既にあまりにも手遅れであったのである。

■抗日精神を煽動した一連の事件

 斯くの如く、西安事件、蘆溝橋事件、通州事件は、それぞれ相連関する中共の工作の勝利行の一環である。

 1936年――昭和11年12月西安事件は、張学良の?介石に対するクーデターとして知られて居るが、このほんとうの史的意義は、中共主脳部、毛沢東や周恩来が張学良を操縦して?介石を剿匪即ち共産党討伐から抗日に転向させ、昨日まで仇敵であった共産党と国民党を握手させて抗日救国連合戦線を結成させたことに在る。

 所謂「一二・九デモ」――1935年12月9日北京で行われた学生団体の抗日大デモ――以来ミ揚しつつあった「抗日人民戦線」の運動は、西安事件を契機として「抗日国民戦線」に発展し、学生、工人、兵士の間に浸透しつつあった抗日意識は、中共工作員の指導の下、華北に於ける日本勢力の掃蕩という具体的目標に向って、周密な組織運動を進めつつあったものであった。日本側が宗哲元や秦徳純等の領将を相手に、反古に等しい幾多の協定を繰り返して居る間に、抗日意識に燃えた学生や青年は続々宋哲元麾下の第二十九軍の卒伍中に入り込み、自ら兵士となっていやが上にも抗日精神を煽り、遂に7月7日の蘆溝橋の一発となって発火したのである。

 一二・九デモから西安事件に至る中共の手口を検し、南京延安合作の下に結び付けられた抗日連合戦線の当局の鋒先が何処に向いて居るかを看取し得たならば、蘆溝橋事件が当然起るべくして起った「逆の九・一八」――満洲事変なることを察知するに困難を感じないのであろう。

 私が天津に着いた7月22日頃は、私が香月司令官と宋哲元の間に仮の停戦協定が締結せられて、事態が暫く小康を保ちつつあった時であった。東京から、ひしめき合って馳せつけた新聞の特派員諸君も、此処2,3日は手持無沙汰で、或は伊太利租界のハイアライを遊びに行ったり、カフヱーでビールを呑んだりして無聊を消して居た。

 が、幾何もなくして此の小康は、廊坊の衝突事件から破られた。支那側の戦闘配置が略略完了し、共産党の浸透工作が既に末端にまで達したことの現われである。

 即ち廊坊停車場附近の電線修理の掩護に赴いた我が軍の小部隊に対し、二十九軍に属する優勢なる一部隊が機関銃と臼砲を以て痛烈なる攻撃を加え来り、為めに我が方に相当数の損害を生ずるに至った。

■突然、機銃の銃口を向けられ……

 越えて26日には、彼我双方の諒解の下に豊台からトラックで北京城内に入らんとした我が一部隊に対し、部隊の約3分の2が広安門を通過し終らんとする際、突如として支那側は城門を閉じて日本軍を分断すると共に機関銃、手榴弾等を以て之に猛攻を加え来ったのである。

 此の広安門の衝突に際して、我が軍に若干の死傷者を出すと共に、同行の新聞記者3名も負傷し、且つその時まで二十九軍の顧問として彼我の間に在って極力事態の緩和に努めつつあった桜井徳太郎少佐も、城壁の上で今の瞬間まで唯々として彼の命令に従いつつあった二十九軍の下士官から、機銃の銃口を向けられ、突嗟の間に横飛びに高い城壁から飛び降りて、負傷はしたが危い命を拾ったのであるが、彼の側に在った石川通訳は機銃を浴びて戦死した。

 此の数日後、私は和知と共に北京に入って、広安門戦闘の跡を観て、桜井の飛び降りた城壁の高さ約3丈と目測し、如何に戸山学校の教官時代から機械体操の名手として不死身を謳われた桜井にしても、よく助かったものだと舌を捲いたのであるが、直ぐその足で軍の病院に彼を見舞って、「大変だったね、しかし助かってよかった」とねぎらうと彼は股間と脇腹の傷を示しつつ、

「ウンニヤ、大したこたァ無か」と九州弁でにやにや笑って答えたのが、未だに眼に見えるようだ。終戦後消息を聞かぬが好漢桜井徳太郎今何処に在りや。

■用意周到に計画されていた行動

 広安門の変は、彼我の間の平和的交渉も既に最後の糸を絶たれたことを示すものとして、香月司令官も遂に天津軍の総力を挙げて北京の南苑及び西苑附近に在る二十九軍を攻撃するに決し、27日東站停車場から続々兵力の輸送を開始したのである。

 天津に残したものは僅かに歩兵及び工兵の各一個小隊と航空整備兵の若干だけで、出動させ得る限りの兵力を南苑に指向したのである。

 私は東站停車場に我が軍の出動を見送りに行って、国際停車場として、当然来て居ても不思議はないが、駅へ来て居る英吉利や仏蘭西の将校が、何喰わぬ顔で我軍の車輛や馬匹の数を目測で点検して居るらしいのを見て、我が兵力の移動が彼等を通じて支那側に洩らされたら大変だな、と素人考ながらも密かに憂慮したのであったが、此の私の心配が当ったか、或は如何なる経路で日本軍の残存兵力の微弱を察知したか、29日の払暁、支那側の正規軍、保安隊、学生軍の混合部隊が我が方の手薄に乗じて突加、天津日本租界を襲撃し来り、あわや今少しのところで、殆ど時を同じくして実行された通州の襲撃事件と同じような惨害のドン底に、天津の日本人街全体が追い落される瀬戸際であったのである。

 残存小部隊の決死の奮戦と山海関から急を聞いて飛来した航空部隊の来援によって、間一髪の危機を救われたのである。私が身近に実戦を体験したのも此の時が始めてである。

 冀東自治政府の在った通州の保安隊の叛乱は、右の天津の襲撃、及び順義、密雲等の襲撃と同一時刻に同一計画の一環として遂行されたものであって、冀東政府の主席の殷汝耕は叛乱軍に拉致された。

■盧溝橋事件は「逆の九・一八」事件

 此の通州事件も、天津の襲繋事件も、日本側からいへば、不測の突発事件であったが、支那側からいえば、前述の如く周到に準備され計画された予定の行動であり、共産党の工作の一連の成功を示すものである。

 また天津日本租界の襲撃にしても、正規軍だけでなく之に学生部隊が加わって居たこと――私は南海大学に属する学生部隊を掃蕩するため日本軍の飛行機が銃爆撃を加えるのをまのあたり目撃したが、これから推しても、抗日人民戦線の計画的行動であることが判断される。之等の諸事件と蘆溝橋事件とを併せ考えるとき、事変の真相は自ら判然として来るであろう。

 且つ此のことを傍証する奇異な事実は、通州事件が午前2時に行われる前日の、即ち7月28日の夜の東京のラジオニュースに、「通州は叛乱した。冀東政府は20箇月3日の運命を以て既に潰滅した、殷逆汝耕――逆賊段汝耕――は拉致せられ、日本人は全部保安隊包囲の裡に在る」と、時間的にはまだ実行もされない通州の叛乱を予報するような放送を行って居ることであるが、之は通州保安隊叛乱を使嗾し督励する政略的ニュースであると考えられると共に、如何に周到な準備の下に之等一連の叛乱や襲撃が予め計画せられたかを証明するものであった。柳条溝、満洲事変の場合とはすべてが逆である。蘆溝橋事件は、支那側自らが左様に称し左様に意図したばかりでなくあらゆる角度から客観的に観ても、間違いなく「逆の九・一八」事件であったことは明かである。

(中谷 武世,小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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