西日本豪雨 51人が亡くなった洪水は歴史的“人災”だった――300億超をかけた前代未聞の「やり直し」工事が始まる

西日本豪雨 51人が亡くなった洪水は歴史的“人災”だった――300億超をかけた前代未聞の「やり直し」工事が始まる

旧高梁西川の一部締め切り後に設けられた貯水池。再河川化に向けて工事が始まっている

「一度陸にしたところを、川に戻すのです。巨額な費用をかけて、どれだけ無駄なことをしてきたのか」

 60代の女性が吐き捨てる。

 岡山県倉敷市の高梁(たかはし)川で6月、政府が大正時代に陸地化した河道を、再び川に復活させる工事が始まった。こうした事業は全国でも極めて珍しい。

■真備町の洪水は“人災”ではなかったか

 なぜ、そのようなことを行うのか。理由を探っていくと、昨年7月の西日本豪雨で51人が亡くなった同市真備町の洪水は、幾重にも重なった歴史的人災ではなかったかという疑いが浮かび上がる。

 高梁川は、中国山地から倉敷市の瀬戸内海に注ぐ全長111キロメートルの河川だ。岡山県では三大河川の一つとされる。

 暴れ川としても有名で、しばしば洪水を引き起こしてきた。

 被害が特に大きかったのは1893(明治26)年だ。流域で5万209戸が浸水し、1万2920戸が全半壊。死者・行方不明者は423人にのぼった。

 高梁川が東の端を流れる真備町では、復興できずに消えた集落もある。

■洪水対策で河川本数を減らす理由

 当時の内務省はこれを受けて、1925(大正14)年までに高梁川の大改修を行った。

 その切り札となったのが、なんと河川を締め切る工事だった。

 それまでの高梁川は、真備町のすぐ下流で高梁西川と高梁東川の2河川に分かれていた。

 このうちの西川が今の高梁川である。東川は現在の倉敷市街地を流れていたが、大改修で締め切られて陸地化された。

 理由はカネだったとされる。

 2河川とも改修するより、1本だけ河道を広げ、堤防を増強して、2本分の流量を確保すれば、工事費も維持費も安く上がると考えられた。

 だが、新たな放水路を設けることはあっても、河口の河川本数を減らす例はあまりない。

 例えば、隣の岡山市には百間(ひゃっけん)川という放水路がある。高梁川と並ぶ岡山三大河川・旭川の洪水から岡山城下を守るため、江戸時代の初期に掘削された。川幅が百間(180メートル)あることからこう名付けられた。

■農業用水を得るために3本の川をつぎはぎ

 ところで、東川を廃止したのは天井川だったからだ。

 中国山地では、江戸時代から明治時代にかけて「たたら製鉄」が盛んだった。原料の砂鉄を取るには、山を崩して水路に落とす。比重の軽い土砂は流れて、砂鉄が残る。これで製鉄するのである。

 しかし、このやり方だと下流に土砂がたまる。特に東川は天井川となり、切り捨てられる原因になった。

 現在の倉敷市の標高図を見ると、かつての東川の流路がくっきり見える。海抜ゼロメートル地帯があるような低い市街地の中で、標高2〜4メートルの河道跡はひときわ目立つ。

 細かい話になるが、2本を1本にする時、全域で西川を残したわけではない。

 東西分岐点の直下では、まず東川を残し、西川を陸にした。ただし、東川は2キロメートルほどで仕切り、先は干上がらせた。そこから新しく川を掘り、陸地化した西川の下流につなげた。

 つまり現在の高梁川は「東川」→「新しく掘った川」→「西川」という順で流れているのである。

 どうせなら全て西川にしてしまえばいいのに、東川を一部残したのは、倉敷方面の農業用水を得るためだった。このため東川の仕切部には巨大な樋門が建設されている。

 一方、西川の一部陸地化された土地にも貯水池が設けられた。高梁川は暴れ川なのに、渇水になりやすいからだ。ただ、この貯水池は漏水が多くて役に立たなかった。

■水害を懸念して町は猛反対していた

 こうした高梁川の改修案が明らかになった時、真備町は猛然と反対した。

 確かに倉敷市街の水害は減る。農業用水も確保されるかもしれない。しかし、真備の水害はむしろ酷くなると主張したのだった。

 現在は倉敷市の一部でしかない真備町だが、平成合併の前は独立した町だった。昭和合併の前は7つの村だ。旧7カ村の村長や議員は、国や県に計画反対の陳情を繰り返した。県からの返事はなく、全員で県庁へ押しかけようとして、暴動と間違えた警察に出動されたこともある。内務省の技監は「大を救うために小の犠牲はやむを得ない」と発言した。

■「水害は2倍に増え、15年のうち10年も被災」

 結局、その通りになった。戦後の1949年、旧7カ村が作成した文書には「水害は以前の2倍に増え、過去15年のうち10年も被災した」という内容が記されている。

 真備の人々が反対した理由は他にもあった。暴れ川がもう1本あったのである。

 高梁川の支流・小田川だ。真備町を西から東へ貫いている。

 小田川が氾濫を繰り返すようになったのは、江戸時代の工事が原因だとされている。

『真備町史』によると、広島県が源流の小田川は、もともと同県福山市に流れていたのだという。福山は再々洪水に見舞われていたため、江戸時代初期の1619年、初代福山藩主となった水野勝成が河道を変えて岡山県側に流したとしている。水野勝成は徳川家康のいとこだ。

「文献が残っているわけではありません」と、国交省高梁川・小田川緊急治水対策河川事務所の正木俊英・副所長は念を押す。「ただ、珍しい川です。この辺りの川は、中国山地のある北から南の瀬戸内海へ流れるのが普通なのに、広島県側の西から東へ流れています。このため勾配があまりありません」。

「この不自然さこそ、福山藩に流れを変えられた証拠」と話す人が真備町にはいる。

■西日本豪雨で町内の8カ所も堤防が壊れた

 緩い勾配が真備町を洪水の常襲地にした原因の一つだ。

 やや専門的になるが、小田川の河床勾配は2200分の1だ。2.2キロメートル流れて、やっと標高が1メートル下がる。一方、高梁川の河川勾配は900分の1で、900メートル流れると標高は1メートル下がる。高梁川の方が2.5倍近く急なのである。

 そうした2河川の特徴を踏まえて、西日本豪雨で真備町が池のようになったメカニズムを、正木副所長が解説する。「水位の異なる水がぶつかると、低い方の水位が上がって、高さを合わせようとします。つまり、高梁川の増水時、支流の小田川からは流れ込まず、水位は高梁川と同じになるまで上がります。しかも、小田川の勾配は緩いので、水位の上がる距離が長くなります。これを背水(はいすい)区間と言います。この区間で堤防から越流し、最後は破堤してしまいました。同じ現象が小田川に流れ込む小河川でも起き、真備町内の小田川や小河川で計8カ所も堤防が壊れたのです」。

 小田川の緩やかさが被害を拡大させた一因というのだ。

 こうしたことから「福山藩のために真備町は400年も水害に遭わされてきた」と憤る人もいる。

 解決するには、小田川が高梁川に流れ込む勾配を急にしなければならない。

■陸地化した川を300億円以上かけてもとに戻す

 そこで国交省が目を付けたのが、2本の高梁川を1本にした時、陸地化して貯水池を造った高梁西川の区間だ。

 ここを再び河川にして、小田川を流し込む。

 かつてと異なるのは、現在の高梁川との合流点を堤防で仕切ることだ。そうすると新たな合流点は、復活した川の最下流になる。高梁川側では約4.6キロメートルも河口側になる。

 高梁川の勾配は900分の1だから、今より標高が約5メートル低い地点で小田川が合流する格好になる。その結果、小田川の水面は、高梁川の増水時でも約5メートル下がる計算だ。

「これで福山藩や内務省が引き起こした人災からやっと解放される」と期待する人もいる。

 ただし、陸地化した川を、また川に戻すだけに近い工事なので、「一体、国は何をやっているのか」と批判する人もいる。事業費も巨額で、2014年度に関連事業が始まった時は約380億円とされた。現在は昨年の災害復旧費用も含めて約500億円という。

■次の災害には間に合うか?

 それにしても不思議だ。因果は巡ると言った方がいいだろうか。

 内務省が2本の高梁川を1本にした時、真備町は「犠牲」にされた。ただ、当時の人々が住んでいたのは洪水に洗われる平野部ではなく、山沿いだった。水害があっても住家への影響はそれほどなかった。

 片や、陸地化された高梁東川は、倉敷の市街地となり、河口跡地に紡績工場が建つなどして水島工業地帯を形成していった。これが倉敷の人口増加の起爆剤になった。

 そうした人々のための新たな住宅地として開発されたのが真備町の平野部だった。真備町は人口2万人を超える町になったが、人々が住み着いた平野部は昨年、洪水に丸呑みにされた。

 廃川復活による小田川合流点の付け替えは、旧真備町議会が何十年も国に陳情してきた悲願の事業だった。

 ようやく事業化が決まって、昨年秋に着工される予定だった。だが、西日本豪雨には間に合わなかった。

 災害で延期された起工式が、今年6月にようやく行われた。5年間で完成を目指すという。

 次の災害には間に合うだろうか。

写真=葉上太郎

(葉上 太郎)

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