なぜインド人エリートは西葛西に住むのか #3

なぜインド人エリートは西葛西に住むのか #3

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インド人の多くは、2000年前後にIT技術者として西葛西に移り住んできた(#1参照)。URの賃貸マンションに住まう彼らのコミュニティの中核には、インド人の子供たちが通える学校があった(#2参照)。今後、「リトル・インド」は、「新しいインド人」が巣立っていく街になるのだろうか。

(出典:文藝春秋2017年7月号「50年後のずばり東京」・全3回)

■宗教やカーストを意識しない

 かつて、インド人がもっとも多い都道府県は兵庫県だった。東京都が兵庫を上回るのは1990年以降である。兵庫にインド人が集まったのは神戸という港があるからだ。長い歴史をもつ神戸のインド人商人のあいだでは、インド社会と同じように同一の宗教や同一のジャーティによって共同体が形成されている。ヒンドゥ寺院、ジャイナ教寺院、スィク教寺院があり、それぞれのグループの象徴となっている。

 西葛西の“リトル・インド”は2000年代以降に急激に増えたニューカマー(新参者)の集団であり、しかも短期滞在のIT技術者が多いので出入りが激しい。その裏返しとして、宗教施設がない。

 正確にいえば、ヒンドゥ寺院があるにはあるが、“リトル・インド”のための寺ではない。ISKCON(International Society for Krishna Consciousness〈国際クリシュナ意識協会〉の略称)と呼ばれる、1960年代半ばにインド人が米国で創立した宗教団体の寺。「ハレー・クリシュナ」と唱え続けるのが特色の新興のヒンドゥ教で、ビートルズのジョージ・ハリスンが関わったことで知られる。逆上陸する形で、今ではインドにも寺院を建てている。

 日本で活動を始めたのは70年代だが、中野区から江戸川区の船堀駅そばに移ってきたのは6年ほど前である。それまで日本人による活動が主だったが移転前後からインド人が関わるようになり、いまでは寺の運営方針を決める7人のメンバーのうち4人がインド人だという。ひとりに話を聞いたが、ムンバイ出身の彼は日本の有名なIT企業に勤務するIT技術者だった。

 日曜の礼拝では日本人の信者たちが熱心に「ハレー・クリシュナ」を唱和するかたわらで、子供連れのインド人家族が静かに参拝している。この寺では、日本人僧侶がインド人から「プージャ(お祈り)」を頼まれることが増えた。「ムンダン」と呼ばれる、子供の髪を切る儀式などだ。西葛西周辺には僧侶がいないので、ISKCONの寺院にその役割が求められるようになっている。

 インド研究者の神戸大学の澤宗則教授は、西葛西の新しいインド人コミュニティが神戸のインド人共同体と違う点は、宗教やカースト・コミュニティの集団的なアイデンティティを育む装置がほとんどないことだと指摘している。宗教施設がその典型だ。タトゥワ・インターナショナルスクール教師のカーラは、東京のインド人学校で育つ子供は宗教やカーストをインドにいるときほど強く意識しなくなると語っていた。インドで暮らせば、日々、自分が属する宗教やカーストを再確認させられる。逆説的だが、東京では、「インド人」というナショナリティによって自己を確認する傾向が強くなる。だから、「新しいインド人」が育つとカーラは考えている。

■新たな共同体として

 西葛西に「リアルなリトル・インド」を建設しようという動きがある。一般社団法人「リトルインド東京」は2年前に設立された。ヨガ教室やカレーショップなどが立ち並ぶ「インドストリート」をつくるなどの目標を掲げるが、もっとも重要な課題がヒンドゥ寺院の建立だ。

 リトルインド東京の発起人は江戸川インド人会会長のチャンドラーニと江戸川区議会議員の桝秀行。桝は、これといって特色のない江戸川区をアピールする方法を思案していた際、どんどん増えるインド人の存在に気づき、交流を深めるようになったという。

「寺院を建立する候補地は決めています。4億円程度と考えてはいるんですけど、建設費のめどはまだついてない」

 IT技術者は出入りが激しく、長期のプロジェクトに巻き込むのは難しい。担い手の中心は「オールドカマー」になってしまうが、最古参のチャンドラーニはそれでも「リアルなリトル・インド」が必要だと説く。

「日本でこれだけたくさんのインド人が同じ地域に住んだことはなかった。ここはインド人のフロンティアですよ。わたしはインド人のためにファシリティ(施設)をつくりたい」

 いずれ東京を離れるIT技術者と定住者とのあいだに温度差があるのは致し方ない。興味深いのは、チャンドラーニが「シンド商人」の末裔だということである。

 シンド州は現在はパキスタンに属する。州都はパキスタン最大の港湾都市カラチ。シンド州はかつてはインドだった。1947年にパキスタンがインドから独立した際、パキスタンに編入された。チャンドラーニ家はシンド州タッタの地主で、カラチを拠点に国際貿易を行っていた。シンド商人である。

 チャンドラーニがカルカッタで生まれ育ったのは、イスラム教の国として建国されたパキスタンが独立する際、両親が命からがらインドへ逃れてきたからだ。ヒンドゥ教徒が大量に難民化したのである。シンド州には一度も行ったことはないが、喪った故郷へのチャンドラーニの思い入れは深い。

 近代国家日本が開国した際、いち早く日本にやってきたのがシンド商人だった。1880年代のことである。シンド商人は神戸に共同体を形成している。チャンドラーニが来日する前、従兄が関西に住んでいたのもそのためだ。

 UR住宅にインド人を送り込むことで“リトル・インド”に貢献している石川カマルも、じつは、シンド商人の一統だ。祖父母の代にシンドからボンベイへ逃れた。母方の祖父の弟が今も神戸に住む。

 多くのIT技術者を知るカマルは、「残念ながら、日本に興味をもつ人は少ないです」と明かす。関心事は日本でどれだけ蓄えを増やせるか。「日本にも原因はあるよ」とカマルは控え目に付け加えた。UR以外の物件ではインド人の入居を渋る家主は多いし、UR住宅でも「インド人の子供がうるさい」と隣人が苦情を寄せることが珍しくない。

 よりよい報酬を求めて国際労働市場を渡り歩く技術者たちは、フェイスブックなどを介してつながる、いささかバーチャルな集団である。ニューカマー(新参者)がオールドカマー(古株)に支えられながら、“リトル・インド”は大海に漂う小舟のように存在している。

「リアルなリトル・インド」を西葛西に建設する試みは一筋縄ではいきそうにないが、そんなことに頓着せず、「新しいインド人」を育む学校で子供たちは学ぶ。東京に生まれた「小さなインド」では、グローバリゼーションという濁流のただなかに共同体を創造する実験が今日も密やかに進められている。

(文中敬称略)

(佐々木 実)

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