不倫はなぜ罪深いのか――「貧困型不倫」と「富裕型不倫」

不倫はなぜ罪深いのか――「貧困型不倫」と「富裕型不倫」

(c)iStock.com

 映画版「昼顔」の結末があまりに残酷なものであったことで、私の周囲の斎藤工ファンがメソメソしている。しかしセンセーショナルな不倫ドラマは、やはりあのようにしか終わり得なかったのだろうし、私的には不倫がよくも悪くも人の関心を惹きつけ、多くの場合は拒絶反応を引き起こすということを再認識させられた。

■不倫は希望を奪う

 ここ2年ほどの過剰とも見える芸能人の不倫報道も、「昼顔」の悲劇的なラストも、単に近年よく見られるような行き過ぎた道徳心の引き起こした結果であると一蹴してしまうのは簡単だ。ただ私がそれほどシニカルになりきれないのは、もっと根本的で本能的な拒否感を感じるからだ。不倫が忌み嫌われるのは、ものすごく愛し合っているにせよそれなりに惰性の関係であるにしろ、夫婦関係の片割れである残された妻や夫から、世界で一人だけしか救えない状況になった時、必ずその一人には自分を選ぶであろうという希望を奪うからに他ならない。

 少なくとも彼だけは自分を救ってくれるだろう、という辛うじてある希望を失うことは、人間にとって耐え難く心細いものである。「昼顔」は映画となってより一層、妻の不安と絶望を顕著に描いたが、私自身、独身のまま昨年母を亡くして今まで以上に強くそう感じている。

 もちろん、自分の味方になってくれる人を増やし、守ってくれる人を増やすというのは誰にとっても人生の一側面であり、幸運な星の下に生まれ、またそこに甘んじずに努力すれば「社長のためになら自分が犠牲になってもいい」という部下を多く持つかもしれないし、「何よりも優先すべきはタクヤ」というファンを増やすかもしれないが、多くの凡人達にとってそれは結婚して生涯ともに歩もうと誓った相手たった一人の票しか期待できない。また、運が悪ければそれすらも手に入らないわけである。

■なぜ「銀座ホステス裁判」は、オヤジ臭い判決になったのか

 物議を醸したことで覚えている方もいるだろうが、2014年に判決が出た銀座ホステス枕営業裁判というものがある。裁判を起こしたのは女性で、夫と銀座のクラブのママが長年に渡って深い仲にあったことで精神的な苦痛を強いられたとしてクラブのママに慰謝料を求めたものだ。裁判官は不貞行為の事実の追及に重きを置かず、クラブホステスにとって「枕営業」というのは営業行為であるとしてその訴えを退けた。

 確かに広義の不倫、つまり婚姻関係がある人がパートナー以外の人と肉体的あるいは精神的に強いつながりを持つ行為には二種類あるという見方はできる。「純愛型」の不倫と「愛人型」の不倫と言ってもいいし、「感情型」の不倫と「理性型」の不倫と言ってもいい。つまり、それこそ「昼顔」の上戸彩と斎藤工のようにお互いどうしようもなく惹かれあって、結婚している自分の事情など考えられないほど愛し合ってしまってチョメチョメるというのと、クラブホステスに入れ込んで通いつめ、チョメチョメまでありつくというのとではだいぶ印象が違う。

 おそらく、古き良き時代の男、正しく言えば前近代的な思想の男は、「イエ」に対する責任愛と、遊女や芸妓を愛でる愛とは別物であり、妻と愛人は別物であるという認識だったからこそ、かの銀座ホステス裁判は革新的でありながらどこか懐古的な、オヤジ臭い判決という印象を帯びたのであろう。実際、決して多数ではないが成功した男たちが妻以外の女性を妾や愛人などと呼び、一定の責任をとって面倒をみた時代は確かにあった。

■「貧困型不倫」と「富裕型不倫」とは何か?

 ただ、現在の不倫を見ると「純愛型」「愛人型」などとうまく峻別するのは難しい。交際クラブに登録して女の子に幾らかのお小遣いをあげて食事やセックスに励む既婚男性は多いが、彼らはかつての妾の面倒を見るほどの気概も経済力もなく、また妻への愛と交際クラブの女の子への愛をうまく使い分けているようにも見えない。キャバクラに通いつめる客たちもまたしかりである。あるいは、愛の使い分けができていて、妻や家庭への愛はまた別の確固としたものとして保存されていたのだとしても、交際嬢やキャバ嬢への愛もまた、情けなく滑稽ですがるように真剣なものであったりする。

 結局、不倫の種類を決めているのは、既婚者ではない側の心持ちなのである。既婚男性と独身女性であれば、女性側が何目的であるか、というのがそれを決定しているに過ぎず、男性の側に真実か虚構か、純愛か遊びかの決定権はない。銀座ホステスと「昼顔」の上戸彩では女性側の心持ちはまるで違うが、恋い焦がれていた男性側の感情にそれほどの大差があるとは思えないのだ。先の裁判の判決が銀座側からすれば理にかなったものであり、妻側からすれば全く要領を得ないものであるのもそのせいだ。

 既婚男性と肉体的あるいは精神的に深い関係にならんとする女性の方は簡単に分けてしまえば「貧困型」と「富裕型」に分類することができる。別に貧乏臭い格好をしているかどうかとか、収入がどれだけあるかに関わらず男性の金銭的な援助を目的とした関係を貧困型とした場合、枕営業をするキャバ嬢も愛人バンクに登録して月のお手当てをもらう愛人たちも、風俗嬢も大まかにはこちらに入る。別に、いわゆる玄人でなくとも、お小遣いや自分では買えないようなプレゼント、自分では入れないような店やホテルのスイートに目が眩んで港区あたりでおじさんたちを弄ぶ女子たちもまたそうだ。

■「昼顔」の上戸彩も、ベッキーも「富裕型不倫」

 対して、たまたま恋に落ちた相手が既婚者だったという女性、あるいは、特にお小遣いやプレゼント目的ではないが、スリルや切なさを求めて不倫をする女性たちも存在する。「昼顔」の上戸彩もそうだし、ベッキーだっておそらく相手のバンドマンからの金銭的援助など期待していなかったわけだから、こちらに入るであろう。それを「富裕型」とあえて私が呼ぶのは、既婚男性とうっかり恋に落ちがちな女性や不倫好きな女性というのは、圧倒的に社会的に自立した、いわばキャリアウーマンが多いからだ。

 おそらく、仕事で立身出世する気がない女性は相対的に結婚願望が強く、よくも悪くも既婚男性などはそもそも眼中にない場合が多い。逆に言えば別に本人としては既婚男性を選んでいるつもりがなくとも何故か既婚者と恋に落ちがち、という女性は、ある意味では純粋で、結婚して生活を安定させようだとか、あわよくば主婦になりたいといった計算なく男性を眼差している女である。そうした態度は総じて自分で生活を安定させることができる、人生に余裕がある人にしか成し得ないものであると言える。当然、自分のことをハナから圏外指定してくる女と、そういうことはあまり考えず分け隔てなく接してくる女であれば、男性が後者と恋に落ちる可能性も高い。

■不倫に類型はあっても、男に決定権はない

 何も、女性の職業や収入が「貧困型」と「富裕型」を決定づけるわけではなく、そこではあくまで傾向を読み取ることしかできない。それに「貧困型」として始まった不倫も純愛の色を帯びてくることだってある。ドラマ化もされた有吉佐和子「不信のとき」では、主人公の既婚男性はホステスと恋に落ちるが、そこに描かれるのはどちらかと言えば純愛型の愛憎劇である。ただ、それが分類の垣根を超えてくるかこないかというのも所詮、女性の方が思いの外本気で好きになってしまったか、どんなに甘い言葉を口で言っても結局は金の切れ目が縁の切れ目でしかないか、という女側の事情によるのであって、男に決定権はない。

 男に決定権がないというのはつまり、男の罪は等しく重いということであるし、妻の不快感や苦しみも大小の差がないということでもある。ただ、それは妻の不快感や苦しみが「一種類しかない」ということにはならない。

■不倫のタイプによって罪の軽重があるという幻想

 実は妻の側から見ると、二種類の不倫に対する憎むべきポイントというのは微妙に違う。純愛型の不倫は、「昼顔」の斎藤工がそうしようとしたように、妻の立場が揺らぐ可能性を孕む。つまり不倫相手は妻にとって脅威となるわけで、奪われる不安や自分の居場所がなくなる焦りによって苦しむのは当然だ。冒頭で述べたように、不倫の一般的な意味での拒絶反応も、この奪うものに対する恐れと嫌悪感からきているのは間違いない。

 対して、「貧困型」の女子たちが妻の脅威となるかというとそれはあまり考えられない。そもそも妻の座を狙っていない場合が多いし、ただの金目当てや玄人系の場合、本命の恋人は別にちゃんといるという女の子だっている。女にその気がなければ流石に男性が妻との関係を断ち切ってまで乗り換えるということは考えにくい。

 だからといって罪が軽いということにならないのは、何も人の傷というのは奪われる恐怖や居場所を失う絶望といった「昼顔」の妻的なものによってのみつけられるものではなく、別の形の、やはり堪え難いつけられ方というのがあるからだ。それは言わば自尊心が傷つくという苦しみ、バカにされていることの苛立ちである。自分が(少なくとも形上は)愛している旦那を、金づるとあざ笑って利用し、利用しておいて陰で「キモいオヤジ」だと蔑む女がいるとき、そしてそんなことにも気づかずつかのまの恋にうつつを抜かす自分の夫がいるとき、女性のプライドはとても揺さぶられる。それは自分自身がバカにされ見くびられているのと同等の、あるいはそれ以上の苦しみなのかもしれない。

 おそらく妻自身もそれほどはっきりと区別して憎んでいるような類のものではないのかもしれないが、例えば「別にお前と別れるわけではない」だとか「ただの遊びのつもりだった」という言い訳が、あるいは「所詮、浮気相手だよ、あなたの座は揺らがないよ」という慰めが時に見当違いな響きしか持たないのは、傷のつき方にも形の違いがあるからだ。銀座ホステスが何も妻の座を奪おうとも彼らの関係を壊そうとも思っていなかったと考えたのであろう判決は、ホステス側から見て正しいものであっても、精神的苦痛を感じた妻の訴えと夫の罪をなきものとするに足る論理ではない。そう考えると「風俗は別物だよ」なんて言う男性の論理は、人の傷がどのようにしてできるかについて何の自覚もないという意味で、大変空虚なものに聞こえる。

(鈴木 涼美)

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