「娘を売った金で」極貧小作人と横暴官憲の闘い「木崎村小作争議」とは――作家・大宅壮一が振り返る

「娘を売った金で」極貧小作人と横暴官憲の闘い「木崎村小作争議」とは――作家・大宅壮一が振り返る

昭和5年11月14日浜口雄幸首相(当時)が東京駅で右翼青年に撃たれる事件が発生 ©共同通信社

 地主の横暴に抗する農民組合を援助して起った広汎な文化人の闘争に参加し、堂々官憲と闘った筆者の描くその顛末!

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「木崎村暴動事件」( 解説 を読む)

■敗戦後の青年層に広がった社会革命運動への熱

 敗戦直後の日本に思想的な颱風がやってきて、あらゆる面で価値転換が行われたことはだれもが体験したことであるが、第一次大戦後、即ち大正末期から昭和の初めにかけても同じような現象があらわれた。特にその影響を強くうけたのが青年層であったことも、変りがない。

 当時のスローガンであった“改造”や“解放”などというのは今も残っているが、そのほかに“ナロード”というロシア語が日本の青年たちの間に流行した。これは“民衆”という意味で、“ヴ・ナロード”(民衆の中へ)というのが、そのころの合いことばとなり、若いインテリゲンチャの血を沸き立たせたものだ。これは初めは主としてロシヤ文学、特にツルゲネーフの小説などからきたもので、さらにソ連におけるプロレタリア革命の成功が強い刺戟となった。この思想にゆさぶられて“民衆の中へ”とびこんで行ったものを、“ナロードニキ”といった。

 東大の「新人会」、早大の「建設者同盟」などの学生団体は、こうした時代的背景のもとに生れたのであって、今日社会党の幹部になっている人々は、ほとんどこの時代の第一期生と見てよい。特に「建設者同盟」に属していた人たちは、農民運動の“処女地”(これもツルゲネーフの小説の題名だ)を開拓するために、各自手分けして地方農村へ入って行った。三宅正一、稲村隆一は新潟へ、川俣清音は秋田へ、平野力三は山梨へ、浅沼稲次郎は関東へという風にだ。そこでかれらは農民組合をつくり、後にはこれを地盤にして代議士に出たのである。中には平野のように、保全経済会に関係して落伍したものもいるが、多くは今もその地盤を守りつづけている。

■娘を売ったお金で生活…… 貧しさを極めた農村の怒りが爆発

 この時代のもっとも大きな出来事の一つとして、当時連日新聞紙面を賑わし、社会に大きなショックを与えたのが、新潟県木崎村の無産農民小学校事件である。これは同地における小作争議と共に発生したものであるが、全日本的な話題となり、中央の文壇、思想界の進歩的分子がこぞって、いや、“ブルジョア派”のレッテルをはられていたものまでが、これを応援し、その後にできた言葉でいうならば、一種の“人民戦線運動”にまで発展したのである。

 新潟県は、日本一の米作地帯であると共に大地主の多いことで知られている。米だけの単作で、それ以外に収入の道がないので、あまった人口は大都会に出て、男は三助となり女は娼妓や女工となった。そのころの農会の統計によると、新潟県の小作人は、1人1日22銭5厘の生活をして、しかも年に一戸あて450円以上の赤字が出ることになっていた。この生ける屍のような生活さえつづけて行くことができなくて、娘を売った金で小作料を支払わねばならなかったのである。

 そこへ社会革命の情熱に燃えるインテリが入って行って、大地主に対抗して生活を少しでもよくするには、団結によるほかはないことを説いたので、農民組合が燎原の火のようにひろがって行った。そしてついに劃期的な小作争議となって爆発したのは、大正が昭和に移った年の5月である。

■「組合長の切腹事件」世論を巻き込む大争議へ発展

 そのキッカケとなったのは“込米”の廃止ということである。“込米”とは何かというと、幕府時代に農夫が殿様に年貢米を上納する場合、計って見てほんの少しでも足りないと、悪代宮などのためにひどい目にあうので、これを恐れて農民の方は規定の数量よりも1割くらいは多く納めることになっていた。封建的空気の多分に残っていた新潟では、地主がこの慣例をうけついで、余分にとっているが、これをやめてほしいと小作人の方で要求したのである。

 この要求は、その前からつづけられていたが、新潟県地主会長の真島桂次郎は、この要求を出した小作人の土地約60町歩に対し、耕作禁止の仮処分を申請した。すると裁判所は、1回の口頭弁論も開かずにこれを許可したので、木崎村小作人組合長は切腹するという惨事まで起った。世論が沸騰したことはいうまでもない。

 さすがに裁判所の方でも困って、仮処分の取下げを斡旋し、土地は小作人の手にもどったが、耕地引上げの訴訟の方はつづけられた。第一審は小作人側の負けとなり、第二審に移ったときに、またも耕地引上げに伴う立入禁止の仮執行を申請した。小作人の方ではこの仮執行の停止を申請し、これが聴許されたという電報がとどいたにもかかわらず、地主側は数百人の警官隊援護のもとに、強引にも仮執行を完了した。田植を目前にひかえて小作人は耕地に入ることができなくなったのである。これを冒して入った小作人30余名は、公務妨害騒擾の罪に問われて検挙され、68戸450人のものが生活の基礎を失うことになった。

■「争議で学校にいけない」日本最初の無産小学校建設計画が始動

 そこで、日本農民組合指導のもとに争議に入り、ただちに演説会や家族大会を開く一方、行商隊の編成、小作人女房の地主連日訪問などが行われ、争議はますます深刻な様相を呈してきた。

 木崎村の学童約1000名のうち700名までが、争議が始まると共に登校しなくなったので、同村の小学校はほとんど授業停止の状態になった。ここにおいて組合側は、小作人子弟だけの小学校をつくることを計画し、つぎのような声明文を発して各方面に訴えたのである。

「(争議の原因とその過程を説明した上で)乍然国民教育の一日もゆるがせにすべからざると、今日の資本主義教育の如何に児童を毒するかを知る吾等は、近く優秀なる教員を招致し、最も理想的なる我国最初の無産小学校建設の計画に御座候間、何卒物質的にも精神的にも十分なる援助を賜はり度く懇願仕り候」

 このころはこういった声明文も候文で書かれていたのである。そしてこの学校の先生には、安部磯雄、大山郁夫、杉山元治郎など、社会主義運動の長老たちが就任することを承諾し、校長には賀川豊彦氏が選ばれた。

 ところで、学校には校舎が必要である、というよりも、校舎をつくる金が必要だ。その金をつくることで、この争議を指導していた三宅正一(現右社代議士)、稲村隆一(現左社代議士)の両君から私は相談をうけた。当時私は新潮社発行の「社会問題講座」の編集をしていたので、同社顧問の加藤武雄君、相談役の木村毅君らにこの話をもちこんだ。いずれも前から「日本フェビァン協会」のメンバーで、社会主義運動には相当の理解と熱意をもっていたし、特に加藤君は農民文学運動の首唱者として、できるだけの援助をしようということになった。

■菊池寛らの「農民小説集」で資金集め

 もっとも早く金をつくる手段として「農民小説集」というものを編集し、その印税を寄附してもらうことになった。加藤武雄、藤森成吉、木村毅の共編で、つぎの作家から農民をあつかった作品を1篇づつ出してもらった。

 芥川竜之介、菊池寛、吉田絃二郎、秋田雨雀、真山青果、中村星湖、小川未明、細田民樹、中条百合子、金子洋文、中西伊之助、犬田卯、和田伝、鈴木喜和雄、今野賢三、悦田喜和雄のほかに、編者の3人と私も加って、合計20人である。

 私の場合は、まったく処女作、というよりも、このほかに私は小説らしいものを2、3篇しか書いていない。これは、題名を忘れてしまったが、この少し前に「文芸春秋」に投じて採用になったところ、印刷所の火事で原稿もゲラ刷りも焼けてしまったのをもう一度思い出して書いたものである。

 これらの作家の承諾を求めるために、私は同社に入社してまもない楢崎勤君と手分けて訪ねてまわったが、いずれも大賛成で、断ったのは正宗白鳥氏ただ1人だった。正宗氏のいい分は、

「私は岡山県の地主で、今も小作人にはひどい目にあっているから、こういう運動を応援するわけに行かない。私にいわせれば、ふだんブルジョア呼ばわりされている菊池君とか資本家である新潮社がこれを応援する気がしれない」

 というのである。いかにも白鳥らしいものの考え方である。

 それはさておいて、この小説集は定価が1円80銭で、初版3000部の印税580円入ったが、これだけでは、田舎のどんな小さな学校でも建つものではない。そこで関係者一同相談の上、新潮社から3、4000円ばかり借り出すことになった。といって、無条件、無担保で借りられるものではない。結局、当時「死線を越えて」その他出るもの、出るものベストセラーとなっていた賀川豊彦氏の全集を担保にするということで、建築用材を仕入れるのに必要な金を借り出すことができた。とにかく材木を現場にもちこめば、あとはどうにかなるというので、三宅君はこの金をにぎって新潟へ急行した。

■地主の横暴に連日連夜で反対運動

 その間にも争議はつづけられていた。地主の態度はなかなか強硬だというので、東京から作家、評論家その他の文化人が続々と応援にのりこんだ。

 私も木村毅君やロシア文学者の富士辰馬君などと共に出かけて行った。現地へつくと、ちょうど田植前で、見わたす限りの水田には、水が満々とたたえられている。しかし問題の田には、縄がはりめぐらされ“立入禁止”の制札が立っている。その周囲には蓑笠をきて鍬をもった大勢の小作人と、各地から応援にきた警官隊とが相対峙し、一触即発ともいうべき空気をはらんでいる。

 農民組合側も、全国から応援をえて、大いに気勢をあげていることは、戦後の内灘事件や富士山麓の基地反対運動と同じで、連日連夜演説会が開かれている。会場は小作人の家で、障子やフスマをすっかりとり外しても、せいぜい4、50人しか入らない。そんな家が10軒も15軒もあって、「第五会場」「第八会場」などと貼り紙がしてある。講師はこれをつぎつぎまわって歩くのである。どの会場も資本家、地主の横暴、社会変革の必要が叫ばれ、われるような拍手でドヨめいている。この空気の中に浸っていると、今にも日本に革命に起りそうだった。

■シラミの大軍に、竹藪のような頭髪の子供達

 争議勃発と共に同盟休校をはじめた小作人の子供たちは、無産農民小学校ができるまで村のお寺を仮校舎にして授業をうけている。これは昨年京都の旭ガ丘中学で起った事件と似ているが、旭ガ丘の場合は先生の転勤が原因となったのに反し、こちらは学童をふくめた全家族の死活問題だから、もっと真剣である。

 初め組合幹部が交代で臨時教員として教壇に立っていたが、このニュースが新聞に出ると共に、正教員の免状をもったもので、この学校を忘望するものが、全国各地から続々あつまってきた。

 だが、これらの先生たちは、教壇に立って見て驚いた。その一人がつぎのような感想を新聞に寄せている。

「第一印象は汚いという感じであった。子供の着ている黒光りのする着物、その子供の鼻から流動している2本棒、その黒いウロコの生えているような足、ササラのような女児の頭、初対面で、すっかりドギモをぬかれてしまった。新しいこの先生を珍らしがって、青バナ連中が包囲して、口々に何事か早口にしゃべっているのを見て、全く野蛮人に包囲されたような、泣きたいような気になった。かれらの下駄、ぞうりは、学校にくるときに用いる一種の装飾品にすぎない。道であっても常にバダシで歩いている。村の老人と話していると『今は子供までが下駄をはくようになって――』といっている。鼻をふくからさん然たる光を放っている着物も、親たちが学校に行くときにのみ着せる着物だから驚く。女児の竹藪のような頭髪を見ると、始めは身震いした。その中には、シラミの大軍が潜伏している。15分の休みの時間がくると、女生徒は縁端にあつまって円陣をつくり、各々前の生徒の頭をせせり始める。

■小学6年生で「字が読めない」

 かかる退化した状態にある子供達の学習ときたら、またお話にならない。私の分校約80名のうち満足に読本の読める子供は10人とない。他の子供は全く問題にならない。3年生で“いろは”を知らない子供を知っている。全然読めない子供も相当いる。6年生でほとんど読めない子供が沢山おる。かれらの大部分は、先生の口真似をしているばかりだ」

 人道主義的な情熱に駆られて、“民衆の中へ”身を投じた先生たちが、いかなる現実に直面したか、そしていかに面くらったか、右の文章の中に躍如としてあらわれている。さながらツルゲネーフの小説の一節である。

■悪しき慣習制度がもたらした悲惨な現状

 とにかくこの文章は、社会に大きなショックを与えた。当時朝日新聞はこれを社説に取上げて、つぎの如く論じている。

「――ここで問題となるのは、これら児童の素質、無産小学校の状況ではなくて、児童をこの状態においた従来の小学教育である」

 だが、これを小学教育の責任に帰するのは酷である。

 まず第一に改善しなければならぬのはこの子供たちの父兄の生活であり、それには“込米”の廃止を求めたものを監獄にぶちこむような封建的搾取からかれらを解放することが先決問題である。前記の社説も「木崎村問題を引起したような制度の不自然も改善」さるべきだという結論を下している。

 一方、私たちの調達した金で、校舎の建築は始まった。大勢の組合員の手で突貫工事が進められ、2カ月後の7月25日には上棟式兼開校式が行われた。当日県警察部は制、私服警官200名を駆り集めて物々しい警戒陣をしいたが、その中で3000の農民たちは、どこからかもってきた大釜をたたき、これを合図に、木の香も新しい新校舎で勢ぞろいした。

 神官の祝詞が終ると餅まきにうつり、最後は示威行列となった。農民歌を高唱しながら地主宅に向うところを阻止せんとする警官隊と衝突、大乱闘を演じ、三宅正一外20余名が検束され、翌払暁におよんでようやく静まった。

■「学校を即刻閉鎖」”自発的解散”に追い込まれた農民組合

 こうなると、世論は沸き立ち、政府の方でも何とか対策を講じなければならなくなった。若槻内閣の時で、浜口内相、町田農相、岡田文相などが、新潟県学務部長に上京を命じ、その報告をきいた上、私立学校令に基づいて閉鎖を命じることになった。これに従わない場合は、行政執行法によって罰金もしくは強制執行を行うか、或はこれを結社と認め、できたばかりの治安維持法を適用して解散させるという方針をたてた。

 組合側は、その後県下各地で連日連夜講演会を開いて気勢をあげる一方、問題の無産農民小学校内に高等農民学校を併置し、農業技術と共に、経済学や農民組合の理論と実際を教えて、農民運動の闘士を養成し、女子の専修科もつくるという計画を発表した。

 県当局は、政府の指示をうけて、組合幹部を県庁に招き、学校を閉鎖するようにと警告的懇談を行ったが、組合側は入獄中の幹部の意向もきかねばならぬし、小作争議と学校問題は切りはなすことはできぬといって、これを拒否した。

 そうこうするうちに9月の新学期が近づいた。無産農民小学校の建築もまもなく完成することになったためで、組合側では9月1日を期して落成式を行うと同時に、東京から多数の名士を呼んで、木崎村事件真相報告大演説会を開く計画を進めた。その後でまた地主の家に示威行列を行うものと見てとった県警察部は大いに神経を尖らし、これを事前に抑止する手をうってきた。

 初めは“懇談”的なゼスチュアを示した県当局も、こんどは組合幹部に出頭を命じ、警察部長立会いの上で、学校を即刻閉鎖しなければ、組合幹部を治安維持法によって逮捕する旨申しわたした。

 組合側にしてみれば、この小作争議に勝って耕地をとりもどすことが先決問題、いや、死活問題なので、これ以上頑張ってさらに犠牲者を出すわけに行かず、ついに涙をのんで県当局の申し入れをのみ、無産農民小学校は組合側で“自発”的に解散することになった。

■忘れさられつつある「強権組織」との対立の歴史

 かくして日本社会運動史上珍らしいケースとされているこの事件も幕を閉じたのであるが、これは今からちょうど30年前のことである。

 その間に日本は満洲事変、中華事変、太平洋戦争などを行ってついに負けたのであるが、日本の文化水準や国民の生活程度の上っていることは、30年前の比ではない。少くとも、前掲の無産農民小学校の先生が報告しているような状態は、日本中どこへ行っても見られない。

 新しい憲法によって基本的人権も或る程度守られるようになっている。現在の日本でなら、このような学校ができても、強権をもって解散させられるようなことはあるまい。現にこれに似た学校が戦後にできてもいる。

 こういう点では、この30年の間に、特に戦後の10年間に、日本は格段の進歩を見せている。しかし国民の間における基本的対立というものは、まだ解消するにいたっていないし、2つの勢力の間の対立抗争の形式も、あまり変ってはいない。

 だが、せんだって私は、新潟県下を講演して歩いて、この事件を知っている人や覚えている人が、きわめて少いのを知って驚いた。すべては時代の波に押し流されて泡のように消えて行くものらしい。

(大宅 壮一/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

関連記事(外部サイト)