「恨み深し!」刺激的に伝えられた残虐な”通州事件”は南京虐殺の引き金だったのか?

200人以上の日本人が虐殺された『通州事件』について、南京大虐殺と関連があると分析

記事まとめ

  • 1937年の『通州事件』で、中国の冀東政府に200人以上の日本人が虐殺された
  • 近年では、通州事件と4カ月半後に起きる南京大虐殺を関連づける主張も見られる
  • また、新聞にとって戦争は儲かるものらしく、通州事件後に報道はエスカレートした

「恨み深し!」刺激的に伝えられた残虐な”通州事件”は南京虐殺の引き金だったのか?

「恨み深し!」刺激的に伝えられた残虐な”通州事件”は南京虐殺の引き金だったのか?

当時の南京の様子 ©文藝春秋

■解説:残虐行為は南京虐殺の引き金になったのか?

 日中戦争には分かりづらいことが多い。「冀東防共自治政府」といって、理解できる人がいまどれくらいいるか……。宣戦布告がなされなかったため、正確には「戦争」ではなく「(満洲、支那)事変」だったのをはじめ、日本の中国侵略の過程が複雑だったことが原因だ。例えば、当時の日本軍のスローガンは「暴支膺懲」。「暴戻支那を膺懲する」の略で、「暴戻」とは乱暴で人道に外れていること、人民をいじめることだ。1937年8月15日に日本政府が発表した声明は、「帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」となっている。要するに政府や軍を懲らしめて正道に戻すというイメージで、建前では、敵は中国国民党軍や共産党軍であって、中国の民衆ではなかった。

 1931年の柳条湖事件で始まった「満洲事変」は33年5月、「塘沽停戦協定」で表面的にはいったん終結。その際、関東軍の要求で冀東(河北省東部)を非武装地帯とし、中国軍の立ち入りを禁止した。これは、日本の軍部が華北地域を満洲同様、中国から切り離して事実上領有しようという「華北分離工作」の始まりだった。冀東は九州と同じぐらいの面積で人口約625万人。そこに日本の傀儡政権として35年11月に誕生したのが冀東防共自治委員会(のち冀東防共自治政府に)だった。通州はその本拠地で、主席は中国国民党で蒋介石の通訳などをしていた早稲田大卒の「日本通」殷汝耕。37年7月29日の通州事件は、味方であるはずの冀東政府の治安部隊・保安隊が「兵変」を起こし、日本軍駐留部隊や特務機関、在留日本人を襲撃、虐殺したとされた。被害者は本編にあるように200人以上。公式戦史に近い「戦史叢書」などは「223人」としている。うち半数以上が反乱を起こした兵員について、事件に最も詳しい広中一成「通州事件」は、保安隊などの計約7000人としている。

「通州保安隊の叛乱鎮圧」「北平本社特電(廿九日發)廿九日通州城外冀東保安隊二百名は突如叛乱を起しわが軍に対し射撃を加えたのでわが部隊は応戦追撃を加へこれを鎮圧した」。事件を伝える東京日日新聞(東日)の第1報、37年7月30日朝刊2面のベタ(1段)記事だ。第2報の31日夕刊は1面トップで「通州の保安隊暴動化」の見出し。「冀東保安隊の叛乱は丗日午前にいたり遂に暴動化し通州城内もこれら保安隊に蹂躙され、冀東政府並にわが出先機関との連絡全く途絶し一説には城内にあったわが少数部隊並びに細木特務機関は全滅したと伝えられる」と報じた。対して朝日新聞は同じ夕刊で「通州邦人の安否憂慮」という段階。以前から東日は陸軍寄りといわれており、その差が出たのかもしれない。

 以後、報道はセンセーショナルにエスカレートする。見出しだけ見ても「鬼畜も及ばぬ残虐」(東日7月31日号外)、「恨み深し!通州暴虐の全貌」(朝日8月4日夕刊)、「宛(さなが)ら地獄絵巻」(同)、「敗残兵なほ出没 宛然!死の街」(朝日4日朝刊)、「人生の悲劇をこゝに あゝ鬼畜残虐の跡」(東日5日朝刊)…。本編の安藤利男記者の脱出後の手記が朝日、東日両紙に載っているが、「縛り上げて刑場へ 血に狂ふ志那兵 死の通州脱出談」(朝日8月2日朝刊)、「“死の通州”脱出血涙手記 “邦人虐殺”の銃口下 近水楼屋根裏の恐怖」(東日3日夕刊)とおどろおどろしい。これには理由もあった。

■新聞にとって”戦争は儲かるもの”

 37年7月7日の盧溝橋事件は現地の交渉で収まりそうになったが、あくまで強硬姿勢をとる関東軍と陸軍中央多数派の圧力で部隊増派が決定され、7月28日に中国軍への総攻撃が始まった。通州事件が起きた29日、日本の陸軍当局は東京の新聞・通信社の編集局代表を内務省警保局に招致。陸軍省新聞班斎藤少佐が31日の官報で新聞紙法第27条(「陸軍大臣、海軍大臣及び外務大臣は、新聞紙に対し命令を以て軍事若しくは外交に関する事項の掲載を禁止し又は制限することを得」)の発動を公布することを通告した。「27条の発動に依って報道機関の使命を阻害せんとの意思は毫もなく、唯、時局を認識の上、国家的協力を俟つものであり、許可ある範囲において、更らに一層の世論昂揚を希望する」と述べた(「日本新聞年鑑」)。報道の取り締まりが強化され、記事は「世論昂揚」するものでなければ載らなくなりつつあった。そして、よく知られていることだが、新聞にとって“戦争はもうかるもの”だった。出征した家族や友人らのわずかな消息を求めて紙面に目をこらす。日清、日露戦争でもそうだったが、「満州事変」でも新聞各紙は部数を大幅に増やしていた。「またチャンス」と考えた新聞人は少なくなかったはずだ。

軍と密着の同盟通信・安藤記者の決死の脱出劇

 安藤記者が所属していた同盟通信は、現在の共同通信と時事通信の前身。事件前年の1936年1月1日に発足していた。通信社の新聞聯合社と、広告業と通信社業を兼ねていた電報通信社(電通)の報道・通信部門が統合。「諸外国にならってナショナルエージェンシー(国を代表する通信社)を」という政府の意向に沿った国策通信社だった。国内外80支社局と延長7000キロの専用電話線を持ち、敗戦時の社員・雇員は約5500人。その機能が報道だけでなかったことは「共同通信社50年史」も認める。「外務省や軍が同盟の人事に関与したり、同盟に仕事のやり方を指導・注文するのは日常茶飯事だった。同盟の側も外務省や在外公館に対し、同盟出先の事業拡大などのための資金援助をしばしば要請していた」「同盟のイメージは国家機関に限りなく近い」。里見脩「ニュース・エージェンシー」は「『日の丸の翻るところ同盟あり』をスローガンに約1700人もの社員が国外で活動した通信社は他になく、その評価はともかく、世界最大の規模を保持したのは確か」という。

 同盟は「満洲」と合わせた中国大陸に約30カ所の総局・支局があったが、盧溝橋事件後、陣容はさらに強化された。「通信社史」は「(同盟)創業の翌年―昭和十二年七月―には日華事変に直面し、それが空前の大動乱に発展していく過程において、目覚ましい活躍を演じた」「日華事変の報道こそは、『同盟』がそのあらゆる人的・物的能力を傾倒したものであった」と書く。7月30日北平(現北京)発の同盟電は通州の模様を報じた後、「同地にありし各社の従軍記者も昨日来ほとんど消息を絶ち、その安否が気遣われている」と伝えている。「通信社史」にも「通州の反乱事件では、たまたま天津から北京に帰任の途中にあった安藤利男記者が捕らえられ、まさに射殺されようとする寸前、刑場から劇的脱走を試み、成功したという一幕もあった」と、本編を裏書きする記述がある。

■今も確定しない「通州事件」の引き金

 冀東政府主席の殷汝耕は、当時面談した朝日新聞記者の尾崎秀実(ゾルゲ事件で死刑)が「一世の風雲児」と評価した人物。事件後、主席を辞任。冀東政府は北京で同年12月に成立した王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府に合流して消滅した。戦後「漢奸」とされ、本編に書かれたような最期を遂げる。しかし近年、その政治理念を再評価する動きもある。当時の親日政権の研究を続ける関智英・東洋文庫奨励研究員は、殷を「孫文に先んじて大アジア主義を提唱するなど、多面性がある」とし、冀東政府についても「日本の影響下に成立しながら、日本からは独立した存在たらんとした」として、日本の傀儡という単純な見方には収まらないとの見解を示している。

 事件の原因については諸説あり、いまも確定していない。日本軍の総攻撃の中で「関東軍の飛行隊がその際、冀東政権の保安隊兵舎を誤爆した。冀東保安隊は、日本軍が自分たちを攻撃したものと早合点して、日本軍や居留民に対する襲撃を開始した」(古賀牧人「近代日本戦争史事典」)というのが、最も多くいわれる説だ。また、冀東保安隊と国民党軍の間に「通謀」や「密約」があったとする見解も目立つ。東日7月31日朝刊には「冀東政府保安處長張慶余が潜入した廿九軍敗残兵の煽動に乗せられ」とあり、当時から公然たる事実になっていたことが分かる。その張慶余(正確には保安隊第1総隊隊長)は1982年に回想録を発表。「中国国民党第29軍とかねてから接触し、『日本打倒』の密約をし、『通州決起』となった」と告白した。しかし、これにも疑問の声がある。ほかにも、29軍が日本軍との戦闘で大勝したというデマ宣伝を国民党がラジオ放送で繰り返し流したのを信じたという説も。「戦史叢書」は「かねてから抗日戦線参加の工作が進められていたが」「関東軍飛行隊が保安隊兵舎を誤爆したのを憤激し、かつ、第二九軍戦勝の宣伝を信じて反乱を起こし、冀察当局から賞与を得ようとしたものであった」と3つを組み合わせて原因としている。

 ほかにも、保安隊に中国共産党軍の兵士が入り込んで謀略工作を行った結果だとする見方もある。興味深いのはアヘンを理由とする説。冀東防共自治政府は、「冀東特殊貿易」と呼ばれた低関税による密貿易と、アヘンの精製・売買で膨大な利益をあげていた。江口圭一「日中アヘン戦争」に登場する日本人麻薬製造技師は「冀東地区こそ、満洲、関東州などから送り込まれるヘロインなどの密輸基地の観を呈し始めたのである。首都は通州に所在したが、この首都郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、麻薬製造が公然と行われたのである」と語っている。売買には多くの朝鮮人が関わっていた。この麻薬汚染に憤った中国の民衆が襲撃に関与したという見方だ。保安隊の襲撃は周到な計画の下に準備されていた。広中一成「通州事件」は事件の背景について、「保安隊員らがもともと抱いていた抗日意識、または、軍統(蒋介石直属の謀略機関)や中国共産党による謀略工作が大きく影響したと考えた方が自然だろう」と結論づけている。

■「南京虐殺」と「通州事件」 無視できない関連性

 近年、通州事件を「通州虐殺事件」として、約4カ月半後に起きる「南京虐殺」と関連づける主張が見られる。特に2015年に「南京大虐殺文書」がユネスコの世界記憶遺産に登録されてから、対抗するように、「通州事件関係資料を世界記憶遺産に」というキャンペーンが始まっている。これに対し、大杉一雄「日中十五年戦争史」は「現在、通州事件を『南京大虐殺』と対抗させてとりあげる向きがあるが、両者はその規模も性格もまったく違うことを認識すべきである」とクギを刺している。江口圭一「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」は「通州事件は南京大虐殺否定論者による免罪符のように利用されている」と指摘。「通州保安隊その他による日本人・朝鮮人・女性・幼児にいたる無差別虐殺は容認できるものではない」としつつ、事件の評価・位置付けには3点の留意が必要と述べる。(1)日本の中国侵略の拠点とされた通州で発生した(2)アヘン・麻薬の密造・密輸の大拠点だった(3)日本軍の守備責任――で、(3)は保安隊が日本軍の統制下にあったことを指している。

 どちらの見解もその通りだと思うが、その上でも通州事件には、南京虐殺との関連を無視できない点がある。南京陥落当時、上海派遣軍と中支那方面軍の兼任参謀だった長勇中佐(昭和陸軍の「皇道派」に属し、最後は沖縄防衛の第32軍参謀長として1945年6月23日、牛島満司令官とともに自決)が1938年に旧知の田中隆吉中佐に語ったところによると、投降してきた中国兵30万人について、軍司令官に無断で殺害命令を出した際、「自分は(支那)事変当初通州に於て行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと喜んだ」という(田中隆吉「裁かれる歴史」)。津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」は、「南京アトロシティーズを通州事件の報復だなどというのは、当時の現地軍高級将校の思考構造をよく示している」と指摘するが。

 橋川文三編著「日本の百年7 アジア解放の夢」は「このときの通州守備隊は、その後華中作戦に転じ、報復心にもえて南京虐殺に参加したといわれる」と書くが、はっきりしたことは分からない。古屋哲夫「日中戦争」は、事件は「反日感情が日本の勢力圏でも広く浸透していることを示すもの」との見方を示している。実際、前年36年11月には、綏遠省(現内モンゴル)で、日本の傀儡勢力の軍が中国軍に敗北した「綏遠事件」が起き、中国の民衆が熱狂。抗日の気運が盛り上がった。

■いつの間にか書き換えられた「保安隊の邦人虐殺」の報道

 当時の新聞紙面を見ると、この時期から、戦争が人々の日常の中に入り込んでいっているのが分かる。この年8月に「国民精神総動員運動」が始まったこともあり、各新聞社は競って前線の兵士への慰問袋の提供を読者に訴え、その反応を連日紙面に掲載した。「千人の女性に一針ずつ赤い糸で縫ってもらった白木綿の布を身に着けると弾に当たらない」という言い伝えの「千人針」が、街頭で普通に見られるようになった。「愛国行進曲」や「海ゆかば」などの「国民歌」「国民唱歌」が作られて人々に歌われ、映画の冒頭に「挙国一致」「銃後を護れ」のタイトルが入るようになった。

「満州事変」勃発からしばらくは、日本兵も「銃後」の日本人も「中国兵はすぐ降参する」とたかをくくっていた。しかし、中国軍は想像以上に頑強で、占領地を点と線でしか抑えられない日本軍の兵士は、戸惑いから徐々に焦りと不安を募らせていく。そこに起きた通州事件。焦りと不安は復讐心と敵愾心に変わる。それにはメディアの責任が重い。事件の模様をセンセーショナルに書くばかりではなかった。死亡した警察官や冀東政府職員の「名誉の戦死をする」「万歳」といった遺書を取り上げ、死亡女性を「叛乱軍と奮戦し壮烈なる戦死を遂げた烈女」として礼賛するなどして盛り上げた。「日本の傀儡である冀東政権の保安隊の行為」を「通州の邦人大虐殺」と言い換え、「中国軍の仕業」として書き立てた。それは日本兵ばかりでなく「銃後」の国民にじわじわと伝わった。国内では、ロシア革命後、赤軍パルチザンが日本人を含む住民を大量虐殺した事件になぞらえて「第二の尼港事件」と呼ばれた。

■『支那膺懲』が高まった「通州事件」が南京虐殺をもたらしたのか?

 事件直後に通州を訪れた加藤久米四郎・陸軍省政務次官(立憲政友会)は帰国後の講演でこう語っている。「駆引、口先で嘘八百を並べると云ふことは支那の国民性だ。日本で正義人道と申しましても、支那人には決して是は分からない。それでありますから、今度の戦さでもそれは十分覚悟してかゝらなければならない」(加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬(うった)ふ」)。こうした中国人に対する侮蔑と敵愾心が国民の間に広がって行った。秦郁彦「日中戦争史」は事件を「真相を知らなかった日本国民の中国膺懲熱を煽る好材料として十分に利用された」と指摘。笠原十九司「日中戦争全史」も「日本国民の敵愾心、憎悪心を煽動し、『支那膺懲』熱を高めるために最大限利用された」と述べる。そうした中国人への感情が国民の間に広がり、醸成されて南京虐殺の「素地」になったのではないか。もちろん、虐殺の免罪符にはならないが、私には、日本人の心情の面で、通州事件が南京虐殺の引き金の1つになったように思えてならない。

 事件後の10日間、現場処理で通州に入った陸軍大尉(当時34歳)は「当初、中国軍の消極的な戦意を見て、この戦争は1カ月くらいで決着がつくと思っていた。それが8年余りも続くとは、誰が予想し得ただろう。通州で邦人の虐殺死体を目前にして、中国人のただならぬ敵意を感じたあのいやな予感は見事に的中したのだった」と語っている(「決定版昭和史8」)。

本編 「通州の日本人大虐殺」 を読む

【参考図書】
▽広中一成「通州事件 日中戦争泥沼化への道」 星海社新書 2016年
▽「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」 防衛庁防衛研修所戦史室編纂 1975年
▽「日本新聞年鑑1938年版」 新聞研究所
▽「共同通信社50年史」 共同通信社・関連会社 1996年
▽里見脩「ニュース・エージェンシー」 中公新書 2000年
▽「通信社史」 通信社史刊行会 1958年
▽古賀牧人「近代日本戦争史事典」 光陽出版社 2006年
▽江口圭一「日中アヘン戦争」 岩波新書 1988年
▽同「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」(「戦争責任研究」所収) 1999年
▽大杉一雄「日中十五年戦争史」 中公新書 1996年
▽田中隆吉「裁かれる歴史 敗戦秘話」 新風社 1948年
▽津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」 社会評論社 1995年
▽橋川文三編著 「日本の百年7アジア解放の夢」 ちくま学芸文庫 2008年
▽古屋哲夫「日中戦争」 岩波新書 1985年
▽加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬ふ」 東京朝野新聞出版部 1937年
▽秦郁彦「日中戦争史」 河出書房新社 1961年
▽笠原十九司「日中戦争全史」 高文研 2017年
▽「決定版昭和史8 日中戦争勃発 昭和12〜13年」 毎日新聞社 1984年

(小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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