「国際政治学者」の先駆け・舛添要一 「読売でもだめ、産経や『正論』に書いていた」“右派論者”時代

「国際政治学者」の先駆け・舛添要一 「読売でもだめ、産経や『正論』に書いていた」“右派論者”時代

舛添要一さん

70歳“前東京都知事”の舛添要一が『ヒトラーの正体』を出版「プロパガンダがなくては成功しません」 から続く

 近ごろはAbemaPrimeなどに出演している舛添要一さん(70)は、かつて一世を風靡した政治学者でした。東京大学助教授の頃から『朝まで生テレビ!』などの討論番組に多数出演。多忙をきわめた「文化人時代」と、当時まだ真新しかった“国際政治学者”を名乗るきっかけとなった「フランス留学」について聞きました。聞き手は、近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。(全3回の2回目。 #3 に続く)

■30年前、「国際政治学者」を名乗りはじめた理由

――今、「国際政治学者」を名乗る人はたくさんいますが、舛添さんはその先駆けのひとりとも言える存在ですよね。

舛添 そうでしたっけ。肩書をどうすればいいか分からなくて「長いけど、まあそれでいこう」と決めたくらいで。元東大助教授も変だし、評論家もいいけどせっかく昨日まで助教授だったんだから、政治学者のなかでも国際政治をやってきたので「国際」をつけました。いい加減です(笑)。

■『TVタックル』のスタートと同時に東大を辞めた

――そうなんですか。 1989年、40歳で東大に辞表を提出して教職を退かれますけれども、その後、国際政治学者の肩書でテレビの討論番組などで活躍されますね。『朝まで生テレビ!』には、いつ頃から出演されていたんですか?

舛添 まだ大学にいた頃だったと思います。『TVタックル』のスタートと同時に東大を辞めたんじゃなかったかな。確か『TVタックル』や『朝生』、田原(総一朗)さんがやっていた『サンデープロジェクト』、それから『サンデーモーニング』。全部あれは同じ時期に出演していたと思います。関口(宏)さんと私は、いつも前の日の土曜日の夜、TBSがある赤坂の辺りでご飯を食べながら打ち合わせをしていましたよ。

――テレビ出演で何か印象深い出来事って、ありましたか?

舛添 今にして思うと、ものすごい数の番組に出演していましたよね。あの頃、バブルでテレビ局にはお金が潤沢にあったから、かなり海外取材に行けたことは非常に良かった。ベルリンの壁が崩壊した時、私あそこにいましたから。実際にあの壁を叩いて持って帰っているんですよね。自分でお金を出してやろうというのも大変だし、テレビクルーや支局の人たちが手伝ってくれるから実現できるわけですよ。

■読売でもだめ、産経や「正論」によく書いていました

―― 『 都知事失格 』の中で、現在の日本社会は「右バネが効き過ぎている」、「健全な保守」が必要という旨を書かれています。当時と比べると、今は極端にブレているという風にお考えですか?

舛添 一つ例を挙げますと、あの頃の新聞で私が何か書いて出せるところは産経しかなかったんですよ。朝日、毎日なんてお呼びじゃなかった。「こんな右翼の学者の見解なんて掲載できるか」というので全部お断りでした。

――当時は右派論者として認識されていたんですね。読売でもだめだったんですか。

舛添 読売でもだめですね。だから、産経新聞だけで。「正論」にもよく書いていました。

――なぜ保守というか、右翼という扱いになってしまったんですか?

舛添 憲法9条改正論者だったからです。2005年、私が事務局で取りまとめた「自民党第一次改憲草案」は1項を変えず、タカ派色を抑えて作ったものでしたが。ヨーロッパから帰国した当時、進歩的文化人と言われていたリベラルの人たちのことを批判していたのも影響していると思います。

 今の産経新聞から見ると、今度は私が左翼になっているでしょうね。私の発言や思想は変わっていないのに、かつて右翼で今左翼って、何なんでしょうね。

■まるでヒトラー治世下のドイツみたいだった東大紛争

――文化人として著名になる前、学生時代から研究者時代のお話も伺いたいと思います。舛添さんは、1968年の大学紛争の頃、東京大学の2年生ですよね。

舛添 東大紛争の時に、「法と秩序」が存在しない社会はこうなるのか、という縮図を見ました。機動隊の介入を阻止した結果、その中には日本の憲法や刑法が全く機能しない社会ができあがった。ゲバ棒なんです。力があるほうが勝つ。まるでヒトラー治世下のドイツみたいなものです。

 その時私が思ったのは、『ユートピア』を書いたトマス・モアのことです。つまり、文明社会は武力で自分を守るわけにはいかない、法律で守るしかないと。学生で、時間はたっぷりありました。「こういう社会にしてはいけない」、まずは勉強したいと思ったんです。

■「海外に行ってすいません」と始末書を書いてフランス留学へ

――なるほど。その後、学部卒で法学部政治学科の助手に採用されますね。それから1973年にフランス留学にこぎつけるまでに、始末書を書かされるなどひと悶着あったようですが。どうしてそんなことに?

舛添 私は、先生と同じドイツをやってもつまらないと思って、隣の国であるフランスに行きたいと考えていました。ところが、誰もフランスのことを教えてくれる人がいない。仕方がないので、パリ大学のある先生に「勉強したい」とだめもとで手紙を書いたところ、「すぐ来なさい」という返事をもらいました。

 しかしあの時代、約50年も前に東大の教授もまだ海外へ行っていないのに、助手の分際で、20代で行くとはけしからん、という雰囲気がありました。彼らは皆、文部省のお金で留学していたんですよ。それは50歳を過ぎて、60歳近くならないとお金が出ないものだったので、退職間際のお土産みたいな感じでした。私が今でも自慢に思っているのは、文部省のお金で留学に行ったことがないんです。フランス、スイスにはそれぞれの国から招かれて、ドイツにはアメリカのお金で行きました。

 まだ自分も行っていないのに先に行くとはけしからんと、「あいつをクビにしろ」という議論が教授会で起こっちゃったんです。すると「フランスに行かないと勉強できない」と擁護した先生もいたようで、クビと留学を足して2で割って、休職扱いになりました(笑)。

――休職は、軽い処分を受けたということなんでしょうか。

舛添 「海外に行ってすいません」という始末書を書いて出て行ったというね。行き先は、パリ大学大学院の国際関係史研究所というところでした。フランス政府の奨学金で行ったのですが、私費留学とは比べものにならない破格の扱いで、「フランス政府の留学生は貴族だ」と言われていたくらいです。学生食堂で1000円くらいのフルコースの食事を100円チケットで食べられるし、病気になっても面倒を見てもらえる。非常に恵まれた環境でした。

■戦後の異端・ペタン元帥の側近に聞き取り

――フランスでは、色々な人の聞き取りをされていたそうですね。レオン・ブルム人民戦線内閣の空軍大臣ピエール・コット、ド・ゴール政権の司法大臣ルイ・ジョックス、そしてペタン元帥の官房長官ルイ=ドミニク・ジラールなど。

舛添 これも、政府の留学生ということで便宜を図ってもらえたことが功を奏したと思います。フランスの国民議会、衆議院に当たるところは、国会の中に図書館があるんですが、パッと上を見るとドラクロワの天井画なんです。蔵書もすごかった。私が研究のために通っていると、「どこかで見た人だな」と。ド・ゴールの右腕だった人物が現役を退いた後、勉強のために本を読みに来ていたんですね。それで知り合うことができました。

 ペタン元帥の官房長官には、人づてに紹介してもらって自宅で会うことができました。ペタン元帥の姪御さんが奥さんで、お茶を淹れていただいて。

――ペタン元帥の側近だった人というのは、戦後のフランスではすごく生きにくいというか、大変だったでしょうね。

舛添 異端ですからね。ペタン元帥の弁明のための書籍を執筆していましたけど、そんなに売れるはずもない。要するに、私は片一方だけ、ド・ゴール派だけに固まらないで両方から見ようとしていたのだと思います。もしフランスが、ポーランドやルーマニア、チェコのようにヒトラーの直接統治になっていたら――。そう考えると、ペタン元帥はよく裏切り者と言われるけれども、少なくとも中に入って間接統治をやっていた。戦後はド・ゴール史観で固まっているので、抵抗、レジスタンスをやらなかった人は悪者になっているのですが、反ド・ゴール派に会えたというのはよかったと思っています。

■『舛添要一の6カ国語勉強法』という著書

――1997年に出版された『 舛添要一の6カ国語勉強法 』という本があります。フランス語でコミュニケーションが取れたことは、研究をするにしても大きかったのでしょうか。

舛添 そうですね。習熟度の度合いはもちろん違いますけれども、言葉というのは新しい文化に対する扉だと思うので、有用だと思います。私は、まず英語を義務教育で勉強して、2番目はロシア語なんですよね。高校生の時にロシア語を習っていたんです。3番目がフランス語。4番目がドイツ語。それから、スペイン語、イタリア語かな。なぜロシア語をやりたいと思ったかというと、トルストイが大変好きで、原語で読んでみたいと思ったから。それで、ソ連人の先生にロシア語をずっと習っていました。

――6カ国語を話せるということは、政治家をやるにしても役に立ちましたか? ?

舛添 一番大きかったのは、東京五輪を準備する過程で、非常に役に立ちました。私が2014年の2月初めに都知事選挙で当選して、その月末のソチ冬季五輪の閉会式にどうしても行かなければならなかった。IOCとの関係を良好にしておくためですね。IOC会長のトーマス・バッハさんはミュンヘンの人なんです。ソチでバッハ氏に会った時、ミュンヘンなまりを交えて話しながら、会談が終わって2人で肩を組んで歩いてきた様子に、都庁の職員が驚いていました(笑)。バッハ氏が東京に来られる時も、大体2人ではドイツ語でしゃべっていて。さらに創立者のピエール・ド・クーベルタンに敬意を表して、オリンピックの第1公式言語はフランス語なんです。第2が英語で、第3はその国の言葉。だから、そういう意味でも役に立ちました。
 

■孫文からヒトラーの本まで書いた私は「ジェネラリスト」

――同書では、日本ではスペシャリストが尊重され、「ジェネラリストを馬鹿にする風潮すら見られる」とも書かれています。

舛添 私は孫文の本からヒトラーの本まで書いていますし、基本的にジェネラリストなんでしょうね。日本にはスペシャリストが大勢います。ただリーダーになるなら、例えば総理大臣もそうですが、何にでも答えられないといけないです。一つのことを専門的にやるよりも、薄くてもいいから幅広く対応できるというのがリーダーの素質とも言えるでしょうね。?

――近年でも、「専門のことは専門家に聞け」「あれもこれも語る評論家は要らない」という人がいます。

舛添 専門家は必要です。ただ、医療の世界でもホームドクターがいるでしょう。そういう医者が、もしもの時に専門の大学病院に適切につないでくれる。社会や政治の問題でも、全体を俯瞰してくれる、ホームドクターみたいな人がいたほうがいい。私は、ジェネラリストがますます必要になっている気がします。

■リプライは「時々炎上しちゃってるから見ないです」

――舛添さんは政界を退いた後、現在もツイッターを利用して発信を続けていますけれども、リプライなどの色々な反応をご覧になっていますか?

舛添 いや、それを読んでいると時間がなくなるので見ないですね。時々炎上しちゃってるから(笑)。

――「来てるな」くらいで、すべてに目を通しているわけではないですか。

舛添 それよりも、正しく新しい情報をツイートしたほうがいいかなと思っています。

――文化人として多数のメディアに登場されていた時期、かなり多忙だったなかでネットを活用して、ずいぶん助けられてきたそうですね。

舛添 ある意味、長らくネットを活用していると、ネットの変化というんですかね。以前より大勢の人が利用して、すぐ炎上しやすくなっていると感じます。どういう風な使い方をしていけばいいのか、そろそろ考え直さないといけない。

 ネットとリアルの中間をもっと活用できないかと思うんですよ。もう亡くなった山形の政治家、加藤紘一さん。森(喜朗)さんを追い落とそうとした加藤の乱は、なぜ失敗したのか。やはり彼がネットやメールを「信じすぎた」からですよね。

 ものすごい数の「あなただけが頼りで、日本の救世主です。戦ってください。悪いやつをやっつけてください」というメッセージが来る。それを見て、「これだけの人が、日本中から俺を支持しているんだ」と反乱に踏み切った。ところが、その後に加藤さんが「失敗したけれども、ここまで支えてくれた全国の支援者の方々へご挨拶に参りたい」ということで、コンタクトを取ろうとしても、なかなか難しかったようです。人を集めて加藤さんの話を聞こうと実際に行動するようなタイプの人たちではなかったのでしょう。

■ネットをやらない、肉声じゃないと信じない政治家

――今、森喜朗さんのお話が出ましたが、森さんという政治家はどういうタイプの人なんでしょうか。

舛添 加藤さんとは全く対照的で、そういうインターネットのようなものを全くやらない。電話だけです。肉声じゃないと信じない。ある人をつかまえてよく言っていたのは、「お前、地元の県会議員や市会議員と何回飯食ったのか」「そんなことでちゃんと政治家をやれると思うのか」と。

 つまり、森さん的感性では、こうして会って一緒に酒を飲んで飯を食って、それでやっと政治が動くんだと。ある意味で非常に正しいんですよ。膝をつき合わせて話をすれば印象に残りますが、ちょっと名刺交換したくらいでは忘れてしまいますから。

――舛添さんの中で「ネットとリアルの中間」というのは、どんなイメージですか?

舛添 今これだけネットが活用できるようになった時代に、両方のいい所取りができないかなというのが、政治家稼業をしていた立場からの意見なんです。しょっちゅう忘年会、新年会でお酌して回って何次会。選挙区が小選挙区に決まっていれば、そうした会合からは逃げられないわけですよ。

 しかし今の時代、ネットを活用することによって、有権者と政策についての議論がうまくできて、それが政治活動につながるような仕組みを考えるべきですよね。せいぜい「何時にどこで演説しますから来てください」とか「今日はこんな様子でした」と動画を流すくらいはみんなやっているけれども、ヒューマンコンタクトに代わることをネットでやれるか。ここに懸かっていると思いますね。

写真=佐藤亘/文藝春秋

大バッシングから3年 舛添要一が語る「盟友・菅、森オヤジ、学習院の麻生」と「私が落ちていった理由」 へ続く

(辻田 真佐憲)

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