舛添要一の怒り「池内紀『ヒトラーの時代』に罵声を浴びせる研究者たちへ言いたいこと」

舛添要一の怒り「池内紀『ヒトラーの時代』に罵声を浴びせる研究者たちへ言いたいこと」

舛添要一氏 ©佐藤亘/文藝春秋

 ドイツ文学の大家である池内紀氏が7月末に上梓した新刊が、思わぬ波紋を広げている。『 ヒトラーの時代 』、それは80歳を目前にした池内氏が、〈「ドイツ文学者」を名のるかぎり、「ヒトラーの時代」を考え、自分なりの答えを出しておくのは課せられた義務ではないのか〉とあとがきに記す通り、入魂の一冊になるはずだった。

 しかし――。発売されるや否や、ドイツ近現代史の研究者を中心に、「初歩的誤りが多すぎる」「ドイツ現代史をなめている」といったなどの非難がSNS上を飛び交った。そうした声に対し、「池内氏が伝えようとしたメッセージを、彼ら研究者たちはまったく読めていない」と怒りの声を上げるのは、ほぼ同時期に『 ヒトラーの正体 』を上梓した国際政治学者・舛添要一氏である。

■なぜ池内紀氏『ヒトラーの時代』が出版されたのか

 先日、私は『ヒトラーの正体』(小学館新書)を上梓した。その2週間前、池内紀氏が中公新書から、『ヒトラーの時代』を出版している。同じタイミングでヒトラーに関する書籍が出版されたということに興味を持って、購入した。
 
 池内氏の著書を読んでまず感じたのは、執筆した氏の立ち位置が私と同じだということである。氏はヒトラーやナチズムの専門研究者ではない。ドイツ文学が専門だ。ちなみに私は政界入りする前は、ヨーロッパ政治外交史を学んでいたが、専門を聞かれれば、フランス外交史と答えていた。

 それだけにドイツについての知識は、私よりも遥かに抜きん出ている。そして、自分の専門を基礎にして、当時のドイツ人がなぜヒトラーを政権に押し上げたのかを考えている。行間からは、氏の現代社会に対する危機感が読み取れた。専門外分野での執筆は勇気がいることだが、この危機感がその原動力になったのだと思えば、氏の心境はよく分かる。私が、いまヒトラーを書いたのも、まさにその理由からだったからだ。

 ところが、池内氏の『ヒトラーの時代』に対して、ネット上では「炎上」と言えるくらいに非難、罵詈雑言のオンパレードである。しかも、それは素人からのものではなく、ドイツ近現代史の専門家たちによるものである。確かにドイツ語の翻訳などについて細かいミスがあり、これらが編集段階で発見できなかったことは残念だ。

 たとえば、ヒトラーの党、NSDAPを「国民社会主義労働者党」と訳しているが、「社会主義」と「労働者党」の間に「ドイツ」が抜けている。「ナチス」も通称と書かれているが、敵陣営による蔑称に過ぎない。また、党の機関紙名も、カタカナ表記に小さなミスがある。

 なぜドイツ文学の大家である池内氏がこのようなミスをおかしてしまったのか。池内氏の息子で、イスラム研究者の池内恵氏は、今回の件を「万年筆で書いているので今の編集者が判別できなくなった+気力体力が落ちて推敲・校正が十分にできなくなっているなど、様々な原因が考えられます。」とツイッターで述べているが、真相は分からない。校閲体制など、出版社側の問題もあるのだろう。

 私も、これまでに何十冊も出版しているが、編集者とともに何度もチェックして上梓しても、出版後に細かい誤記などがよく見つかる。拙著『ヒトラーの正体』にしても、既に誤りが指摘されている。版を重ねる際に直したいが、この本を買った人にとっては、その本がすべてである。その点は大いに反省したい。

 一方で、責任逃れをするわけではないが、人間だからミスは必ず生じる。だからこそ、親切に間違いを指摘してくれる研究者仲間や読者にはいつも感謝しているし、逆に著者のミスを見つけたときには知らせてあげることにしている。とくに研究者仲間ではそれが礼儀である。

■節度が一切ない指摘がSNSに盛んに投稿されている

 だが、今回の件では、節度が一切ない指摘がSNSに盛んに投稿されている。酷いものになると、「もうすぐ出るらしいあの本に比べれば、これでもましな方なのかもしれません」「舛添ヒトラー本予約。迎撃体制を整えた」と、嫌みにも私の本を念頭に置いて下劣なコメントを書く者もいる。

 また、参考文献に最新のヒトラー研究が欠落しているという、首を傾げたくなる批判が展開されている。これについては、自分の著書に関連する文献を著者が必要に応じて記載すればよいのであって、氏の本は「ヒトラー最新研究案内」でも「最新資料によるヒトラー」でもない。ドイツ文学者から見たヒトラーであるから、その関連の参考文献を掲げれば問題はない。私も、拙著の参考文献欄にすべてのヒトラー関連文献を網羅しているわけではないし、政治学者の立場から選べば、歴史学者とはまた違った取り上げ方もするのである。

 ところが、これらの点について指摘して、氏の本をまったく価値がないというような批判をしたり、氏の人格攻撃とも読める発言をしている者がいる。自分があたかもヒトラー研究の世界最高峰で、ヒトラーについて書いた本を、神のごとく異端審問するといった鼻持ちならない上から目線の攻撃である。親切にミスを指摘するのではなく、このような誹謗中傷を展開して自分の学識を誇るサディスティックな風潮は不快である。

■「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」

 間違い探しをして喜んでいる連中は、一方で、この本が発する大きなメッセージを見逃している。まず、この本のサブタイトルにある「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」である。

 当時の世界で最も民主的な憲法を持ったワイマール共和国で、ドイツ国民が民主的な選挙でナチスを第1党に押し上げたのはなぜか。それは、過酷なヴェルサイユ条約、失業とハイパーインフレなどによる生活苦境で国民の不満が高まり、希代のデマゴーグ、ヒトラーに期待を抱いたからである。

 そして、ヒトラーは1933年に政権を獲得すると、わずか3年間で600万人いた失業者を完全雇用レベルにまで激減させた。そして、労働者のための社会福祉政策、レジャーの充実、健康管理など、至れり尽くせりで、ユダヤ人迫害に無関心でいれば、ナチス政権を称賛する国民が増えるのも当然である。一方で、プロパガンダに全力をあげた側面やゲシュタポなどの恐怖による反対派の弾圧も忘れてはならない。

 以上のような点については、拙著でも解説しているが、池内氏はドイツ文学者ならではの色彩豊かなエピソードを交えながら記述している。ヒトラー本を初めて手に取る読者にもスッと頭に入るに違いない。

 そして、私が教えられた点もある。一つは、ドイツに渡った日本人写真家、名取洋之助(1910〜1962)の『 ドイツ・1936年 』という写真集についての言及である。当時、外国人写真家は、ドイツ国内で自由に撮影することは困難だった。ナチスが好む通りの「真のドイツ」を撮ることを義務づけられる。

 名取はナチスの指示通りに撮影しながらも、その危険性を感じ取っていたに違いない――池内氏は、写真に映りこむドイツの地方の町で暮らす人々の不自然な民族衣装や強ばった表情から、そう指摘する。そして、「後世へサインを送るようにして」(70 p)、ナチスに都合の悪い写真を撮り溜めた名取のことを高く評価している(写真が公表されたのは死後40年余りたってのこと)。

 また、ナチス式選挙に関して引用された南ドイツのメスキルヒという人口4500人の町についての言及も興味深い。この町はカトリックの力が強く、カトリック政党である中央党がヒトラーの政権獲得前後までナチ党よりも得票が多かった。熱狂的に支持されたナチスといえども、地方都市に目を向ければ、ナチ党が第1党を取れなかったドイツの町もあったのである。

 そのためヒトラーは政権をとると、全ドイツ社会のナチスへの一元化(グライヒシャルトゥング)を強制的に図った。ナチスは「何やかや理由をつけて市の職員を追い出し、古参党員から順にポストをあてがっていく」(180p)。一方で、「時流に敏感な小市民タイプ」は「小狡(こずる)く、小さな権力者にすり寄っていく」(同)。かくして、同市もまたたく間にナチス一党のみの運営になった。

■ナチズムの「母胎にあたるものは、ごくふつうの人々だった」

 以上のようなエピソードを挿入しながら池内氏が力説したかったのは、ナチスを支持し、ヒトラーを政権に就けたドイツ国民の実態であり、光と影である。氏は、「ナチズムの妖怪は異常な人間集団のひきおこしたものではなく、その母胎にあたるものは、ごくふつうの人々だった」(255p)と喝破する。
 
 氏がこの本で書きたかったのは、ヒトラーの実像ではなく、ヒトラーに従ってしまった大衆=「ごくふつうの人々」だったことが、この一文からよく分かる。その点は、私にも実感できる体験がある。

 ヒトラーが政治活動を始めたミュンヘンで、私は若いころ研究生活を送ったが、そのミュンヘンの下宿屋の親父さんが、「人生を振り返ると、ヒトラー時代が最高だった」といつも私に語っていた。一方で、私は休日を利用して、近くにあるダッハウの強制収容所を見学に行き、ユダヤ人などを大量に殺害したホロコーストの歴史を学んだ。ナチスの悪行は周知されているのに、なぜ、親父さんがヒトラー時代を礼賛するのか、その謎を解くべく、私は欧州諸国で研究を続けたことを、拙著を書きながら、何度も思い出したものだ。

 独裁者は恐ろしいが、独裁政治は、それに従ってしまう大衆を抜きにして語れない。その教訓は現代世界に通じる。移民排斥を掲げる極右政党の台頭、傍若無人なトランプ大統領の振る舞い、イギリスのEUからの離脱などのポピュリズムが跋扈しているが、これらに喝采する「ごくふつうの人々」が増えてきているのも事実だ。そして、人種差別やヘイトスピーチがまかり通っている日本も、その例外ではない。

 ヒトラーが政権をとった時代にあまりにも似てきている。そのような内外の情勢が私の危機感となり、ヒトラー入門書の執筆となった。80歳を前にした池内氏が、専門外というリスクをおかしてまで、この本を書いたのも同じような動機があったに違いない。

■「専門分野は、その道の専門家が書くべき」という風潮に対して

 研究者たちの「蛸壺社会」からの池内氏への批判には、魔女狩り的な匂いすらする。今回の件をもって、専門分野は、その道の専門家が書くべきだ、という風潮に流れるのだとしたら、それには断固として異議を唱えたい。人間の病に例えても、専門医が病原をいきなり発見するわけではない。総合的な医学知識を持つホームドクターがいて初めて、病は判明するのだ。

 歴史家や研究者が、歴史事実と現代の事象を安易に結びつけてしまう危険は、私もよく理解している。歴史修正主義にも繋がりかねない。だから、彼らに私たちと同じアプローチをとってまで、ヒトラーを論じるべきだと言うつもりはない。また、誤りは誤りとして、指摘してもらっていい。大きなメッセージさえあれば、細部を疎かにしてよいわけではない。むしろ、細部の積み重ねからメッセージは導かれるとも言えるだろう。

 だが、これだけは言いたい。日本や世界の危険な兆候に警鐘を鳴らす池内氏や私の取り組みを、ネットでの公開処刑によって、専門外の素人が書いた意味なきものとして腐す態度だけは、大いに反省するべきだ。

 繰り返すが、戦後の日本や世界の歩みを長く眺めてきた私たちには、危機感がある。日本や世界に危険な兆候が現れていることは、20世紀の怪物ヒトラー、そして彼による人類史上最悪の犯罪を研究してきた者なら、よく理解しているはずである。

(舛添 要一)

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