「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか

「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか

1935年8月12日東京朝日新聞夕刊は「兇刃に倒る」と報じた

■解説:日本のエリート官僚、その本質は変わっていない

 1935年8月12日午前9時40分ごろ、東京・市谷の陸軍省軍務局長室で、局長の永田鉄山少将が執務中、突然軍服姿の1人の軍人が侵入。逃げようとした局長に軍刀で切りつけた上、背中を刺し通した。

「省内で兇刃に倒る(危篤)」(朝日)、「左肩に深傷・遂に絶望」(東京日日)など、13日夕刊(実際は12日夕刊)は各紙1面トップで報じた。「危篤状態」のまま、自宅に帰宅しているのは奇妙だが、実際は即死だったのだろう。永田の経歴も触れられており、東日は「陸軍稀有の逸材」、朝日は「第十六期中の出世頭」との評価。同日午後4時、正式に死亡が確認された。

 13日朝刊で朝日は「永田局長逝去(中将に昇任)」、東日は「永田局長遂に逝く」と報道。同じ紙面では、自分の娘を芸妓屋に身売りした農民が遊郭で遊び続けたという話題を、「凶作地の娘は泣く」などの見出しで載せた。13日午後1時40分、陸軍省は、加害者は「陸軍歩兵中佐相沢三郎」と発表。「兇行の動機は未だ審らかならざるも永田中将に関する誤れる巷説を妄信したる結果なるが如し」とした。東日号外は「相沢中佐は剣道の達人」、朝日夕刊は「熱狂的な性質」と伝えた。

■永田斬殺を決意させた「真崎甚三郎教育総監の更迭」

 昭和の日本陸軍は、柳条湖事件以後、国家改造と満蒙(「満洲」と内モンゴル)問題解決を求める革新将校らが台頭。そのうち、天皇親政などを求める精神主義的傾向の強い「皇道派」と、軍の内部統制強化と総力戦のための国家総動員体制確立を目指す「統制派」に分裂した。統制派は、将校の養成機関である陸軍士官学校(陸士)と陸軍大学校(陸大)を卒業したエリート軍人が大半。その中心が永田で、1934年3月に軍務局長に就任すると、統制派の林銑十郎陸相(のち首相)の下、皇道派の将官を軍の中央から外す人事を進めたという。

 そのピークが、皇道派の青年将校の支持を集めていた真崎甚三郎教育総監の更迭。のちに「二・二六事件」を引き起こす青年将校らは強く反発して、「教育総監更迭は統帥権干犯」「元凶は永田局長」とする怪文書を作って配布した。陸軍省発表の「巷説」はその怪文書を指しており、皇道派の相沢中佐はそれに激高して永田局長殺害を決意したとされる。

「軍務局長(少将)が白昼、その執務室で同じ軍人(中佐)によって殺害されるという事件に、当時の派閥抗争の陰惨さと異常さがうかがわれよう」と戸部良一「逆説の軍隊」は指摘する。「下克上」が行き着くところまで行ったということか。

■今でも結び付けられる「永田軍務局長斬殺事件」と「二・二六事件」

 事件はこれだけで終わらなかった。皇道派は相沢中佐に対する軍法会議での公判を勢力巻き返しの宣伝の場に利用しようと画策。公判中は東京・麻布のフランス料理店で青年将校らが集まって公判報告の会合が開かれ、決起の気運が盛り上がった。

 1936年2月25日、皇道派の陸大教官による特別弁論。取材していた同盟通信の斎藤正躬記者は、1967年2月の東京12チャンネル(現テレビ東京)「証言・私の昭和史」で「聞いておりますと、はっきりとした現状変革なんで、これは当時の治安維持法にも触れるわけなんです。それを公開裁判で堂々というんだから、まあ、皇道派の人々の考えの宣伝というか、プロパガンダの場になっていたんです」と証言している。

 日本史最大のクーデター未遂事件が起きたのはその翌日。以後、流れは一変した。公判は非公開となり、5月7日、死刑判決。翌8日には、二・二六事件の引き金の一つとなった第一師団の満洲移駐第一陣が出発した。7月3日、死刑執行。遺骨が自宅に還ったことを伝えた4日朝刊の同じ紙面には、オリンピックに出場する日本選手団のベルリン到着のニュースが大きく扱われている。「相沢事件」とも呼ばれる永田軍務局長斬殺事件は、現在も「二・二六」と直接結び付けて語られる。

■現代の官僚にも通ずる、自己革新能力を失った日本軍

 早坂隆「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」の帯にはこうある。「東條ではなく、この男だったら太平洋戦争は止められた」。語り継がれている言葉の一つというが、その指摘は当たっているだろうか? 同書にあるように、永田が極めて優秀な軍人だったことは間違いない。幼年学校と陸士は首席、陸大では2番。まぎれもなく日本陸軍最高の頭脳だった。しかし、そこには根本的な問題があった。

 例えば、将官や参謀を養成する陸大の中身。陸大教官や校長を務めた飯村穣・元中将は「白を黒といいくるめる議論達者であることを、意志鞏固なりとして推奨したのではないか」と述懐したという(大江志乃夫「天皇の軍隊」)。戸部良一ら「失敗の本質」は指摘する。「日本軍は近代的官僚制組織と集団主義を混合させることによって、高度に不確実な環境下で機能するようなダイナミズムをも有する本来の官僚組織とは裏腹の、日本的ハイブリッド組織をつくり上げたのかもしれない」。その結果、「日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却(学んだ知識などを捨てて学び直すこと)ができず、自己革新能力を失ってしまった」。筆者に言わせれば、それは本質的な議論がないまま思い込みで一方向に動く組織だ。

 それから80年余り。いまも官僚はさまざまな問題を起こす。その本質は変わっていないのでは?

■「永田は戦争を止められたか?」日本型官僚エリートの限界

 ほかにも難問があった。永田は徹底した合理主義者だったといわれる。理念を踏まえて現実的な思考をする人間だったと。本編でも矢次一夫氏は「正直なインテリ軍人」と評している。軍令機関である参謀本部勤務はごくわずかで、陸軍省や教育総監部が長い。現場で指揮を執った経験もない。軍政家であって軍令(作戦や用兵)の人ではない。

 さらに「天皇の軍隊」によれば、「陸士16期生は陸軍史上では特別な意味を持っている」という。「大部分は留守部隊付、あるいは新設師団要員に留保され、戦場に出る機会を持たなかった」。高橋正衛「昭和の軍閥」も「十六期以降の軍人は戦後派であった」「永田たちが新しい陸軍の指導をしていくのだと決意したのは」「(戦場体験を持つ前の期の軍人との)断層の自覚が作用していたのではないかと思う」と述べる。いわば「戦場コンプレックス」だ。

 そうであれば、もし彼が生きていたとしても、例えば中国大陸からの日本軍の撤兵など、できたとはとても考えられない。それではアメリカとの戦争を回避することは難しかっただろう。万が一、手をつけることができたとしても、別の機会に暗殺されていたかもしれない。それが、どんなに優秀でも「日本型官僚エリート」の限界だったのではないだろうか。

■「政界の黒幕」と呼ばれた矢次一夫氏とは?

 本編の著者・矢次一夫氏も一筋縄ではいかない人物。安倍晋三首相の祖父の岸信介・元首相と親しく、本編の冒頭にあるように「政界の黒幕」と呼ばれた。経済人や軍人にも広い人脈を持っていた。歴史家やジャーナリストとは違う視点で興味深いが、いま読んで理解するにはもっと詳しい注釈が要りそうだ。

■永田鉄山とは違う道を歩いた陸士同期・小池七郎の人生

 昭和の軍閥について語るとき、必ず出てくるのが「バーデンバーデンの密約(盟約)」だ。1921年10月、永田と、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機がドイツの保養地バーデンバーデンに集合。(1)陸軍の人事刷新(長州閥専横の打破)(2)総動員態勢に向けての軍政改革――を確認した。陸士で東条だけは17期生だが、あとの永田、岡村、小畑は同じ16期生で「三羽烏」と呼ばれた。そのことを考えたとき、筆者は1人の人物のことを思い浮かべないわけにはいかない。それは、筆者の祖父で3人と陸士同期だった小池七郎だ。

 いま手元に「陸軍士官学校歴史附録生徒名簿」のコピーがある。祖父のことを調べていて入手した。そこには生徒名と「試験列叙」、つまり試験の成績順の序列が書かれている。成績は「豫(予)科」と「本科」に分かれる。「豫(予)科」とは陸士入学前、配属された原隊で1年7カ月、下士官として勤務した時の成績と思われる。本科は原隊から派遣された陸士在校時(この当時は1年間)の成績。日露戦争の勃発で約1カ月早く繰り上げ卒業した16期生は計549人。永田の成績を見ると、予科は4番、そして本科は1番だった。小畑は予科6番、本科4番、岡村は14番と5番。ほかに、戦後の東京裁判でA級戦犯として処刑された土肥原賢二は3番、6番、同じ板垣征四郎は68番と25番だった。この序列はこの後、現役の軍人である限り付きまとう。

 小池七郎は予科99番、本科125番。軍人としての将来を考えれば問題にならない成績だ。その後、永田らは陸大も卒業して順調に昇進。岡村、土肥原、板垣は大将に、永田と小畑は中将になった(17期の東条も大将に)。それに対して祖父七郎は原隊こそ歴史のある近衛歩兵第二連隊だったが、何があったのか、栃木・宇都宮の新設連隊に転属。そこで不祥事を起こしたのか、1年余の停職処分を受けた後、中尉のまま1914年6月、腸結核のため満33歳で死んだ。この月、ヨーロッパでは第1次世界大戦のきっかけとなるサラエボ事件が発生。永田は大尉でドイツ留学中だった。筆者の父は1歳のときに死んだ祖父を生涯誇りにしていたが、私とも共通するDNAを考えれば、彼が軍人向きだったとは思えない。残されたものは彼の元に届いた女名前の絵葉書九十数枚だけ。軍人として何を考え、何をしたかったのかなどは全く分からない。比較するのもおかしいが、陸士同期の軍人たちの事績を見るたび、エリート軍人の光と影を見た思いがする。

本編 「永田鉄山斬殺さる」 を読む

【参考文献】 

▽テレビ東京編「証言・私の昭和史(2)戦争への道」 文春文庫 1989年版
▽早坂隆「永田鉄山  昭和陸軍『運命の男』」 文春新書 2015年
▽大江志乃夫「天皇の軍隊」(「昭和の歴史3」) 小学館 1982年 
▽戸部良一ら「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」 ダイヤモンド社、1984年
▽高橋正衛「昭和の軍閥」 中公新書 1969年

(小池 新)

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