『いだてん』の水泳選手も 太平洋戦争に散った五輪アスリート「4つの悲劇」

『いだてん』の水泳選手も 太平洋戦争に散った五輪アスリート「4つの悲劇」

内田正練が出場した1920年アントワープ五輪、男子自由形100mの競技の様子。当時は野外の会場で行われていた ©getty

「戦没オリンピアン」という言葉がある。これは、オリンピックに出場したあと、戦争やテロなどの暴力によって命を落としたアスリートたちを指す(※1)。戦前に日本代表としてオリンピックに出場した選手のなかにも、日中戦争、太平洋戦争に出征し、戦死・戦病死したり、あるいは国内の空襲などで亡くなった人が少なくない。広島市立大学の曾根幹子名誉教授らの調査では、日本人の戦没オリンピアンは2016年までに37人が確認されている(※2)。そのなかには、広島で被爆し、戦後18年を経た1963年にその後遺症(白血病)で死去した選手も含まれる。この選手は高田静雄といい、1936年のベルリン大会の砲丸投げに出場していた。

■「日本にクロールを広めた男」内田正練

 37人のなかには、1920年のアントワープ大会で日本から初めて競泳に出場した一人、内田正練(まさよし)も含まれる。内田は現在放送中の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でも、主人公・田畑政治の地元の先輩として登場している。内田も田畑も1898年生まれで(ただし内田は早生まれで学年は1つ上)、浜名湾でともに水泳を習得した仲だった。

 内田はアントワープで100メートルおよび400メートルの自由形に出場したものの、いずれも予選敗退している。内田は得意とする日本泳法の片抜き手で泳いだが、欧米の選手たちのクロール泳法にはまるで歯が立たなかった。彼は帰国すると、競技から退き、日本でのクロールの普及活動に尽力することになる。

 北海道帝国大学(現・北海道大学)卒業後は、銀行や養魚場などに勤務し、1932年には南米アルゼンチンに渡って、大農園経営で成功を収める。母の死をきっかけに帰国するが、1941年に製糖会社の技師として東南アジアに赴任。その年の暮れに太平洋戦争が勃発すると、ビルマ(現ミャンマー)の独立運動家を支援していた南機関の鈴木敬司陸軍大佐と呼応してビルマ義勇軍の将軍となった。1942年にビルマからイギリスを追放した日本軍は軍政を敷き、ビルマ独立を主張していた鈴木大佐には帰国命令が出て南機関は解散、内田も陸軍の命令で帰国する(※3)。

 1944年、内田は海軍からニューギニア(現パプア・ニューギニア)の司政官に任ぜられる。しかし日本軍は首都ポートモレスビーから敗走し、兵士たちは栄養失調でばたばたと倒れていった。そのなかで内田は、食糧を勧められても、将来ある若い人にあげてくれとけっして口にせず、1945年2月、ニューギニア島サルミの山中にて47歳で死亡する(※2)。

■「幻の1940年東京五輪を夢見た」大江季雄

 1936年のベルリン大会で棒高跳びに出場した大江季雄は、アメリカ勢を相手に一緒に闘った西田修平と、銀と銅のメダルを2つに割って半分ずつつなぎ合わせた「友情のメダル」のエピソードで知られる。このとき、5時間あまりにおよんだ競技では、アメリカのメドウスが1位、セフトンが4位になり、最後に残った西田と大江で2位と3位を決めることになった。だが、両者ともすでに疲労が限界に達していた。そこで西田が順位決定戦の辞退を申し入れ、審判員も了解する。当時のルールでは、同じ高さを跳んだ複数の選手は、試技数に関係なくすべて同順位とすることになっており(※4)、西田も、決定戦を辞退した以上、自分も大江も2位になると思っていた。しかし、公式結果では、試技数の少ない西田が2位、大江が3位とされた。

「友情のメダル」は、結果に釈然としない西田が帰国後、大江に持ちかけて生まれた。この話は、戦前は修身の教科書にも掲載されたが、少なくとも当事者の一人である西田は、美談として伝えられるのは心外であったという(※5)。

 ただし、競技の翌日に行なわれた表彰式では、西田は大江に2位の台に上がるよう促している。これは、当時の日本の陸上・跳躍陣のあいだに、オリンピックで一度好成績を上げた選手は、次の大会ではさらに成績がよくなるというジンクスがあったのを踏まえてのことだ。西田は前回、1932年のロサンゼルス大会では2位だったが、ベルリンでも同じ順位に終わった。しかしまだジンクスが生きているとするなら、大江こそ2位にしておくべきだろう。そうすれば、すでに開催が決まっていた次回、1940年の東京大会では、年齢的にも最高の時期にぶつかる大江が優勝できるはずである……。西田はそんな願いを込めて、大江に表彰台の位を譲ったのだった(※5)。

 だが、東京オリンピックは1938年、日中戦争の悪化にともない返上される。1941年11月、27歳になっていた大江の所属する京都・福知山の歩兵第20連隊は、南方に向けて出発。その途中、12月8日に太平洋戦争が開戦する。それからわずか16日後の12月24日、フィリピン上陸作戦において大江は戦死した。

■馬術の金メダリスト「バロン西」

 西竹一は、1932年のロサンゼルス大会の馬術・大賞典障害飛越で金メダルを獲得、続くベルリン大会にも出場し、同競技では20位と惨敗、総合馬術個人でも12位にとどまったものの、大障害団体での日本の6位入賞に貢献した。

 男爵の家柄で、陸軍士官学校出身の職業軍人だった西は、オリンピックでの活躍により英雄にまつりあげられ、欧米でも「バロン西」の通称で知られた。だが、太平洋戦争中の1944年、陸軍中佐だった彼が戦車第26連隊長として送られたのは、猛暑と水不足の地獄の島と言われていた硫黄島であった。翌1945年2月に米軍の上陸作戦が始まると、日本軍はほぼなすすべもなく、将兵の自決があいつぐ。西は部下たちに「死に急ぎするな」と常に言い続けてきたが、その言葉はもはやほとんど意味をなさなかった。西もまた、1945年3月、激戦のなか42歳で戦死する。

 この硫黄島での戦闘中、西は包囲している米兵からその命を惜しまれ、「オリンピックの英雄、バロン西、出てきなさい」と投降を呼びかけられたという伝説がある。だが、この話については、ノンフィクション作家の大野芳(かおる)が、生還した彼の部下などに取材した結果、西の遺族への配慮から誰かによって創作されたものであると、ほぼあきらかにしている(※6)。部下の一人は、西が海岸で胸を撃たれて死んでいるのを発見し、敵に見つかるとまずいと思い、岩陰に隠したと証言した。そのとき部下は、生前の西が命の次に大事だと言っていた、ロサンゼルスオリンピックで使った籐の鞭を探したが、ついに見つからなかったという(※6)。

■「ベルリンの奇跡」1936年サッカー日本代表

 1936年のベルリン大会では、サッカー日本代表が当時の強豪スウェーデンに歴史的勝利を収め、「ベルリンの奇跡」としていまなお語り継がれている。このときの選手たちも、戦争が始まるとあいついで出征していった。最初に犠牲となったのは、ベルリン大会に参加するも試合への出場機会はなかった高橋豊二である。元首相・高橋是清の孫である高橋は、海軍に入隊して航空予備学生となったが、太平洋戦争開戦の前年の1940年、訓練中の事故で死亡した(享年26)。

 スウェーデン戦で同点ゴールを決めた右近徳太郎と、逆転ゴールを決めた松永行(あきら)も、それぞれ太平洋戦争で激戦地となったブーゲンビル島とガダルカナル島に送られる。松永は1943年1月、29歳(推定)で、右近は1944年3月、31歳で戦死した。

 さらに日本チームの主将を務めた竹内悌三は、召集後に配属された満州(現在の中国東北部)で甲種幹部候補生の選抜試験を受けて合格、訓練を経て陸軍主計少尉となる。しかし終戦直前の1945年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻、当地にいた60万人もの日本人が捕虜としてシベリアへ抑留された。竹内もその一人だった。極寒の地で、満足に食事も与えられないまま重労働を強いられるうち、日本人捕虜からは多くの死者が出たが、残念ながら竹内も1946年4月、37歳で病死する。

■戦没オリンピアンと2020年東京五輪のめぐりあわせ

 竹内の死は、2年後にようやく家族に伝えられた。それでも当時小学4年生だった娘の幹子(もとこ)はどうしても信じられず、もしかしたらどこかで生きていて、いつかきっと帰ってくるはずと思っていたという(※7)。ベルリンオリンピックの2年後に生まれた幹子は、母から父の思い出を聞かされるうち、スウェーデンという国の名に特別な響きを覚えるようになる。東京藝術大学卒業後には、東京のデザイン事務所を経て、北欧で照明器具のデザインを学ぶためフィンランドの照明設計事務所に入った。大学卒業後にスウェーデン語を独習した彼女は、その事務所に雇ってほしいと手紙を書き送っていた。やがて照明デザインに関心を抱くようになり、今度はドイツの照明デザイン会社に勤務する。

 なお、幹子は結婚して石井姓となった。石井幹子といえば、日本における照明デザインの先駆者として、ご存知の方も多いだろう。1989年より始まった東京タワーのライトアップも彼女の手になるものである。2002年の日韓共催のサッカーワールドカップ開催に際しては、東京タワーを日本代表のチームカラーのブルーで染め上げた。昨年12月には、皇居外苑のライトアップが始まったが、これも幹子が環境省より全体像づくりを委託されて手がけたものである。このプロジェクトは、来年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、皇居周辺の観光への活用のため進められた。亡き父とゆかりの深い北欧とドイツでデザインを学んだ彼女が、父とは違った形ながら、サッカーやオリンピックとかかわりを持つようになったことに、運命のめぐりあわせを感じてしまう。

※1 「『戦没オリンピアン』の人生をたどる」(「NHKニュース おはよう日本」ホームページ、2018年5月18日)
※2 曾根幹子・卜部匡司「日本人戦没オリンピアン名をめぐる混乱とその真相――ベルリンに届けられた大島鎌吉の作成名簿更新の試み」(広島市立大学国際学部『広島国際研究』Vol.22)
※3 三浦裕行『内田正練とその時代――日本にクロールがもたらされた頃』(北海道大学総合博物館)
※4 結踏一朗『リンデンの梢ゆれて――大江季雄の青春』(出版芸術社)
※5 沢木耕太郎『オリンピア――ナチスの森で』(集英社e文庫)
※6 大野芳『オリンポスの使徒――「バロン西」神話はなぜ生れたか』(文藝春秋)
※7 竹之内響介『ベルリンの奇跡――日本サッカー煌きの一瞬』(賀川浩監修、東京新聞)

(近藤 正高)

関連記事(外部サイト)